第10話 夜の御機嫌取り(壱)
どうにも己の性分とは合わないテーマパークへと連れて来られ、更には自分を捨てた逆玉男夫妻と鉢合わせをしてしまったことで、にこの機嫌は頗る悪くなっている。鬱屈とした気持ちを抱えて仏頂面を決め込んでいるにこの気分を変えようと、槐はあちこちに意識を向けさせてみようと試みたのだが――敢え無く失敗に終わっていた。
このままこの場所にいたとしても状況は変わらないようだと判断した槐はにこの手を引き、重苦しい雰囲気を引き摺ったままテーマパークを後にした。
槐が次ににこを連れて行こうとしているのは美容室のようだ。其処で化粧や着物の着付けなどを行う予定なのだと、にこは移動中の車の中で彼に説明を受ける。
「六月も半ばになって、蒸し暑さも出てきた時期に着物を着ろってか。暑くて死ぬ。嫌がらせかよ」
食事をする際には着物の着用を条件とされているのだったと思い出したにこは、軽自動車の後部座席やトランクの中にしまっていた荷物を全て一人で持とうとしている槐から軽そうな物を引っ手繰る。その際に、ギロリと睨みつけることを忘れずに。無理をしてフェミニストを気取ろうとするな、という念を送ってみたつもりだったのだが、槐は「荷物を持つのを手伝ってくれて有難う」と笑うばかりだ。
「着物といっても単衣だから、思っているよりは暑くはないよ。それにホテルは空調が効いているから、単衣の着物を着ていても過ごしやすいのではないかと思うんだ」
「……そうじゃなかったら怒るからね。くどくど文句言ってやるからね」
「うん。思う存分、僕に当たって」
事前に予約を入れていたらしく、美容室の受付はすんなりと済んだ。二人は一旦別れることとなり、槐は別室へ、にこはスタイリングスペースへと向かう。にこが恐る恐る椅子に腰掛けると、「お化粧はどんな風になさいますか?」「ヘアスタイルはどのようになさいますか?」と美容室のスタッフが笑顔で彼女に質問をしてきた。それらの質問に対してどう返事をしたものかと、にこは言葉を詰まらせることしか出来ない。化粧にもファッションにも興味のない女が粋がってあれこれと注文をつけたところで、出来上がるのはださくて仕様のない女であることは目に見えている。それならば、と、日頃から気になっていることだけ――肩にかかりそうになっている髪をもう少し切ってもらい、多過ぎる毛量の調節を御願いして、後はスタッフのセンスに任せることにした。
化粧を施してから、髪を整えていく。手際の良い作業をぼんやりと眺めているうちにヘアスタイリングは終わり、別室に移動して、着物の着付けをしていく。そういて出来上がった自分の姿を姿見で確認したにこは――複雑な表情を浮かべた。
痛んでいる髪にトリートメントを施して艶を出し、梳き鋏で量を調整し、ボブカット程度の長さに切り揃えられて単衣の着物を着た結果、出来上がったのはコケシのような女だった。
「このような感じで宜しいでしょうか?」
「あ、はい」
此方の要望を守って頂いた結果ですから、文句はありません。貴女の技術の問題ではありません、素材の問題です。と、ブツブツと内心で呟きながら受付の方に戻ると、其処には濃紺のダークスーツに身を包んだ槐が椅子に座って待っていた。彼はにこに気がつくと瞠目して、ゆっくりと立ち上がる。
「にこさんは着物が似合うね。凄く、綺麗だ」
「あら、有難う。嬉しいわー」
他人様がいる手前、いつものような暴言を槐に向かって吐けない。それは社会人としてしてはいけないのではないかと、頭の中で警鐘が響いたらしい。にこは頑張って笑顔を作ってみるが、目がどうしても笑ってはくれない。口元を綻ばせている槐は会計を済ませていたらしいので、荷物運びを手伝ってくれる男性スタッフを伴って美容室を後にし、最寄のコインパーキングへと移動する。手伝ってくれたスタッフに礼を言ってから車に乗り込む。走り出した車のバックミラーからスタッフの姿が消えた頃を見計らってから、にこは不気味な笑顔の仮面を剥がした。
「何をどう見たら綺麗だと思えるわけ?どう見ても年くったコケシじゃねえの」
姿見に映っていた自分はどうやってもそのようにしか見えなかった。着物を着るのも三歳の七五三以来で、着慣れない着物を着て動きが制限されていることにも、にこは臍を曲げる。美しくなれる筈だと期待していた訳ではないが、現実はやっぱり甘くなかったのだ。
「それにさあ、人に着物を着ろって言っておいて、あんたは何で洋装なんですかー?やっぱり嫌がらせかよ」
「にこさんはきっと着物が似合うと思っていたから、着物を着ているにこさんを見てみたかったんだ。それで折角のデートだからと我が儘を言いました。付き合ってくれて有難う、にこさん」
「胴長短足の上に寸胴ですからね、そりゃあ着物向きの体型でしょうよ。髪型もおかっぱで、立派なコケシになりましたよ」
「似合っているよ、綺麗だよ。コケシには見えないよ」
「はいはい、そりゃどうも」
その割には通り過ぎていく人が私に気がついて、ぎょっとした顔をしていきますけどね。と言いかけて、にこはぐっと飲み込んだ。
**********
槐の安全運転によって無事に辿り着いた先にあったのは、本日最後の目的地であるホテルだ。有名建築デザイナーによってデザインされたお洒落な高層ビル、といった風情――にこの目にはそう映る――のホテルからは、富裕層の宿泊客を対象としている高級ホテルですと言わんばかりの雰囲気が漂っていて、にこは思わず寒気を感じた。
槐にエスコートされたにこは、温かな橙色がかった明かりで照らされているロビーに足を踏み入れる。槐が受付でスタッフとやり取りをしている間、何もすることがないのでにこはロビーにあるソファに座ることにした。流石は高級なホテルだ、ロビーにあるソファーの座り心地は抜群だ。
ふと視線を上に向けると、重量がかなりありそうな豪奢なシャンデリアが天井に吊るされていることに気がつく。照明の光を反射してキラキラと輝いているのは、お高いことで有名なクリスタルガラスという代物だろうか。ぽかんとした様子でそれを見上げつつ、シャンデリアの値段を想像していたにこは「運悪くあれが落ちてきたら、下敷きになった人は確実に即死するな」と縁起でもない、碌でもないことを考えてしまう。
「にこさん、お待たせ」
槐は空想の世界に行っていたにこを現実に引き戻すと、上層階にあるスイートルームに連れて行く。ホテルといえばカプセルホテル、或いはビジネスホテルしか利用したことがないにこは、生まれて初めて足を踏み入れたスイートルームなるものを目にして、素直に思った。内装の豪華さなどに違いはあれども、槐の自宅とそう大して変わらないなと。槐の自宅に通うようになって感覚が随分と毒されてきたのだろうかと、少しぞっとする。
ゆったりと出来る広さのリビングルームの向こうに見えるテラスに出ることは出来るのだろうかと考えていると、後ろの方で人が動く気配がする。怪訝な表情を浮かべたにこが振り返ると、数人のスタッフがリビングルームに食卓と椅子を用意しているのが見えた。
「にこさん、お腹が空いたでしょう?食事にしよう」
「へ?」
着物を着せられたので、てっきり食事は和食で、座敷で正座をさせられるものだとにこは思っていたのだが、そうではなかったらしい。階下にあるレストランなどに赴くことはなく、この客室の中で食事をするのだと理解したにこは。染み一つ見当たらない純白のテーブルクロスが敷かれた食卓の席に着く。卓上に並べられていく、美しく盛り付けられた食事をぼんやりと眺めていると対面にいる槐が表情を曇らせた。
食事の用意が終わり、乾杯酒のロゼワインをグラスに注ぐと「どうぞ、ごゆっくりとお食事を楽しんでください」と告げて、スタッフが退散していく。彼らの気配が消えるのを待ってから、槐は恐る恐る口を開いた。
「若しかして、フランス料理は苦手だった?」
眉間に皺を寄せて俯き黙り込んでしまっているにこ。彼女の機嫌をまたしても損ねてしまったようだと、槐は焦っている。
「好きも嫌いも分かんねーわよ。フランス料理なんて食べたことねーんだもの。ていうか、こんな無駄に高そうなホテルにも来たことない。悪いけど、テーブルマナーなんて高校生の時にさらっと教わった程度でちゃんと覚えてねーから。何?恥をかかせようとしてんの?」
「安心して、僕もテーブルマナーに自信がある方ではないよ。だからレストランではなくて、部屋食にして貰ったんだ。此処でなら、多少マナーが悪くても人目につかないでしょう?それに箸も用意して貰っているから、フォークとナイフに苦戦することもないよ」
自分が知っていることであれば作法について教える。マナーは最低限のことを気にするくらいにしておいて、今夜は食事を楽しもうと言って、槐がふにゃりと笑う。
「この高そうな着物、絶対に汚すよ。あんた、お母さんからこの着物借りてきたんでしょ?怒られるんじゃない?」
「汚したとしても問題はないよ。染みの落とし方は知っているし、それに腕の良い着物クリーニング店も知っているから」
そう言われてしまうと、これ以上文句を言うのも何となく気が引ける。槐がワインの入ったグラスを手にしたので、にこもグラスを手にし、乾杯をした。飲んだことのないロゼワインを一口飲んで、グラスを置く。美味しいのか美味しくないのか、にこの舌ではよく分からなかったので思わず首を傾げてしまった。そして、にこは視線を前方に向けて、槐の行動を観察する。
テーブルマナーに自信がないと言いつつも、慣れた手つきでフォークとナイフを使うのだろうと疑惑の念を向けていたのだが、槐は箸を使っている。初めのうちだけだろうと思われたが、一向に箸からフォークに変えたりする気配がない。そのことに少し安堵して、にこも彼と同じように箸を使って料理を食べることにした。
(……美味しいな)
食べ慣れている質素な手料理とは違う、味付けがしっかりとしていて、盛り付けにも配慮がされている料理を口にすると、にこの頬が緩んだ。それを見ていないようで見ていた槐もまた笑みを浮かべ、ぽつぽつと話しかける。それに対して適当に相槌を打ちながら、にこはそうそう食べる機会がない高級な料理をじっくりと味わう。一口につき最低三十回は噛む。少ない量の食事で満腹感を得る為に身についてしまった、にこの癖だ。
そうして静かな食事が終わると、夜風に当たりたくなったにこはテラスに出た。手摺に凭れかかって夜景を眺めているようなにこの頭の中は、腹が膨れたので帯がきつい、早く着物を脱ぎたいといったことでいっぱいだ。
「夜景が綺麗だね」
いつの間にか隣に立っていた槐が声をかけてくる。にこは其方に目をやらずに、返事をした。
「電気代が勿体ねーと思わない?世の中さあ、あれだけエコだの何だのと言ってるくせに、こんなにも電灯をチカチカさせてるとか、矛盾してんじゃないの?」
「……そうかもしれないね」
夜景の美しさの感動をにこと共有しようというのが間違いだ。彼女には風情や情緒を感じ取るという感覚が欠けているのだということを思い出して、槐は苦笑する。けれども、それが槐の好きなにこだ。だからこれで良いのだと納得して、苦笑が喜びの笑みに変わる。
「ねえ、後はもう寝るだけでしょ?着物脱ぎたい。これ以上着てるとゲロ吐く」
「待って、一枚だけ……にこさんの写真を撮らせて欲しいんだ。……良いかな?」
「はあ?写真?……一枚につき五百円を要求するけど、それでも良いならどうぞ?」
「分かった」
にこは写真を撮られるのがあまり好きではない。故に照明写真以外は基本的に写真撮影をお断りしているので、代金を請求したら諦めるだろうと踏んだのだが――その目論見は外れた。槐は財布を用意し、千円札を一枚にこに手渡してきた。五百円玉も、百円玉五枚も丁度なかったらしい。一枚につき五百円と言ってしまっているのでおつりを渡すと答えると、槐は「我が儘を聞いて貰っている御礼だから」と言って、おつりを受け取ろうとしない。にこは表向き渋々と、内面では嬉々として千円札を受け取ることにしたのだった。
財布をしまい、スマートフォンを取り出した槐はテラスの手摺際ににこを立たせて、写真を撮る。せめてもの抵抗として仏頂面を決め込んだにこに、槐が苦言を呈することはなかった。カメラの機能を使って色々と調節をしたのでにこは勿論のこと、その背後にある夜景も綺麗に撮れていた。それに満足した槐は早速その写真をスマートフォンの待ち受けに設定したのだった。
二人はテラスからベッドルームに移動し、にこは槐に手伝って貰いながら着物を脱ぐ。帯を解かれたことで何ともいえない開放感を得た彼女は大きく息を吐いた。
「はぁ~~~生き返るわ~~~。よし、さっさと風呂に入って寝よう。風呂の準備をしてくる」
「お疲れ様です」
一人で着物の後片付けをする槐をその場に置いて、肌襦袢姿のにこは軽い足どりでバスルームへと向かう。ジャグジーつきの広い湯船に湯を張ると、彼女はふと気がついた。
(交通費もテーマパークの料金も、宿泊料金も何もかも槐持ちだったよな。少しくらいは御機嫌取りしておいた方が良いかな?)
スポンサーである槐の機嫌を取ることは、しないよりはした方が良さそうだ。此処はホテル。ホテルといえば、することは大体決まっている。策を思いついたにこは早速行動に移す。
槐がいるベッドルームへと戻ると、上着を脱いでネクタイを外し、シャツの襟を開いた槐がベッドに腰掛けていた。開かれたクローゼットの中に、衣紋掛けに掛けられた着物や帯などが見えたので、片付けは一段落ついたのだろうとにこは判断する。
「槐、片付けは済んだ?」
「うん」
「じゃあ、こっちにおいでよ」
きょとんとしている槐の手を引いてバスルームに連れ込むなり、にこは槐の服を脱がしにかかる。すると何かを察した槐が抵抗するので、にこは一旦手を止めた。
「何してんの。服を脱げ」
「僕はにこさんの後にお風呂に入るから、大丈夫。だから、どうぞ、ごゆっくり……っ!」
赤面した槐がその場から逃げようとするので強引に捕まえて、にこは脱衣スペースの壁に槐を追い詰める。いつだったか槐にされたように、両手で壁ドンをして逃げ場を奪う。とはいっても、槐も男だ。男女の力の差を考えれば、用意に脱出出来てしまうのだが。
「あのさあ、私らって一応恋人でしょ?だったら風呂くらい一緒に入っても良いと思うんだよね。サービスするよ?」
態と小振りな胸を押し付けて、上目遣いで猫撫で声を出してみると、槐は体をびくりと強張らせて、目を逸らした。あからさまに動揺しているのだと分かって、にこは何だか楽しくなる。相手が大人しくしているうちに服を脱がせてしまおうとシャツのボタンを外そうとすると、彼の震える手がそれを制した。
「そうなのかもしれないけれど、でも、僕は……」
にこと交わりたいという欲はある。けれども、それを表に出すようなことはしたくはない。にこを性欲の捌け口にしていたという、あの男と同じだと思われたくはない。実物を目にしてしまった後だからだろうか、特にそう思うのだ。
「ああ、私の体に飽きた?そっか、それなら仕方がないね。生意気に誘ったりして悪かったよ。どうしてもやりたくなったら言ってよね、相手するか――」
「違うよ!違う、そんな理由じゃなくて……っ。に、にこさんの裸を見ると、ぼ、勃起してしまうから……駄目だよ……っ」
「は?意味が分からん。ていうか、何で私の裸見た程度で勃起すんの?」
動揺している槐は思いを伝えようとするが、口から出てきた言葉はとんでもないものだった。案の定、にこを大切にしたいと思っている、という本音は彼女には伝わらない。いや、今までも槐の思いは正確ににこに伝わった試しがないのだが。
「~~~にこさんのことがどうしようもなく好きだからに決まってるじゃないかぁ~~~っ」
結局のところ、にこは槐のことを幼馴染兼雇い主程度にしか思っていないから、あんなことを言ってくるのか。そんなことを想像して悲しくなった槐の喉から出た声は、とても情けないものになってしまった。それが余計に惨めで、自然と目頭が熱くなり、涙が溢れて頬を伝って落ちていく。
(うわー、大学生になっても変わってねー。直ぐに泣くとか、小学生かよ……)
槐が突然泣き出したので、にこはぎょっとし、同時に槐の情けない泣き顔を目にしてドキドキとした後に、涙を流し、鼻水を垂らしている小学生の槐が脳裏に浮かんできて、笑ってしまいそうになるが何とか堪えた。
「……別に良いよ、裸見て勃起したって。男としての正常な反応なんじゃないの?折角だからサービスしてあげようかと思ったけど、槐が嫌だって言うなら諦めるわ。無理強いは良くないしねー……」
「……っ、ぐすっ、入る。一緒にお風呂に、入る」
「へっ?」
適当に放った言葉に対して予想もしていなかった返事が来たので、にこは硬直した。
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