第9話 六月十三日の愚行
よりにもよって、どうしてあの男が視界に入っているのだろうか。にこは念の為に目を閉じ、深呼吸をしてからもう一度目を開いた。アレは幻だと思いたかったが、目に確りと奴は映っている。よって、今見ているのは現実であると思い知らされる。
(……てーことは、あの……茶髪のくるくるパーマの、ちょっと痛い格好してる女が高田部長の娘?つまりはあのクソ野郎の嫁か)
噂で聞いただけなので実際のところは分からないのだが、それが正しいのであれば奴の嫁――高田部長の嫁は二十八歳くらいだったはずだ。にこを捨てた男は二十七歳なので、一歳違いの年上女房ということになる。所謂”アラサー”と呼ばれる類の女性が、いかにも十代後半から二十歳そこそこの女がするような格好をしていると――本人の顔の造形や身長などにもよるが、正直に言って、きつい。頑張って若い子向けの化粧などをしているようだが、結構きつい。
――その格好はねえわー。
と、あからさまな悪口を言ってしまいそうにあったので、にこは慌てて口を閉じる。本人が良いと思ってしている格好に文句をつけると、大抵その先に地獄が待っていることは経験で知っている。そもそも状況に応じた服装をするという概念が欠けているにこに、彼女のことを悪く言う資格はない。
(……ああいう頭の軽そうな、夢見がちな女が良いとか、趣味が悪いんじゃねーの?まあ、自分がいないと何も出来ないから管理してやってんだっていう優越感には浸れるか。……ああいう女だったら、良かったのかな)
だから自分のような融通の利かない、面白くもない貧乏臭い後ろ向きな女は精々が遊び相手止まりなのだろうなと考えついて、空しくなる。
(人のことを使い終わったコンドームみたいにあっけなく捨てておいて、別の女と結婚して幸せそうにしてるクソ野郎の神経は理解出来ねーわ。ん?つーか、結婚出来たんだ?二股かけてたのが会社の人たちにバレちゃったのに)
夫が結婚前に二股をかけていたことをあの嫁は知らないのだろうか?などと考えながら眺めていると、夫の方とばっちりと視線が合ってしまった。相手はにこの存在に気づくなり露骨に嫌そうな顔をする。それに腹を立てたにこがぎろりと睨むと、相手はあっさりと視線を外して、新妻に笑顔を向けた。
変わり身の早さは相変わらずのようだと分かり、にこは呆れる。
(……はん、根性無しが)
性欲の捌け口としてぎりぎりまでにこを利用し、結婚を祝ってくれている職場の面々の前で捨てた女に拳で殴られ、それまでのことを暴露されて赤っ恥をかいたあの男。悪行が露見しても結婚出来たのは何故だろうかと思いはするが、尋ねる気はない。他人の幸福など、にこにはどうでも良い話だ。
(あんな奴を娘の婿と認めるあたり、高田部長も駄目人間かもね。噂だとイイ年した娘を溺愛してるらしいし……)
そういえばあの最低男からは一言も謝罪はなかった。あの男にとって、にこには詫びる価値はなかったのかもしれないと想像してしまい、忘れかけていた怒りと恨みが蘇ってきてしまった。
(槐の奴、遅い!飲み物一つ買うにも苦労する……かも、あいつ。そうだ、あいつは世間知らずのお坊ちゃまでした。年商ウン十億の会社社長の息子でした)
槐が向かっていった売店のワゴンの方へと目を向けると、そこには列が出来ていて、槐の前に並んでいた若いカップルに漸く順番が回ってきたところのようだった。そのカップルは後ろに並んでいる人々のことなどお構い無しで、いちゃいちゃとしながら注文に時間をとっている。そのことに苛立っているオーラが、後ろに並んでいる人々から漏れ出ていても、彼らは全く気にしていない。
(並んでるうちにメニューを見て決めておけば手間取らないのに……要領悪っ。あらあら、槐くんってばまた女子の視線集めちゃって。おもてになりますねー、良かったですねー、そっちに乗り換えてくれないかなー)
などと、にこが内心で悪態を吐いていると、槐が不意に振り向いたので、彼女は驚いて身を強張らせた。にこと目が合った槐は申し訳なさそうに微笑み、「もう少し時間がかかりそうです」とジェスチャーをしてくる。「はいはい」と了解を告げるように気だるげに手を振ると、槐はもう一度申し訳なさそうに微笑んで、視線を前に戻した。槐を使いっ走りにしている相手がにこだと分かった女子たちの刺々しい視線を浴びたにこは、今度は反撃に出ずに知らん振りを決め込んだ。
(嫉妬だけしても無駄だし。そんなことにエネルギー使わないで、他のことに使えばいいじゃないの。槐をナンパでもして、横から掻っ攫っていけばいいんだよ)
それで槐の心が動くのであれば、にこは槐を軽蔑する――「ほら見たことか。やっぱり裏切ったじゃないか」と。かといって槐が心変わりしないのであれば、それはそれで「あんたの頭どうなってんの?大丈夫?」と疑いの目で見てかかるだろう。
どちらに転んでも猜疑心を向けることしか出来ないのは育ってきた環境のせいだということにして、にこは盛大な溜め息を吐く。
「――にこ」
嫌っている下の名前で呼ばれたにこが眉間に皺を寄せて、顔を上げる。いつの間にやら新妻と離れて行動している最低男――
「何でお前がこんなところにいるんだよ。無駄遣いなんだろ?こういうところに来ることはさあ」
「誘われたから来てんだよ、てめえには関係ねーだろ。ていうか気安く下の名前で呼ぶな、皮被りしめじ」
にこが席を立つことなく踏ん反り返って鼻で笑うと、川中は苛立ち、ちっと舌打ちをした。
「お前のせいで恥かかされて大変だったんだぞ。高田部長には滅茶苦茶叱られるし、
「ああ、手切れ金ですかー?確か3万円くらいでしたっけ、中身?はいはい、そんなもの渡されましたけど受け取ってませんので偉そうにされましてもねー。それだけのことをしたんだから報いは受けて当然でしょーが。いいじゃないの、結局は結婚出来てんだし。ほら、出世したいが為に目をつけていた奥様は何だか頭が軽そうな人みたいだから、言い包めるのは簡単だったんでしょ。俺に必要なのは君だけだ、君が大切だから手を出せなくて他の女に手を出してしまったんだ、だからあの女とは一時の過ちだったんだ、俺を信じてくれよとか言って。娘を溺愛していらっしゃる高田部長のことだからお足りない娘に懇願されて、この屑を娘婿として認めざるを得なかったとかそんな話なんじゃないですかー?」
一気に捲し立てて喋ったにこの予想が的中したのか、あまりにも虚仮にされたので腹を立てたのか、川中はぐうの音も出せないらしい。代わりに肩をいからせて、より一層威圧感を与えてくるが、にこは平気な顔をして明後日の方向を眺めている。出来る限り、この最低男を視界に入れていたくないらしい。
「お、おまっ、お前っ!」
「――お待たせ、にこさん」
何とか反撃に転じようとした川中を制したのは、槐の穏やかな声だった。思わぬ闖入者に出鼻を挫かれ、川中は押し黙るしかない。
にこが目を離しているうちに買い物を済ませていたらしく、彼は可愛らしいキャラクターのプリントが入った紙コップを両手に持って、彼女の許へと戻って来ていた。
「お水は売っていなかったから、代わりに冷たい烏龍茶を買ってきたのだけれど、良かったかな?」
「はいはいどうも、有難うございまーす」
烏龍茶が入っているらしい紙コップを引っ手繰るように受け取り、にこはそれに口をつける。思っていたよりも喉が渇いていたようで、一気に半分ほど飲んでしまった。
「ところでにこさん、此方の方は何方?お知り合い?」
「前に勤めていた会社の社員で、部長の娘と結婚した逆玉野郎だよ」
「そうなんだ?御挨拶が遅れました。初めまして、彼女とお付き合いをしている二連木と申します」
「えっ、は、初めまして、川中です……」
にっこりと微笑んで挨拶をしてきた槐に拍子抜けしたのか、川中は大人しく挨拶を返す。すると後ろの方から、ぱたぱたと足音を立てて、誰かが近づいてきた。
「ああ、もう!健児くんったらこんなところにいたのね!はぐれちゃったかと思った!」
現れたのは高田部長の愛娘改め、川中健児の妻、絵梨菜だ。お手洗いに行っているうちに夫の姿が見当たらなくなったので探し回っていたのだという。その証拠に、彼女の息は上がっている。
「悪い悪い、つい……」
「全くもう!……あら?ねえ、この人たち、どちら様?知り合いなの?」
「え……と、こっちの人は会社の元同僚みたいな感じで、こっちの彼はそのお連れさん」
「連れではなく、彼女の恋人です」
挙動不審に二人を紹介する夫の様子を気にすることなく、新妻は慌ててお辞儀をしてきた。
「初めまして、川中健児の妻の絵梨菜です。健児くん――じゃなかった、主人がお世話になっていたみたいで……」
漸く席を立ったにこは新妻の前に仁王立ちして、不敵な笑みを浮かべて口を開く。
「貴女と結婚される直前まで御主人の下の世話をしていた女です、どうぞお見知りおきを」
「え?」
「おい、に……媚山!」
にこの爆弾発言に新妻が凍りつく。夫が青ざめながら慌てて新妻を引き離す姿を見て、にこは気分が良くなった。
「にこさん、その冗談は悪質だよ。お二人に失礼だ。川中さんには随分と親しくして頂いて、色々とお世話になりました、と言った方が良いと思うよ。……すみません、悪気はないのですが彼女は少し冗談が過ぎるところがありまして……。御不快な思いをさせてしまいまして、申し訳ありません」
「え、い、いいえ……ちょっと驚いただけですから、大丈夫です」
悪びれた様子を見せないにこに代わって、槐が夫妻に謝罪をする。新妻は槐の顔を改めて見て、その造形の良さに見惚れて頬を染めた。それが面白くない夫の川中は口をへの字に曲げる。
にこは我関せずとばかりに、カップの中に残っていた烏龍茶を飲み干して、近くにあったゴミ箱に空になったカップを捨てる。そして振り向きざまに、舞い上がっている新妻の質問に答えている槐に声をかけた。
「槐、行くよ」
「はい。それでは失礼致します」
「は、はい……」
槐を連れてその場から離れていくにこは、ちらりと目を動かして、川中夫妻の様子を盗み見る。槐に見惚れて、目をハートにしている新妻を強引に振り向かせた川中が何事かを訴え、それを耳にした新妻が不機嫌になり、やがてはちょっとした揉め事に発展していっている。その光景を目にしたにこは「ざまあみろ」と心の中で言い、鼻で笑う。
(ん?)
はしゃいでいる人々と擦れ違いながら当てもなく歩いていると、後ろを歩いている槐が断りもなく手を繋いできた。にこはその手を振り払おうとしたが、槐はぎゅっと手を握りしめて抵抗する。
――そうだ、”恋人”なんだから手を繋いでいる方が自然でした。と、思ったにこは諦めて、そのままにしておくことにする。にこが手を離すことを諦めたのに、槐はその手の力を緩めようとはしない。彼は逡巡した後に、ぽつりと呟いた。
「――今の人が、にこさんが前に付き合っていた人?」
「あ?そうだけど、だったら何なの?」
槐の唐突な質問に、にこは思わず眉根を寄せる。以前に誰かと交際していたことを、槐に話した覚えがないので「何でそんなことを知ってんの?」と疑いの目を向ける。すると槐は、酔っ払い強姦事件の際のにこの寝言などで知ったのだと答えた。
(何てことをしてくれやがったんだ、酔っ払いの私め……)
今後は酒の飲みすぎに気をつけようと、にこは心に決める。
「……あの人のどこが良くて結婚しても良いと思ったのか、訊いても良いかな?」
「私のことが必要だって言ったから、信用しちゃったんだよ。馬鹿だよね。必要だったのは本当だよ、性欲の処理をしてくれる金のかからない女が欲しかったんだから。私はその条件に丁度引っかかったんだよ」
にこは歩みを止めて振り返り、「あんたもそうなんでしょう?」と槐に問いかける。態と傷つけるように意地の悪い笑みを浮かべて。にこの目論見通り、槐は傷ついたような表情を浮かべた。
「……僕はにこさんを必要としているけれど、そんなことは望んでいないよ」
「はははっ、嘘だね」
「本当だよ」
「嘘だよ」
否定の言葉を重ねると、言葉を紡ぐのを止めた槐が目に悲しみを湛えて、俯いた。
――勝った。と思ったにこは槐の様子が滑稽に見えて、気分が良くなって――そして、空しくなった。
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