第8話 六月十三日の苦行
――遂に槐に約束を取り付けられていた日、六月の十三日がやって来た。太陽光を遮るほどに雲が多い、憂鬱になりそうな天気だ。雨が降るといけないのでと、にこは手提げ鞄の中に折り畳み傘を入れておく。
一泊するというので大きめの鞄と手提げ鞄を携えて、にこは自宅アパートの近くで槐がやって来るのを待つ。槐が車で迎えに来てくれるらしい。”デートである”ということを考慮して、ファストファッションの店に赴いて、デニム地風のワンピースを購入してきたにこはそれを着て、安売りをしていたサンダルを履き、百円均一で揃えた化粧品を使って顔に細工を施していた。この時点で、彼女はそれとなく疲れている。
そろそろ約束の時間になるだろうかというところで、向こう側から軽自動車が走ってくる。ライトブルーの塗装が施された軽自動車は彼女の手前で停車し、運転席の扉が開いて、清潔感溢れる服装をした槐が降りてきた。
「おはよう、にこさん。待たせてしまったかな?」
「いや、別に……」
てっきり運転手付きの高級外車でやって来るものだとばかり思っていたにこは予想が外れたことに唖然とする。槐が自動車の運転が出来るとは思ってもみなかった上に、彼が運転してきたのが軽自動車であったことにも驚いていると、流れるように槐が彼女の手荷物を奪い、トランクに積み込んでいく。
乗車を促されたにこは渋々助手席に座り、道路交通法に従ってシートベルトを装着する。後部座席に座ろうとしたのだが、木で出来た長方形の薄い箱が置かれていたので座れなかったのだ。
(……今日が命日になるのか。踏んだり蹴ったりの二十三年……あっけない人生だったな)
などと人生を儚んでいると、車のエンジンがかかり、槐がアクセルを踏む。そのままエンストでも起こすのだろうとにこが予想したが、それは起こらず、車はスムーズに発進する。赤信号で停車する際も急にブレーキを踏んだりすることもなかったので、体ががくっとしない。運転手付きの車やタクシーなどを使い慣れている槐だが、意外にも自分で車を運転することにも慣れているようだった。
「……あんた、運転免許証と車を持ってたんだ?」
「うん。大学に進学して直ぐに運転免許を取って、この車も買ったんだ。毎日乗ることはないけれど、時折ドライブに出かけることはあるよ。……良かったら今度ドライブにい――」
「かない」
「……そう」
槐の言葉尻を取って、にこは拒絶の意を表す。運転中なので顔と視線は前方に向けたまま、槐は寂しそうに笑った。
「あのさぁ、今日と明日の予定は何なの?一泊するってことしか聞かされていないんだけど」
「先ずは買い物をしてから、その後にテーマパークに行こうかなと思っているんだ。以前ににこさんがテーマパークに行ったことがないと言っていたことを思い出して……それで予定に組み込みました」
「ふぅん」
――それは一体何時の話だよ、お坊ちゃん。有名なテーマパークには行ったことがあるっつーの、貧乏人でもな。
契約を交わしてからの二ヶ月ほどの間にそんな話などした覚えがないにこは首を傾げる。槐が言っていることは若しかして、にこが高校生だった頃の話だろうかと思い返して、溜め息を吐いた。
(そんな昔のことをよく覚えてんなぁ。こっちは言われるまで綺麗に忘れてんのに……)
想像したよりもはるかに心地の良い安全運転で一つ目の目的地の近くまで向かい、コインパーキングに駐車し、其処からは徒歩で向かう。
「……何で呉服店?」
洒落た店構えの呉服店の前にやって来たにこは思わず足を止める。槐に尋ねると、この呉服点は彼の母親が贔屓にしているところなのだという答えが返ってきた。
「……いや、だから、何でこんな所に用事があるのかって訊いてんですけど」
「足袋と草履はちゃんと足にあったものを履かないと辛いから、それで此処に。ああ、それから和装用の下着も買わないといけないね」
「は?足袋と草履!?和装!?ちょっとどういうこと!?」
「テーマパークに行った後に宿泊予定のホテルで夕食をとる予定なのだけれど、其処では着物を着て貰おうと思っていて……。着物はもう用意してあるんだ、母さんが若い頃に着ていた物を借りてきたから。母さんのお古ということになってしまうけれど、着物を改めて買うことの方がにこさんに叱られてしまうかなと思って」
「はあ!?聞いてない!!初耳だよ!」
「うん、内緒にしていたんだ。予め着物に必要なものを買いに行こうかと言うと拒否されてしまいそうだったから、つい、内緒にしてしまいました。若しも気に入る着物があれば、此方のお店は着物の貸し出しもしていらっしゃるから遠慮なく言ってね」
「そんなことはどうでもいいわ!」
悪びれた様子を見せず槐がさらりと答えるので、にこの額に青筋が浮かぶ。どうしてそんなことが決定事項になっているのかとにこが反論するが、珍しく槐が聞く耳を持とうとしない。それに苛立っているうちに強引に呉服店の中に引き摺り込まれてしまった。
「ようこそ御出でくださいました、二連木のお坊ちゃま」
「宜しく御願いします、女将さん」
槐と呉服店の間では話が通っているようで、にこは品の良さそうな女将と従業員のなすがままになってしまう。足袋は足の形に合っているのか、肌触りはどうか、草履もどういったものが良いのかと尋ねられても、和装に縁のなかったにこには全く分からない。かちんこちんに固まることしか出来ていないにこに代わって、槐があれこれと女将と相談して、てきぱきと事が進んでいってしまった。
「槐お坊ちゃまが女性の方を連れておいでになるとは思ってもみませんでしたわ。お付き合いされている方ですの?」
「ええ、そうです」
「まあ!それでは、何れは御結婚も考えていらっしゃるの?」
「僕はそのつもりですが、どうなるのかは彼女次第といったところです」
「……は?」
結婚するだとかしないだとか、そんな話は一切してきていないだろうが、と、にこは口を挟もうとしたが、槐と女将が醸し出す妙な空気に気圧されて何も言えずに終わる。
「――さあ、次の場所に向かおうか」
「……てめえ、覚えてろよ」
和装に必要な物を買い揃えて満足したらしい槐は、不満を露にしているにこの視線を黙殺し、彼女の手を確りと握って呉服店を後にする。
**********
二つ目の目的地であるテーマパークは、全国的にも非常に有名な場所で俗に”夢の国”と呼ばれている。この日が休日だからなのかどうかは分からないが、園内は何処も彼処も黒山の人だかりが出来上がっており、どのアトラクションにも行列が出来ていて、三十分から一時間待ちを強いられているのがザラだった。待ち時間を潰す為に本でも持ってきていたら良かったと、にこはうんざりする。人口密度の異常な高さにも、彼女は物凄くうんざりとしていた。隣人の気配は多少するけれども、薄い壁はある自宅アパートが恋しい。
「にこさん、今度はあの乗り物に乗ろう!」
にことは対照的に、槐は目をキラキラと輝かせて、夢の国の世界を楽しんでいる。にこが醸し出している空気を読み取ったのか、彼女を退屈させないようにと槐が話しかけてくるが、それが鬱陶しく感じられたにこは無視していた。それを見ていたらしい他の客――十代と思われる女子のグループが「あのおばさんさあ、何様のつもり?」「美形に相手されるほどの顔じゃないじゃん、立場を弁えろよ」などと陰口を叩いているのが聞こえてきた。にこが其方へ顔を向けると女子たちがびくりと身を強張らせたので、鼻で笑ってやった。
――羨ましいからってやっかんでんじゃないよ、小娘が。
とは口に出さなかったが、表情や態度で表す。それが伝わったのだろう。彼女たちはむっとしたが、反撃をするつもりはないらしく押し黙った。今度はふん、と鼻を鳴らして、にこは前に向き直る。
(おめーらは夢の国の住人だから波長が合うんだろうけど、私には合わねえんだよ。何なんだ、この苦行はよぉ)
それにこの夢の国は、にこが心の底から嫌っている母親が大好きだと豪語している場所だ。男が出来る度に此処へとやって来て、必要のないグッズを大量に買ってきては苦しい家計を余計に圧迫してくれたので、にこにとっては嫌な思い出しか詰まっていない場所とも言えた。
隣にいる槐に、「早く飽きろ」と言いたげな視線を送ってみるが、彼はまだ当分夢の国を満喫するつもりらしいので、にこは大きな溜め息を吐いた。
「腹減った」
「そうだね、お昼御飯を食べるには丁度良い時間だね。にこさんは何処のレストランに行きたい?」
「飯が食えりゃ何処でも良い」
偶々視界に入ったレストランに向かって突き進んでいくにこの後を、槐が小走りで追う。丁度昼時だったので、何処のレストランも混雑しており、順番がやって来るまで待つ羽目になる。
そうして園内に数あるレストランの一つに入り、コンセプトに添った食事を頂いているにこに表情は始終渋い。決して食事が不味い訳ではないのだが、槐がやたらと話しかけてくるのが鬱陶しい。別に今は待ち時間ではないのだから、にこは静かに食事をしていたいのだ。
にこが非常に退屈そうにしているので、槐は彼女の興味を引こうとして、精一杯話題を振り撒いているつもりだった。だがそれが彼女には”価値観の押し付け”などとしか捉えられていないことに、一所懸命な槐は気づいていない。
「にこさん、次はメリーゴーランドに乗ろう」
「一人で乗れ」
「成人男性が一人でメリーゴーランドに乗ると怪しまれてしまうので、是非ともにこさんの協力を仰ぎたいです」
違和感のある食事が済んでから、二人はぶらぶらと園内を歩き回り、比較的空いている乗り物に乗ったりしていた。すると槐が急に妙な提案をしてきたので、訝ったにこが彼を睨みつける。
何故メリーゴーランドなのかというと、その遊具を楽しんでいる者の多くが家族連れや恋人同士だったからだ。少しでも恋人らしいことをしたい槐は、二人でメリーゴーランドに乗るという行為がそれに該当すると思ったらしい。”恋人契約”を交わした以上は契約主の意向に文句を言っても結局は沿うことを決めているのだが、にこは慣れないことをしているのでかなりフラストレーションが溜まっている。もう我慢が出来ないと、彼女は深く息を吐いた。
「……疲れた、少し休憩したい」
連れ回しているという意識がなかった槐は、にこの言葉で漸くそのことに気がつき、表情を曇らせる。
「御免ね、にこさん。具合が悪くなっていることに気がつかなくて……。あそこにベンチがあるから、其処で休もう」
「私は休んでるから、あんた一人で楽しんできなよ」
「それはだめだ」
一緒に休んでいる必要はないと断りと入れるが、槐が引かない。にこは渋々槐に体を支えられて、ゆっくりと近くにあるベンチまで移動する。ベンチに腰掛けたにこの前に膝をついて、槐が心配そうに様子を窺ってくるのが鬱陶しく感じられて、にこは思わず顔を背けた。
「あのさあ、私は此処で休んでるから、あんた一人で楽しんで来いって言ってんでしょ?勝手に帰ったりしないし、はぐれるのを心配してるんだったら携帯使えば良いだけの話だし。何で二人一緒じゃないといけない訳?ガキじゃあるまいし……」
「僕だけが楽しんでいては意味がないよ。だから僕も此処で休む。……そうだ、飲み物を買ってくるよ。冷たいものが良い?それとも温かいもの?」
「五月蠅いなあ、冷たい水で良いっ」
「……此処で待っていて」
叱られた子供のような表情を一瞬見せたが、槐は直ぐに人を安心させるような笑みを浮かべて、近くにある売店のワゴンへと向かっていった。
「何あいつ、
「自分の方がイケてるって勘違いしてんじゃね?」
「うっわ、それ怖っ」
にこと槐のやり取りを見ていたらしい二十代前半と思われる女の二人組が、態と聞こえる音量で陰口を叩いている。こういった言葉を投げつけられるのは、今日は二回目だなと思ったにこはじろじろと不躾に眺めてくる彼女たちに向かって、にっこりと笑ってやる。
(私は自分を美人だなんて思ったことねーし、言われたこともねーよ。髪の毛が伸びる人形みてーだとは言われたことがあるけどな!あんたたちに言われなくたって、あの美形とは釣り合わねーって心得てますから。夢なんて見てませんから。でも残念でしたー、槐は何でか私に御執心なんですー、悔しいか、悔しいんだろ!……ふん!)
それが気味悪かったのだろう、彼女たちはそそくさと逃げていってしまったので、にこは勝ったとばかりに鼻を鳴らした。
(仕返しされてビビッて逃げるくらいなら初めから陰口すんなっての。あーあ、全く楽しんでないって訳でもねーわよ、能天気にきゃーきゃー騒ぐことが出来ないだけだっての。何なんだよ、この、夢の国に来たからには全力でその世界観を楽しまなきゃ損だから!と言わんばかりの気持ち悪い空気は!?楽しみ方は人それぞれなんだから、そこまで強制するんじゃねえよ。面倒臭ぇな、本当にっ!!!)
心の中でこれでもかというほど悪態をつきまくったので、もっと胸がすっとしたにこは特にすることがなくなったので目の前を通り過ぎていく人の流れを観察し始める。女友達にカップル、親子、祖父母と孫といった組み合わせの人々は大抵笑顔を浮かべていて、このテーマパークの雰囲気を心から楽しんでいる。中にはにこのように複雑な表情を浮かべて、はしゃいでいる人の後ろを歩いているだけの人もいるので、その人に対してにこは勝手に親近感を抱いた――その気持ちよく分かるわぁ、と。
(ん……?)
腕を組み、いやに体を密着させて、気味が悪いほどに浮かれている一組のカップルがにこの目に飛び込んでくる。「はいはい、ラブラブアピール御苦労様でーす」とばかりににこは目を逸らしたが、はっとして、もう一度其方に目を向けた。
馬鹿ップルの男の方に見覚えがありすぎて、にこは顔を引き攣らせてしまう。中肉中背、二十代半ばといったところの男は――数ヶ月前ににこを捨てた男だった。
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