疑念

 その後も小幡は取り調べに従順に応じた。ガマ警部達に語った言葉をそのまま他の刑事にも伝え、状況証拠――すなわちスカーフから検出された指紋により、小幡の殺人容疑は揺るぎないものになっていった。検察は起訴の手続きを進め、小幡が裁判にかけられるのも時間の問題と思われた。


 取り調べ室の横を通るたび、木場は覗き窓から小幡がいないかを確かめた。そこで刑事に詰問されている小幡の姿を見るたび、木場はまるで我が事のように胸が痛むのだった。


「……まだあいつのことを気にしているのか」


 不意に脇から声がした。木場が振り向くと、ガマ警部が自分の横に立って覗き窓を見ているのが見えた。


「あの事件はもう終わった。奴は自供し、証拠も上がっている。これから先は検察の仕事だ。俺達に出来ることはもう何もない。木場、お前はいい加減割り切ることを覚えるべきだな」


「……それはわかってます。でも……自分は今でもまだ信じられないんです。あの小幡さんが殺人を犯したなんて……」


「激情に駆られた人間が突飛な行動に出るのは今に始まったことじゃない。普段は大人しくしている分、一度感情が爆発したら自分でも手がつけられなくなってしまったんだろう」


「……やっぱりそうなんでしょうか。小幡さんは麗央奈さんを守ろうとするあまり、自分を見失ってあんなことを……」


「他にどんな可能性がある?奴 は撮影が始まった13時に緒方の楽屋に侵入した。そしてテレビで収録映像を観ていた緒方と会い、緒方があの女優の弱みを握っていたことを知って口封じのために奴を殺害した。そして自分の犯行が恐ろしくなって現場から逃走した……。何も問題はないと思うが?」


「そうですよね……。実際西岡さんも、小幡さんが楽屋の方から走り去るところを見てるんですよね……」


 だがそこで、頭にふと引っかかることがあって木場は黙り込んだ。楽屋からの逃走について最初に尋ねた時、彼が言ったことは確か――。


「どうした? 木場」木場の様子がおかしいことに気づいたガマ警部が尋ねてきた。


「いえ、あの……そう言えば、楽屋から飛び出してきた理由を最初に小幡さんに尋ねた時、彼はこう言ってましたよね。『テレビから男の怒鳴り声が聞こえて、その迫力に腰を抜かして逃げ出した』……って」


「あぁ……例の飯島の台詞のことだな。まぁあれも、結局は殺人を隠すための方便に過ぎなかったわけだが……。だいたい最初からおかしいと思っていたんだ。いくら奴が小心者とは言え、テレビの声を聞いた程度で逃げ出すなど……」


「そう……やっぱりおかしいです」木場が確信を持った様子で頷いた。


「……木場?」


 木場の様子が只ならぬことに気づいたのか、ガマ警部が怪訝そうに眉を顰めた。だが次の瞬間、木場は勢いよく扉をノックすると、ガマ警部が止める間もなく取り調べ室へ入っていってしまった。


「おい木場! 何をしてる!」


 ガマ警部が怒鳴って後へ続いた。部屋に入ると、真ん中にぽつんとある事務机と、奥の椅子に座る小幡、さらに彼に差し向かいで座る中年の刑事と、その横に立つ木場の姿が目に入った。ガマ警部が部屋に足を踏み入れると、迷惑そうに顔をしかめて振り返った中年の刑事と視線がぶつかった。


「ちょっとちょっと、何なんですか? 私は今最後の供述調書を作成している最中なんですよ? 早く検察に送らないとまたどやされる。この事件は世間の注目を集めてますからね。検察も早く解決したがってるんですよ。そんな大事な局面にいきなり踏み込んできて、最近の若い人は礼儀というものを知らないんですか?」


 中年の刑事が嫌みったらしく言った。頭の禿げ上がり具合からしてもう50代にはなるだろう。この歳でまだ平の刑事と同じ仕事をしているということは、こいつも出世コースから外れたクチか――。そんなどうでもいい考えがガマ警部の頭をよぎった。


「すみません。取り調べの最中だってことはわかってたんです。ただどうしても、小幡さんに聞いておかなければならないことがありまして……」木場が低頭しながら言った。


「それなら後にしてください。もう30分もすれば調書を仕上げられますから……」


「それじゃ遅いんですよ!」


 木場が前のめりになって机をばんと叩いた。小幡がびくりとして肩を上げる。


「お願いします。10分だけ時間をください。これがどれほど重要なことなのか、正直自分にもわかりません。でもひょっとしたら、そこにとんでもなく重大な事実が隠されているかもしれません! 確かめるのは今じゃなきゃ駄目なんです!」


 木場は縋りつくような目で中年の刑事に迫った。中年の刑事はたじろいで身を引き、助けを求めるようにガマ警部の方を見た。ガマ警部はため息をついて額に手をやった。


「悪いな。俺も出来ることならあんたの仕事を邪魔するような真似はしたくない。だがな、こいつは単なる思いつきでこんなことを言っているわけじゃないんだ。こう見えてこいつの嗅覚は鋭い方でな。過去に1件殺人事件を解決したこともある。こいつの嗅覚が反応したのは、そこには何か臭いものがあるということだ。俺としても、それを見逃すわけにはいかん」


「しかし……それではまた調書が作成し直しになる可能性も……」


「それでもだ。あんただって不完全な調書を作成して、後から検察に嫌みを言われるような事態は避けたいだろう?」


 中年の刑事は黙り込んだ。どちらに転ぶのが得策か、頭の中で考えを巡らせているようだ。

 やがて結論が出たのか、中年の掲示は頷くと、机に散乱していた用紙をひとまとめにして立ち上がった。


「……10分だけですからね。それに、もし何も新事実が発覚せずに書類の提出が遅れることになったら、あなた方が乱入してきたのが原因だと上にもはっきり申し上げますから」


「あぁ、好きにするがいい」


 中年の刑事は小さく舌打ちをすると、木場とガマ警部にそれぞれ忌々しそうな一瞥をくれ、そのまま入口の方に向かって乱暴に扉を閉めた。


「ガマさんすいません。助かりました!」木場が勢いよく頭を下げた。


「構わん。それよりさっさと取り調べを始めろ。俺達に与えられた時間は10分しかない」


「そうですね、わかりました!」


 木場は勢いよく頷くと、中年の刑事が座っていたパイプ椅子に腰掛けた。ガマ警部は腕組みをし、扉に身体を持たせてその様子を見つめた。突然の闖入者2人の間で、小幡は明らかに困惑した様子で視線を彷徨わせている。


「小幡さん。時間もないので手短に言います。事件当日のあなたの行動をもう一度教えてほしいんです」木場がいつになく真面目な顔で言った。


「で、でも……それは前から散々お話してるじゃないですか。何も付け加えることなんて……」


「新しい事実がなくてもいいんです。小幡さんの証言は二転三転しましたから、正直自分も混乱しちゃって……。今この場でもう一度お話を聞いて、頭を整理したいんです」


 木幡はなおも気が進まなさそうな顔をしていたが、大人しく話し始めた。


「あの日……11時くらいにスタジオに行きました。その後撮影を見学して、12時から昼休憩に入ったので、倉庫に隠れて撮影が始めるのを待ってました。で、13時になってスタジオに戻ろうとしたら、緒方の楽屋から声が聞こえてきたから、レオーナのことで話をつけにいこうと思って中に入ったんです。そこで僕は、あいつを……」小幡が小刻みに身体を震わせた。


「その後あなたは、殺人を犯したことが恐ろしくなって逃げ出したわけですね?」


「は、はい……。今思えば、何であんな大それたことが出来たんだろうって思います……」


「でもあなたは、最初に現場から逃走する理由を尋ねられた時、こう答えましたよね。『テレビから男の怒鳴り声が聞こえて、それが怖くて逃げ出した』って。あれはどうしてですか?」


「そ、それは……。あのマネージャーの人に逃げるところを見られてたってわかって、他に言い訳が思いつかなかったんです。あいつは実際テレビを観てましたし、不自然ではないだろうと思いました」


「じゃああなたは、実際に13時頃に、テレビから男の『ぶっ殺してやる!』という声を聞いたわけですね?」


「は、はい。本当にすごい迫力でした……。ぼ、僕……てっきりあいつが生き返ったんじゃないかと思って……」


 やはりそうか――。木場は自分の考えが間違っていないことを確信して内心安堵した。

 木場は大きく息をつくと、小幡をまっすぐに見つめて言った。 


「小幡さん……それはおかしいんです。あなたは13時にテレビから男の声を聞いたと言った。でも、それはあり得ないんです」


「え。ど、どうしてですか? だって実際、あいつはテレビを観てたじゃないですか」


 小幡が目に見えて狼狽え始めた。木場は小幡を気の毒そうに見つめたが、やがてゆっくりと告げた。


「小幡さん……13時の時点では、その映像は現場になかったんですよ」


「え……?」小幡が目を瞬かせた。


「あの映像は、西岡さんのカメラで撮影した映像をテレビで再生したものでした。でもそのカメラは、12時50分頃には西岡さんの手元に戻っていた。あなたが13時に映像を見ることは不可能だったんです」


「そ、そんな……! だって僕は確かに……!」小幡の顔に不安の色が押し寄せた。


「おい木場、これはどういうことだ?」ガマ警部が聞き捨てならないと言うように尋ねてきた。「見るはずのない映像を見たなどと……。こいつは嘘をついていたのか?」


「ち、違います! 僕、嘘なんてついていません! 僕、確かに聞いたんです!『ぶっ殺してやる!』っていう男の物凄い声を!」


「でも、13時の時点で楽屋にカメラはなかったんですよ?」


「それは……そうだ! きっと勘違いしてたんです。テレビで流れてたのは別の番組で、そのシーンがドラマで撮ってた場面と似てたから、午前中の収録を撮影した映像と見間違えたんです!」小幡が必死に弁解した。


「……いや、それはおかしい」


 ガマ警部が割って入った。小幡が泣きそうな顔でガマ警部を見た。


「例のシーンには緒方が出演していたが、緒方の撮影は11時の時点で終了していた。一方あんたがスタジオに到着したのも11時だ。緒方とは入れ違いになったあんたが、緒方の撮影シーンを見られたはずがない」


「い、いやでも、僕が時間を勘違いしてた可能性だってあります。11時だって思ってたけど、実際には10時半くらいだったのかもしれない!それならあいつの撮影シーンを見ることは出来た。僕はそれを楽屋のテレビで流れてた映像と勘違いしたんです!」


「そう言われると……」


 木場は弱り果てた。小幡は思いのほかしぶとい。どうあっても13時にあのシーンを見たと言い張るつもりなのだ。

 木場は時計を見た。残り時間はすでに5分しかない。

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