この身に代えても
小幡はそのまま署に連行され、住居侵入と公務執行妨害の罪で逮捕されることになった。一晩が明け、ガマ警部と木場が留置場を訪れると、小幡は部屋の隅っこで膝を抱えながら座っていた。昨日は眠れなかったのか、ただでさえ色白で不健康そうな顔の目の下にクマが浮かんでいる。
2人は小幡を取り調べ室に連れて行き、そこで改めて話を聞くことにした。小幡は最初、ライオンの檻に入れられた鼠のようにぶるぶる震えるだけで何も話そうとしなかったが、ガマ警部に何度も凄まれるうちに観念したのか、ぽつぽつと昨日の行動について語り始めた。
「……あの日の1時頃、あいつの楽屋から物音が聞こえたのは本当です。でも、僕が楽屋に行ったのはただ様子を見にいくためじゃなかった。もしあいつが1人でいたら、この機会に言ってやろうと思ったんですよ」
「言うって、何をですか?」木場が尋ねた。
「もちろんレオーナのことですよ。僕、昨日はあいつのことはどうでもいいって言ったけど、あれは嘘です。本当はずっとあいつのことが許せなかった。あいつと付き合っていた当時、レオーナはまだ無名の女優で、当時すでに人気俳優だった緒方との交際はかなり話題になりました。おかげでレオーナの知名度は上がったんですが、それが売名行為だと思われて緒方のファンの怒りを買ったんです。
レオーナの事務所には、緒方のファンから嫌がらせの手紙やメールが大量に届き、SNSでも散々叩かれていました。三流女優の分際で生意気だとか、年増は引っ込んでろとか、心ない言葉が散々レオーナの元に寄せられました……。
でもレオーナは負けなかった。何を言われても笑顔で対応し、自分も緒方に負けないような名女優になると宣言して、緒方のファンの誹謗中傷にも負けずに舞台に出続けていました。
そんなレオーナの姿を見て、僕はますます彼女のことが好きになりました。どんな逆境にも負けずに立ち向かっていく彼女を見ると、僕自身も強くなれるような気がしたんです」
小幡はそこで一旦言葉を切った。一気に話して疲れたのか、気を落ち着けるように何度か深呼吸をしてから続ける。
「そのうちレオーナに対する中傷は減っていき、彼女自身の演技が注目されるようになって、レオーナは知名度をぐんぐん上げていきました。でもそれは緒方のおかげじゃない。レオーナ自身の実力が認められただけなんです。僕はあいつにそのことを教えてやりたかった。あいつが昔ゴミみたいに捨てた女性が、今や誰もが認める大物女優になってる。そのことを思い知らせて、あいつがレオーナを捨てたことを反省するか、悔しがるかすればいいと思ったんです」
「で、あんたはそれを被害者に言ったのか?」ガマ警部が尋ねた。
「はい。僕は楽屋にあいつが1人でいるのを確認してから、あいつに声をかけました。あいつは面倒くさそうに振り返って、お前は誰だ、どこから入ったと尋ねてきました。僕は自分がレオーナのファンだってことを伝えて、ファン代表として、レオーナの名誉を回復しに来たことをあいつに伝えたんです。
僕はあいつに言いました。あいつのためにレオーナがどれほど傷ついたか、そんな逆境にも負けずに舞台に立ち続けた彼女がどれほど立派だったかを、滾々と言い聞かせてやりました。でも……ダメだったんです」
「ダメだった、とは?」
それまで揚々と語っていた小幡の顔に影が差したのを見て木場が尋ねた。小幡は言いにくそうに視線を外したが、諦めたようにため息をついて言った。
「……あいつ、僕の話を聞いても全く反省した様子も、悔しがった様子も見せませんでした。僕は腹が立ったけど、それだけならまだよかった。あいつが心まで腐った人間だってことがわかって、むしろレオーナがこんな奴と縁を切れてよかったと思えたわけですからね。でもあいつは……僕の顔をじっと見つめて、急にニヤッと笑って、こんなことを言ってきたんです……」
『お前は知らないようだが、俺はあいつの秘密を握っている。あいつの女優生命を一瞬で断つような秘密をな。それを知りゃあ、お前があの女に抱いている幻想もすぐに崩れるだろうよ……』
「な、何ですかそれ。麗央奈さんの女優生命を断つような秘密って……」木場がうろたえた。
「……わかりません。あいつ、僕が問い質そうとしてもそれ以上取り合わず、虫でも追い払うみたいにぼくに手を振ったんです。
あいつは僕に背を向けてまたテレビを観始めました。僕はあいつの背中を睨みつけたんですが……その時、ズボンのポケットからはみ出ていたレオーナのスカーフに手が触れたんです。レオーナのスカーフを盗み出したのは僕です。今日の記念に、彼女が身につけていたものがどうしても欲しくなって……。
そのスカーフに触れた瞬間……きゅ、急に、これまでレオーナか出演してきた舞台やドラマの光景が蘇ってきて……。か、彼女の女優生命を、こんな奴のために終わらせるわけにはいかないと思って……」
小幡は喘ぐように言いながら、苦しげに顔を歪めた。それから先に起こったことが何を意味するか――。木場は聞くのをためらったが、ガマ警部は容赦しなかった。
「そのままポケットからスカーフを取り出し、被害者を絞め殺したのか?」
小幡はしばらく項垂れていたが、やがてこっくりと頷いて続けた。
「……僕はポケットからスカーフを取り出して、あいつに気づかれないようにそっとソファーの方に近づいて行きました。そしてあいつの背後まで来たところで、首にスカーフを巻きつけて思いっきり締め上げたんです。
あいつは苦しげに声を漏らして、大きな身体をじたばたさせて僕の手から逃れようとしました。でも僕も必死でした。手を緩めたら僕の方が殺されると思って、夢中でスカーフを締め続けました。
でも、あいつの身体がふっと軽くなったところで我に返って、慌てて手を離したんです。あいつはそのまま床に倒れ込みました。目を見開いて、顔を苦しげに硬直させて……。そ、それを見た瞬間、僕は自分が何をしたかに気づいて、急に恐ろしくなって……」
「現場から飛び出して、命からがら逃げ出してきたと?」
「はい……。あの時はとにかく必死で、逃げるところを誰かに見られるかもしれないなんて考える余裕もありませんでした……」
「じゃあ、西岡さんが見たのは、小幡さんが本当に現場から逃走する場面だったわけですね……。その後はどうしたんですか?」
「ぼ、僕……あのスカーフを持ったままスタジオから飛び出してきたんです。でもこれを持ったままじゃ疑われると思って、近くにあった廃材置き場の焼却炉で燃やしました」
「ふん! 殺人を犯した上に、証拠隠滅まで図るとはな……」ガマ警部が憤然と鼻を鳴らした。
「だがあんたは爪が甘かった。あのスカーフはシルクで出来ていて、燃え残る可能性があることに気づかんかったんだろう。どうせ証拠を隠滅するなら、もう少し徹底的にやるんだったな」
「ぼ、僕そんなの知りませんでした。シルクが燃えにくい素材だなんて……。知ってたら……ちゃんと最後まで燃えるのを見届けてました」
小幡ががっくりと首を垂れた。
木場はそんな小幡の姿を見つめながら、まだ信じられない気持ちでいた。小幡と麗央奈について熱っぽく語り合ったのはつい昨日のことだ。あの時はファン同士仲良くなれるかと思っていたのに、その小幡が今や殺人犯として自分の目の前に座っている。その事実はあまりにも受け入れがたかった。
「……小幡さん、1つ、教えてもらえませんか」
木場が静かに言った。小幡が顔を上げ、虚ろな表情で木場を見た。
「あなたは麗央奈さんがデビューした当時からずっと彼女のファンだった。それはわかります。……でも、だからって殺人まですることはなかった。確かにあなたのおかげで麗央奈さんは守られたのかもしれない。でもあなたは? まだ大学生で、これからいくらだって可能性があったはずです。なのにあんな男のために、あなたが未来を全部ふいにしてしまうなんて納得いきません。
小幡さん、どうしてです? どうしてあなたは麗央奈さんのために、全てを投げ出すような真似をしたんですか?」
木場はやりきれなかった。自分とそう歳の変わらないこの青年が、殺人犯としてこの先の長い人生を送っていくのだという事実が不条理に思えてならなかった。
小幡は気まずそうに木場から視線を逸らしたが、やがてふっと笑みを漏らして言った。
「……本当は、ずっと前から、この日が来るのを待っていたのかもしれません。僕はレオーナのためなら、この命すら差し出す覚悟でいました。だって彼女は僕にとってはただの女優じゃない。彼女は……僕の命を救ってくれたんですから」
ガマ警部と木場が怪訝そうに顔を見合わせた。小幡は視線を落としたまま、ぽつぽつと語り始めた。
「……僕が中学生1年生の時でした。僕、この通り背が低くて、おまけに気も小さいから……学校でもいじめられていたんです。あだ名はアリ、もしくはミジンコ。体力測定の度に身長を聞かれて、全然伸びてないことがわかると、お前は幼稚園から成長が止まってるんじゃないかって散々バカにされました。
先生に相談したこともありましたけど、先生は大したことじゃないと思ったらしくて、頑張って牛乳を飲んで大きくなれなんて無責任なアドバイスをするだけで……。僕は学校に行くのが心底嫌になって……いっそ死んでしまおうかと思いました」
ぽつぽつと語る小幡の表情は苦悩に満ちていて、彼がいかに過酷な少年時代を送ってきたかを窺わせた。小幡ほどではないにしても、木場も童顔で小柄な体格をしている。そんな彼の身の上話は、何だか自分の昔話を聞いているように思えてならなかった。
「……そんな時、僕はレオーナと出会ったんです。当時のレオーナはまだデビューしたばかりでテレビにはほとんど出てなくて、地方の劇場でたまに芝居をやってるくらいの売れない女優でした。僕が初めて彼女を見たのも地元の劇場でした。親戚が余っていたチケットをくれたので、親と一緒に見に行ったんです。
でも、僕はそこで衝撃を受けました。こんなに人を魅了する演技をする人がいるんだってことが信じられなくて……。その舞台は外国の悲恋物語を扱ったもので、レオーナの演じるヒロインが、恋人を自分の親友に奪われ、失意のどん底で自らの命を断つというストーリーでした。その時の彼女の演技は本当に真に迫るもので、ヒロインの感情が生々しく客席に伝わってきました。演技をしているというより、本当にレオーナの中にヒロインが生きているみたいで……。僕はすっかり彼女の演技の虜になってしまいました。
それ以来、僕は彼女に会うことを楽しみに日々を生き抜こうと思えるようになりました。クラスの奴らに何を言われても、僕にはレオーナがいるんだから平気だって思えるようになりました。僕はたぶん、自分とレオーナを運命共同体のように感じていたんだと思います。レオーナは無名でも舞台の上で必死に戦っていた。その姿を見て、僕も負けちゃダメだ、レオーナみたいに強く生きなきゃって思えるようになったんです。レオーナは……僕の人生に希望を、生きる力をを与えてくれたんです」
小幡はそこまで言うと顔を上げ、木場をまっすぐに見つめて言った。
「僕は取るに足りない人間です。変わりならいくらだっている。でもレオーナはそうじゃない。レオーナは今まで必死に世間やライバル達と闘ってきて、ようやく今の立場を掴み取ったんだ。彼女を失わせるわけにはいかない。僕が犠牲になることでレオーナが輝き続けられるのなら、僕は本望なんです……」
「小幡さん……」
過去を語り終えた小幡の表情はすっきりとしていて、いっそ晴れやかと言ってもいいくらいだった。殺人犯の汚名を着て生きていくことよりも、自分の手で大切な人を守れたことを誇らしく感じているかのように。
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