新たな容疑者
再び南側の楽屋に場所を移し、ガマ警部と木場は小幡のカメラを調べ始めた。カメラには数百枚に渡る写真があり、その全てが麗央奈のショットで埋め尽くされていた。可能な限りアップで撮ったもの、全身を写したもの、横顔や後ろ姿を写したもの、ありとあらゆる角度からの麗央奈の写真がそこに収められていた。これだけで1冊の写真集が作れそうな勢いだ。だが不思議なことに、写真はいずれ午前中に撮られていて、午後から撮られたものは1枚もない。
「……どういうことか、説明してもらおうか?」
ガマ警部が机に手を突き、小幡の方にずいと身を乗り出して言った。小幡は泣きそうな顔をして身体を縮こまらせている。まるで生徒指導の教師に叱られている中学生のようだ。
「あんたは11時にスタジオに来て、15時まで撮影を見学していたと言った。だが写真が撮影された時刻はいずれも11時から12時の間だ。これはつまり、あんたが午後からスタジオにいなかったことを示してるんじゃないのか?」
「ち、違います! それはその……午前中にいっぱい撮ったから、午後はもういいかなって……」
「それにしても1枚も写真がないというのは不自然だろう。充電が切れたわけでもあるまいし」
「で、でも、実際にそう思ったんだから仕方がないじゃないですか。カメラ越しじゃなくて、生のレオーナの演技を見たかったんですよ」小幡が言い訳がましく言った。
「でも、これじゃ小幡さんが午後からスタジオにいたかどうかわかりませんね」木場が呟いた。「13時からのアリバイがないとなると、本当に小幡さんが犯人の可能性も……」
「そ、そんな! 勘弁してくださいよ! 僕が人殺しなんて出来るわけないじゃないですか!」
小幡が泣きそうな顔をしながら必死に訴えた。確かに、この虫も殺せなさそうな青年が殺人を犯すとは到底思えない。しかし――。
「だが被害者は過去に三木を一方的に振った。これだけ三木に熱を上げているあんたのことだ。被害者を憎からず思う気持ちがあったんじゃないのか?」ガマ警部が疑わしい顔をして尋ねた。
「だ、だからそれは6年も前のことですよ。今は別に……」
「本当にそうか?」ガマ警部が小幡ににじり寄った。「被害者は三木と別れた後も性懲りもなく女遊びを繰り返していた。かつて自分が捨てた女のことなど思い出しもせずな。奴は自分の行いを反省もせずに、今も順風満帆な役者人生を送っている。そんな奴を目の前にして、あんたは本当に何の感情も抱かなかったのか? あんたは被害者の部屋から物音がしたから様子を見に行ったと言ったが、本当にそれだけだったのか?」
「……そ、そうですよ。あいつの部屋に誰かいるのか確かめただけです。他にどんな理由があるって言うんですか……」
小幡が半べそをかきながら言った。木場はだんだん小幡が気の毒になってきた。
「ガマさん……まだ小幡さんが犯人と決まったわけじゃないんですから、あんまり厳しくするのはよしましょうよ」
木場が宥めるように言うと、小幡に向かって優しく尋ねた。
「小幡さん、緒方の部屋に入った時の状況をもう少し詳しく教えてもらえますか?」
「はい……。さっきも言いましたけど、あいつはソファーに座って1人でテレビを見てました。画面にはカメラの映像っぽいものが流れてました。たぶん午前中に撮影したやつを見てたんでしょうね。それで、僕はあいつが自分の出番が来るまで休んでるんだろうと思って、そのままドアを閉めようとしたんです。そ、その時に……」小幡が急に肩をぶるぶる震わせ始めた。
「どうしました?」
「い、いえあの……部屋を出ようとした時、いきなりテレビから怒鳴り声が聞こえてきてたんです。『ぶっ殺してやる!』っていう男の物凄い声が……。ぼ、僕、それを聞いて腰が抜けちゃって……慌てて楽屋から飛び出してきたんです」
木場はガマ警部と顔を見合わせた。小幡が言っているのは、ドラマでの飯島の台詞のことだろう。木場達もついさっき目にした場面だ。
「確かにあいつの演技は凄まじかった。だがテレビの映像だぞ? 何もそこまで怯えることはないだろうに」ガマ警部が納得のいかない顔で言った。
「だ、だって、本当に怖かったから……。あの声、すごい迫力だったんですよ。本物のヤクザみたいにドスが聞いてて。僕、本当に自分が殺されるんじゃないかと思って……」小幡は情けなく身体を震わせた。
「でもまぁ、確かにあれはすごい迫力でした」木場が頷いた。「小幡さんは楽屋に忍び込んで緊張してたわけですし、その状況であんな声が聞こえたら、自分も怖くなって逃げ出しちゃうかもしれません」
「……刑事がたかが映像で肝を潰してどうする。お前はもっと度胸をつけるべきだな、木場」
ガマ警部が憮然として言った。木場は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「えーと、じゃあ、西岡が小幡さんを見たのはその時のことだったんですね」木場が気を取り直すように言った。「小幡さんはその後どうしたんですか?」
「は、はい……。まだ心臓がバクバクしてましたけど、とにかく撮影現場に戻ろうと思って出入口に向かって走っていきました。その後はまたセットの影に隠れて見学してましたよ」
小幡はそう言って供述を終えた。気力を使い果たしてしまったのか、魂をすっかり持っていかれたように打ち萎れている。
「でも困りましたね。13時から15時までの間にアリバイがないのは西岡と小幡さんの2人。正直自分は西岡が怪しいと思いましたけど、緒方を殺すメリットがないという話には説得力があるように思えました。でも小幡さんはあの通り虫も殺せなさそうな人です。あの人が犯人だとはとても……」
「だが一方で、あの若造が三木に相当入れ上げていたことも事実だ。緒方への憎しみのあまり、発作的に犯行に及んだ可能性がゼロとは言えん。人間を見た目で判断するなといつも言っているはずだ、木場」ガマ警部が釘を刺した。
「それは……そうなんですけど」
木場は頭を掻いた。このままでは八方塞がりだ。何かないのだろうか。どちらかの犯行を決定づけるような証拠か証言が――。
「……刑事さん? あら、ここにいらしたのですね」
不意に入口の方から声がして、木場と警部は振り返った。扉に身体をもたせかけた格好で麗央奈が立っている。ほっそりとした腕を優雅に組み、足をクロスさせて立つ姿はそれだけで絵になっている。
「麗央奈さん? どうしたんですか?」
「いえ……もう遅い時間になりましたから、そろそろ帰らせて頂けないかと思いまして」
言われて木場は腕時計に目をやった。時刻はすでに20時を回っている。
「もうこんな時間……。全然気づきませんでした。どうしますか? ガマさん」
「そうだな。関係者への聞き込みはすでに終わっている。今日のところは帰してもいいかもしれんな……」
ガマ警部がそう呟いた時だった。パイプ椅子ががたんと倒れる音がした。木場が驚いて振り返ると、小幡が目を見開いてまじまじと麗央奈を見つめているのが見えた。女王への拝謁が叶った貧民のようにわなわなと身を震わせている。
「レオーナ!」
そう叫ぶや否や、小幡は転がるようにして麗央奈の元にすっ飛んできた。そのまま前のめりになって続ける。
「あ、あの、僕、小幡進と言います! ぼ、僕その、レオーナがデビューした時からずっとファンで! レオーナが出る舞台は必ず観に行っていてました! き、今日もこのスタジオでレオーナの撮影があるって聞いて、授業途中でほっぽり出して来ました! それでずっと撮影を見学してて、やっぱりレオーナは最高だって思ってたところで! それで、その……」
小幡が顔を赤らめながら、もじもじして両手の人差し指をつつき合わせた。麗央奈は目を瞬いてそんな小幡を見つめていたが、不意にふっと表情を緩めた。
「……知っているわ」
「え?」小幡がきょとんとした。
「あなた、あたしがまだ無名だった頃からいつも舞台を見に来てくださっていたでしょう? ほとんど観客のいない劇場で、あなたはいつも最前列の真ん中の席に座ってあたしを見てくれていた……。舞台が終わった後には必ず手紙を書いてくださったわね。差出人は書かれていなかったけれど、それがあなただってことはすぐにわかったわ。
あたしは本当に嬉しかった……。こうやって1人でもあたしのことを見てくれている人がいることが、どれほど励みになったか知れないわ。あたしが今まで女優を続けてこられたのはあなたのおかげよ。ありがとう……本当に」
「レオーナ……」
麗央奈がモナリザのように優しげな微笑みを浮かべ、小幡は感激のあまり泣き出しそうな顔になっている。憧れの人から思いがけず感謝され、歓喜に打ち震えているのだろう。
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