役者の真髄

 楽屋を出た2人は、そのまま角を北に曲がって奥の部屋へと直行した。被害者が使っていた楽屋D、すなわち事件現場だ。麗央奈の部屋よりもさらに広々としたその楽屋には、真ん中に黒革張りのソファーがあり、その前のテーブルにはティーセットや老舗ブランドのお菓子が置かれていて、まさに至れり尽くせりの様相だった。そのソファーの下に人形の白いテープが張られている。一課に配属になって2ヶ月が経つが、木場は未だにこのテープを見るのに慣れないでいた。


「なんか、生々しいですよね……。数時間前までここに死体があったって考えると……」


 木場が気分の悪そうな顔でテープを見下ろした。芸能人と会った浮かれ気分もさすがに引っ込んでしまったようだ。


「ふん、テープくらいでビビっていてどうする。この先ナマの死体をいくつも見ることになるんだぞ」ガマ警部が脅しつけた。


「それは……そうですけど」


 死体の写真はこれまでにも見たことがあった。最初はほとんど直視出来ずに、見たら見たですぐに嘔吐してしまったものだが、最近になってようやく吐き気をもよおすことはなくなった。だがそれでも、写真を見るたびに1人の人間の命が失われた事実が重くのしかかり、一課の刑事という職務に課せられた重責を感じるのだった。


「現場の捜査は一段落したようだな。俺達がこの部屋を使っても問題はないだろう」


 ガマ警部が辺りを見回しながら言った。確かに、さっきまでは鑑識が忙しなく出入りしていたのが、今は徐々に引き上げ始めている。


「そうですね。テレビはっと……あ、あれですね!」


 木場が部屋の奥を指差した。ソファーの真向かいに、楽屋に置くには勿体ないほどの大型テレビが置かれている。


「早速映像を再生しましょうか。えーと、どっちから見ようかなぁ! やっぱりここは収録映像の方から……」


「楽屋の映像が先だ」ガマ警部が一蹴した。


「……ですよね」木場が情けなく肩を落とした。


 ソファーに座るわけにもいかなかったので、パイプ椅子をテレビの前に2台並べ、木場とガマ警部はそこに腰かけた。黒いカメラにケーブルを繋ぎ、それをテレビに接続した上でカメラとテレビの電源を入れる。木場はカメラの再生ボタンを押し、早速映像を呼び出そうとしたが、そこで思いがけない事態が発生した。


「あれ?このカメラ、何もデータが残ってませんよ」


「何?」


 ガマ警部が木場の方に身を乗り出してきた。カメラの画面には『再生できるデータがありません』というメッセージが表示されている。


「どういうことでしょうか? 緒方は今回、このカメラを使わなかったんでしょうか?」木場が不思議そうに首を捻った。


「わからん。もう1台のカメラに何かが映っているかもしれん。そっちを再生してみろ」


 ガマ警部の指示で、木場はケーブルを白いカメラに付け替えた。電源を入れ、再生ボタンを押す。こちらにはきちんとデータが残っていた。西岡の言ったとおり、午前中の収録風景が撮影されている。もう一度再生ボタンを押すと、テレビに映像が表示された。


 薄暗い倉庫のセット。その中央に、黒いスーツに身を包み、ポケットに手を突っ込んで相手を見据える緒方の姿が浮かび上がる。その視線の先に見えるのは、いかにも柄の悪そうな十数名のチンピラ。手にはバットや鉄パイプなどを持ち、とても穏やかな話し合いをする風には見えない。主人公が敵対勢力に乗り込んでいった場面だろうか。


 チンピラの1人が一歩前に出ると、緒方に向かって罵詈雑言を吐き始めた。よく見るとそれは飯島だった。角刈りに剃り込みを入れた細い眉毛、凄みのある声と表情も相まって、その姿はどう見ても本物のチンピラにしか見えない。

 緒方は黙って飯島の罵倒に耳を済ませていたが、彼が一通り言ってしまったのを見ると、口元に嘲笑を浮かべて言った。


『おしめが取れてから出直してくるんだな……ボクちゃん。』


「あれ、この台詞って……」木場が呟いた。


「確か、あの飯島が被害者と口論になった時にも同じことを言われていたな。自分がドラマで使った台詞だったとはな……」


 ガマ警部が息を吐いてパイプ椅子に身を沈めた。木場はテレビの方に視線を戻した。画面に映った飯島が、屈辱で顔を真っ赤にしているのが見える。


『てめぇ……ぶっ殺してやる!』


 飯島のその一言で、チンピラ達は武器を振り上げて緒方に襲いかかっていった。金属が激しくぶつかり合う音がし、木場はリモコンでテレビの音量を下げた。


「なんかこれ、緒方と飯島さんの口論の場面をそのまま再現したみたいですね」


「順番から言えば、口論の場でドラマが再現されたと言った方が正しいがな。マネージャーが聞いたという『ぶっ殺してやる!』という台詞もドラマに出てきている。おそらく、飯島がこの台詞を吐いたのは偶然だったのだろうが……」


「でも、緒方がドラマの台詞を使ったのは明らかにわざとですよね。本当に嫌な奴だな……。あ、ガマさん、見てください!」


 木場が叫んでテレビを指差した。ガマ警部が画面を見ると、殴り合っていた男達が動きを止め、驚愕の表情を浮かべて一点を見つめていた。木場はテレビの音量を上げたが、途端に恐ろしい男の叫び声が耳を劈き、思わず手で耳を覆った。画面に映る飯島の姿。喉元を押さえるその手が真っ赤に染まっている。そのすぐ傍で、ジャックナイフを手にした緒方が無表情で飯島を見下ろしていた。刃先から滴り落ちる赤い液体。


 木場は思わず身を乗り出した。飯島はぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し、忌々しげに緒方を睨みつけ、呪詛の言葉らしきものを吐き出そうとしたが、漏れたのは苦痛の喘ぎだけだった。ざっくりと切られた頸動脈から、おびただしいほどの血が流れ出してくる。飯島の顔はどんどん土気色になっていき、苦しげに顔を歪めて倉庫の床をのたうち回っていたが、急に表情を硬直させたかと思うと、糸が切れた操り人形のように力の抜けた手足を床に落とした。むき出しになった傷口から、尚もどくどくと血が溢れてくる。

 事切れた飯島、それを見下ろす緒方の目は、相変わらず何の表情もないままだった。




 その場面が終わった後も、木場はしばらくテレビから目が離せなかった。あまりの迫力に、映像を止めることも飛ばすことも忘れていた。


「……おい木場、大丈夫か?」


 ガマ警部が気遣わしげに木場の顔を覗き込んできた。いつものように怒った様子はない。


「あ……すみませんガマさん。あんまりすごかったんで、ついボーッとしちゃいました」


「あぁ……俺もだ。ドラマなんぞ所詮は作り物に過ぎんと思っていたが、ここまで本物さながらの演技が出来るとはな……。あの飯島というのは大した役者だな」ガマ警部が感心したように言った。


「緒方もですよ。死んでいく飯島さんを見る時のあの冷酷な視線といったら! 何かもう、演技を通り越して本当にあぁいう性格なんじゃないかって思えてきますよ」


「まぁ、それはある意味当たっているのかもしれんが……。と、呑気にドラマを見ている場合じゃなかったな。俺達が知りたいのは楽屋の様子だ。さっさと映像を飛ばせ」


「え、でも、これからがいいところなんですよ!? この後は麗央奈さんが出てくるかもしれないのに……」


「……木場」


 警部のどすの聞いた一声が場を制した。木場は泣く泣くリモコンの早送りボタンを押した。




 結論から言うと、黒いカメラにも楽屋の様子は映っていなかった。カメラに残っていたのは収録風景のみで、楽屋を映した映像はどこにもなかったのだ。


「これ、どういうことなんでしょう? 昼休憩の間の映像が1つも残ってないなんて」木場が不可解そうに顔をしかめた。


「単に録画に失敗したのか、緒方が気に入らずに自分で消したのか……。もし犯行時刻が昼休憩の間なら、犯人が自分の犯行を映した映像を消した可能性もある」


「じゃあ、昼休憩の間に緒方に会った人間が犯人ってことですか? つまり飯島さんが……」


「飯島だけじゃない。あの三木とかいう女優も、12時半に被害者に会いに行っている」


「で、でも、麗央奈さんは緒方には会わなかったんですよ!? 単に楽屋の外から声を聞いだけで……」


「本人がそう言っているだけだ。実際には会っていたことを隠していた可能性もある」


「そんな! だって麗央奈さんは、緒方のことは何とも思ってないって……」


「木場、あの女は女優だ。お前みたいな単純な奴を欺くくらい朝飯前だろう。今も奴への情念を捨てきれずに犯行に及んだ可能性は十分にある」


「そんな……」


 庇護を求める少女のような弱々しい麗央奈の表情。あれは自分を懐柔するための演技だったというのか。確かに麗央奈ほどの女優なら、それくらいの演技は簡単にやってのけるだろう。しかし――。


「でも、じゃあ西岡さんが聞いたあの声は何だったんでしょう。ほら、飯島さんが『ぶっ殺してやる!』って言ったやつですよ」


「あぁ、もちろん奴も疑わしい。緒方への悪意を開けっ広げにしていたのは、そうすることでわざと自分が犯人ではないと思わせようとした可能性もある。三木にしても飯島にしても、役者なだけに、どこまでが演技か判断がつきにくいのが厄介だな……」


 ガマ警部が腕組みをして唸った。昼休憩の間の映像が消された可能性がある以上、その時間に楽屋を訪れた人間が怪しい。その理屈はわかるが、あの2人が――特に麗央奈が自分を欺いていたというのは、木場には到底受け入れられない考えだった。


 その時、楽屋の扉をノックする音がして2人は振り返った。木場がテレビの電源を消し、入口に行ってドアを開けると渕川が立っていた。


「警部殿! ここにいらっしゃいましたか!」渕川がびしりと敬礼をした。「ただいま関係者への聞き込みが完了致しまして、そのご報告に上がりました!」


「ご苦労。それで状況は?」


「はっ! 役者、マネージャー、スタッフのいずれもが午前、午後の両方の撮影に参加しておりました。行動が不明な者はおりません」


「そうか、昼休憩の間はどうだ?」


「はっ! そちらは個々人がばらばらに行動していたようで、逆にアリバイのある者はおりません。被害者の楽屋には誰も言っていないと申しておりました。と言うのも、被害者は他人に自分の時間を邪魔されるのをひどく嫌っていたようで、誰かが挨拶に来るたびに、『俺の時間をお前なんかにくれてやる義理はない』などと言って追い返していたようなのです。それで誰も挨拶に行かなかったと」


「……なんか、聞けば聞くほど嫌な奴ですね、緒方って」木場がげんなりして言った。


「まぁな。だがこれで容疑者は絞られた。昼休憩の間に緒方の楽屋に行ったのは三木と飯島の2人。後は犯行が昼休憩の間に行われたという証拠があれば決定的なんだが……」ガマ警部が腕組みをして唸った。


「それともう1つ、警部殿のお耳に入れておきたいことがありまして。先ほど、ビルの中をうろついていた怪しい男を発見したのですが、問い詰めたところ、事件があった時刻にスタジオにいたことを認めたのです」


「何だと!?」

 

 ガマ警部がパイプ椅子から勢いよく立ち上がった。反動で椅子が音を立てて倒れる。


「誰なんですかそれ! もしかして、犯人が戻って来たんですか!?」木場も興奮して尋ねた。


「いや、そういうわけではありませんが……」


「じゃあ誰ですか!?」


「大学生ですよ。三木麗央奈の大ファンだそうで、こっそりスタジオに忍び込んでいたんです」

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