遅咲きの女優

 西側の入口を通り、木場達は楽屋Aの前に到着した。扉横のネームプレートに視線をやる。『三木麗央奈みきれおな様 控え室』


「この向こうに本物の三木麗央奈がいるんですよね……。いやー何だか興奮しちゃうな!」木場が頬を上気させた。


「おい木場、俺達は遊びで来てるわけじゃないと何度言ったら……」


「それはわかってますけど、有名人と会えるって考えたらワクワクしませんか? しかも相手はあの三木麗央奈ですよ!?」


 木場が負けじと叫んだ。

 三木麗央奈は現在34歳の女優で、そのゴージャスで艶美な容姿から多くの男性ファンを獲得している。デビューしたのは26歳と遅咲きではあったが、社長秘書から女医、弁護士からクラブのママ、はたまた女スパイなど幅広い役柄をこなしたことで瞬く間に知名度が上がり、今や主演作品を何本も持つ人気女優の座に登りつめている。木場も2年前に彼女が出演したドラマを観たことを皮切りにファンになり、彼女の出演するドラマや映画を撮り溜めて観るのが休日の楽しみになっていた。


「ふん、俺は芸能人なんぞに興味はない。誰が相手だろうが自分の仕事をするだけだ」


 ガマ警部はにべもなく言うと、躊躇なく楽屋の扉をノックした。すぐに中から「どうぞ」という落ち着いた返事が聞こえる。テレビで何度も聞いた声を至近距離で聞き、木場は心臓が飛び出しそうになった。ガマ警部は木場に構うことなく、さっさと楽屋の扉を開けて中へと足を踏み入れた。


 室内は広く、壁には大きな鏡が何枚も掲げられている。その何層もの鏡に1人の女性が映っている。座り心地のよさそうなソファーに悠然と腰掛け、女王のような気品のある佇まいで木場達を迎えたのは三木麗央奈その人であった。大きくウェーブのかかった黒髪のロングヘアに、ワインレッドのタイトなノースリーブのワンピースを着て、肩には白のジャケットを羽織っている。首元には赤と黒のペイズリー柄のスカーフが巻かれ、膝丈のワンピースの裾からはストッキングに包まれたすらりとした足が覗き、足元はジャケットと揃いの白のハイヒールを合わせている。今から雑誌の撮影でもするかのような洒落た格好だ。組んだ足の上に両手を重ね、優艶な笑みを浮かべてこちらを見上げる姿は絵画に描かれた貴婦人のようで、木場は陶然として彼女の姿に見入った。


「……おい木場。木場!」


 ガマ警部に小突かれ、木場ははっとして現実に引き戻された。いけないいけない。これではまた前の事件の繰り返しだ。自分は刑事。大物女優が相手でも変わらぬ態度を取らなければ。


「あ、あの、自分は警視庁捜査一課の木場という者です。こちらは上司のガマさ……蒲田警部。事件の捜査のため、お話を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか?」


 木場が努めて冷静さを保ちながら言った。だが、麗央奈は笑みを崩さないまま木場を見つめたままだった。夜空の煌めきを思わせる黒い瞳に魅入られ、木場は急激に体温が上がるのを感じた。


「あなた、『リーガルX』はご覧になった?」


 麗央奈がしっとりとした声で唐突に尋ねてきた。木場は一瞬ぽかんとしたが、すぐに激しく頷きながら答えた。


「はい! 去年の夏に放映されて、最終回は視聴率40パーセントを叩き出して社会現象にもなったドラマですよね! 麗央奈さん演じる女弁護士エツコが、無実の罪を着せられた弱い人達を救うために巨悪に立ち向かっていく勧善懲悪型のストーリーの! 真犯人はいずれも政界や財界の大物ばかりで、ことあるごもにエツコを潰そうとしてくるんですけど、エツコが権力に屈さずに真相を暴いていく様がたまらなく痛快なんですよね!」


「よくご存知なのね。嬉しいわ。それじゃあ、『ドクターV』はいかがかしら?」


「もちろん知ってます! こちらは2年前に放送されたドラマで、やはり麗央奈さん演じる女医のツカサが、政界との癒着で腐敗しきった大学病院の闇にメスを入れていく話ですよね! 最初は傍観するだけだった同僚の医師や看護士も、1人で病院の闇に立ち向かうツカサの姿を見て心を打たれ、最後には院長以外の人間を全て味方につけてしまうんですよね! 最終回、ツカサが大勢の医師や看護士を引き連れて院長と対峙するシーンは胸熱だったなぁ!」


「あら、本当にお詳しいのね。あなた、ひょっとしてあたしのファンなのかしら?」


「はい! 自分、麗央奈さんが出演される番組は欠かさず見てますから! あの、もしよければサインを……」


「木場!」


 嫣然と笑みを浮かべた麗央奈を前にすっかり舞い上がり、木場がメモを差し出そうとしたところでとうとうガマ警部の怒号が飛んだ。慌ててメモを引っ込める。いけない、冷静に聞き込みをするはずがつい浮かれしまった。恐る恐るガマ警部の顔を盗み見ると、仁王のような顔でこちらを睨みつける表情がいつになく恐ろしく、木場は後で大目玉を食らうことを覚悟した。


「刑事さんを怒らないでくださる? 余計なことを聞いたあたしが悪いんですから」

 

 麗央奈が懇願するように長い睫毛の下から警部を見上げた。何気ない仕草が何とも艶めかしい。


「い、いえ……。今のは自分が……」


「もういい、お前は引っ込んでいろ」ガマ警部が木場を押し退けて前へ出た。


「俺達は事件の捜査に来ている。余計なお喋りをしている暇はないんだ。あんたは訊かれたことにだけ答えればいい。わかったか?」


「……ええ、仰せのままに致しますわ」麗央奈が目を伏せてしおらしく答えた。


「結構。では始めよう。まずは今日1日のあんたの行動を教えてもらおうか」


「9時から撮影でしたので、8時前にはスタジオに入りました。それからメイクと着替えをして、9時から12時まで撮影に参加しました。13時から撮影が再開して、それから休憩に入るまではずっと撮影に入っていましたわ」


「つまり、昼休憩の時間以外はずっと撮影に入っていたということだな。昼休憩の間はどこにいたんだ?」


「基本的には自分の楽屋にいましたわ。あぁでも……一度だけ、緒方さんの楽屋に行ったことがありました」


「何? それはどういう理由でだ?」


「大したことではありません。ちょっとしたご挨拶です。共演者なんですから当然でしょう?」麗央奈が取り澄まして答えた。


「ふん……まぁいい。それは何時頃のことだ?」


「お昼を戴いた後だったから……12時半くらいでしたかしら。だけど、結局緒方さんにはお会い出来なかったんです」


「何? どういうことだ?」


「楽屋の扉をノックしようとした時、中から彼の声が聞こえたんです。おそらくドラマの台詞だったと思うのですけれど。彼、よく楽屋で待っている時に1人で演技の練習をしていたものですから、今もそうなんだろうと思って、お邪魔にならないようにそのまま帰ってきたんです」


「では、部屋の前までは行ったが、被害者には結局会わなかったということか?」


「そうなりますわね」


「じゃあ、被害者は12時半までは生きていたってことでしょうか?」木場が口を挟んだ。


「断定は出来ん。この女優が聞いたのは声だけだ。被害者が生きている姿を見たわけじゃない」


「あぁ、そうか。死亡推定時刻が絞り込めるかと思ったんだけどな」

 

 木場ががっかりした顔で肩を落としたが、すぐに息を吹き返して状況をメモに書きつけた。




○三木麗央奈 当日の行動


8時 ドラマ場到着

9時~12時 撮影

12時半 緒方の部屋に行ったが緒方には会わなかった。外から緒方の声を聞いた。

13時~15時 撮影




「ところで、あんたは被害者と面識はあったのか?」ガマ警部が尋ねた。


「ええ……まぁ、初対面ではありませんでした」


 麗央奈が言葉を濁した。そこで木場はふとあることに気づき、ペンを走らせる手を止めた。


「あの、すみません。さっきの話を聞いてて思ったんですけど、麗央奈さんって、ひょっとして緒方勇吾と付き合っていたんじゃありませんか?」


「何?」ガマ警部が聞き捨てならないように尋ねた。


「麗央奈さん、言いましたよね。『緒方さんはよく楽屋で演技の練習をしてた』って。でも確か、麗央奈さんが緒方勇吾と共演してた作品はなかったように思うんです。なのにどうして楽屋で練習する習慣があることを知ってるのかなって……」


 ガマ警部がまじまじと木場を見つめた。こいつ、ただの芸能オタクかと思ったら意外と鋭いところがあるじゃないか。内心ではそう思ったが、言うと調子に乗りそうなので口には出さなかった。


「……さすが刑事さん、隠し事は出来ませんわね」麗央奈が憂わしげな表情でため息を漏らした。


「確かにあたしは昔、緒方さんとお付き合いしていました。今から6年前くらいだったかしら。まだあたしが無名の女優だった時代に、舞台で共演したことがきっかけでした。それほど有名な劇ではありませんでしたから、刑事さんはご存じなかったのかもしれませんわね。

 当時、緒方さんはすでに人気絶頂の俳優で、売名行為だなんて言われてましたけど……少なくともあたしは本気でした。でも彼にとっては、あたしも数ある遊び相手の1人に過ぎなかったようですわね。1年間付き合って……あたしは結婚も考えていたのですけれど、あっさりと振られてしまいました。でももう6年も前のことです。あたしも女優として大成して、今は仕事が何よりも大切ですから、彼のことは何とも思っていません」


「……本当にそうなんですか? 昔自分を捨てた男の楽屋にわざわざ挨拶に行くなんて、ちょっと不自然な気もしますけど」


「関係があったからこそ会いに行ったんです。変に隠れるような真似をして、未練があるなんて彼に思われたくありませんから。今はただの仕事仲間としてしか見ていないことを態度で示そうとしたんです」


 麗央奈はきっぱりと言った。緒形への未練は微塵も感じられない。彼ものことを何とも思っていないというのは事実なのだろう。


 それにしても、まさか麗央奈まで緒方に遊ばれた女性達の1人だったとは。6年前と言えば麗央奈は28歳、結婚を意識してもおかしくない年齢だ。そんな女性と1年間付き合って、散々期待を持たせておきながらあっさりと捨て去るなんて、許しがたい男だ――。木場は憤懣やるかたない思いでぐりぐりと新たな情報をメモに書きつけた。




○被害者との関係


 麗央奈は6年前、1年間緒方と交際していたが一方的に振られた。今は緒方のことを何とも思っていない。




「まぁ今はこんなところでいいだろう。協力に感謝する」ガマ警部が言った。


「いいえ、あたしとしても早く犯人を見つけて頂きたいですから」


 麗央奈が再び嫣然と笑みを浮かべた。木場はその姿に見惚れたが、ガマ警部が部屋を出て行こうとするのを見て慌てて後を追った。


「刑事さん」


 木場がドアに手をかけたところで麗央奈に呼び止められた。振り返ると、麗央奈がソファーから立ち上がってこちらに近づいてくるのが見えた。さっきまでの優艶な表情とは打って変わって、不安を湛えた眼差しでこちらを見つめてくる。


「刑事さん、必ず犯人を見つけてくださいね。あたし……自分が捨てられた恨みであの人を殺したなんて思われたくありませんの。女優にとっては評判が命。あたしが犯人でなかったとしても、そんな噂が広まった時点であたしの女優生命は終わりです。だから……お願いです。あたしのファンとして、どうかあたしを守ってください」


 麗央奈が縋るように言って両手で木場の手を握った。木場の全身を血流が激しく駆け巡る。


「は……はい! 約束します! 自分が必ず、麗央奈さんを守ると……!」


 木場が茹で蛸のように顔を紅潮させて叫んだ。涙すら滲む麗央奈の瞳は寄る辺ない少女のようで、さっきまでの女王然とした姿とのギャップに大きく心を動かされる。


「おい木場、早くしろ!」


 廊下からガマ警部の怒鳴り声が聞こえた。木場は慌てて麗央奈の手を振り解くと、彼女に会釈し、そのまま廊下へと駆けていった。

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