龍馬が異く

英城 塁

確かな未来 1

「乙女、姉さん、さすがに厳し、すぎます」

「何のこれしき。ここでくたばってはいつまで経っても強くなれませんよ、龍馬」

 

 仰向けで息をあらげている龍馬の前に乙女が立つ。防具を身につけ、右手に竹刀を持つ乙女は龍馬を起こした。二人は幼い子供だが、乙女は凛々しく、龍馬は貧弱な体をしている。


「さあもう一本、構えなさい」

 しぶしぶ、龍馬は中段に竹刀を構え、全身の力を抜く。一度も龍馬は乙女に勝ったことがない。勝機が全く見えない。そのやる気のなさに乙女は気づいていた。


「龍馬っ」

「はいっ」


 一喝するような乙女の威勢に龍馬の背筋が、ぴんと張る。


「今、母上が危篤ゆえ、剣術の鍛錬は無用かもしれません。しかし、龍馬が立派な男になるまで母上には、生きてもらわなければいけません」


 乙女の腕に自然と力がこもる。


「龍馬、男を見せなさいっ」


 乙女が龍馬に打ち込んでくる。龍馬は辛くも竹刀を眼前に滑り込ませ、受け止める。

「くっ」


 重い。ずしりと龍馬の膝が折れる。乙女は男に劣らない怪力を持っていた。だが乙女は素早く後ろに跳ねつつ、龍馬の胴に打ち込む。


「胴っ」

 乙女から覇気が発する。しかし龍馬はその勢いに答えられない。


「龍馬、もう一本」


 次に均衡を破ったのは龍馬。竹刀を振り上げ打ち込むが、乙女に軽くはねられてしまう。いったん距離を取るも、背後には池があり、あとがない。


(もう攻めるしかないか)

 龍馬は思う。しかしあることに気づいた。

(おれは攻めか守りか、一方しかしていない。なら、引き付けて打てば)


 乙女が歩み寄る。今の龍馬は乙女の動きがよく見えた。

 緊迫した空気。


「やああぁぁっ」

 龍馬が右足を出し間合いに入った。乙女はすかさず面を狙うが、龍馬は乙女の竹刀を払おうとする。胴を狙う龍馬だが、乙女の一撃が重く受け流せない。


「くっ」

 とっさに横へ龍馬は逃げ、乙女は振り返るも、

「あっ」

 とつまずき重心が傾き、左足が折れる。池に落ちそうになる乙女に、龍馬は市内を捨て、手を伸ばすが。


「龍馬、甘いですよ」

 右足で体を支え、振り上げた竹刀で乙女は面を打った。

 バチン、と澄んだ音が庭に響く。勝負あり。


 防具を外しながら、龍馬は唇を噛みしめ、

「乙女姉さん、ずるいです」

 と言った。善意につけ込まれ、面を喰らった龍馬自身にも怒りをぶつける。


「でも私はあなたを格好良く思いましたよ」

「どこがです。実戦なら、武士の恥になる死に方ですよ」

「結果は負けでしたが、過程が格好良かった、と言っているのです」


 中身を評価する乙女とは対照に、龍馬は

(でも死んだら意味がない)

 と心に深く刻んだ。勝てると思ったが、余計恥をかいただけだったからだ。


 不貞腐れている龍馬の肩を両手で掴み、乙女はじっと目を合わす。

「龍馬。戦いは、時に犠牲も必要です。しかしそれで勝ったとしても、心に深い傷を負うかもしれません」

「それならおれは戦いません」

「違います。剣術だけが戦場ではありません。色んなところで人間は戦うのです。だから強くなるのです。守りたいものを守るために己を磨くのですよ」


(守りたいものを守る)

 乙女は世界で一番の姉だと、龍馬は思った。だが同時に、

(おれは母上を失いかけている。どうしようもできない、みじめだ)

 と、拳で頭を殴りたくなった。





「母上、死なないでください」

 龍馬が手を握るも、母の幸に握り返す力はなかった。


 弘化三年、梅雨に入った頃。坂本龍馬は十二歳。連日の母の危篤に、夜も眠れない。

「母上、母上」

 と、涙が溢れながら龍馬の姉、乙女が呼びかける。家族総出で看病するも命を保つのがやっとだった。


「母上、ここで倒れてどうするのですか。龍馬はまだ周囲から鼻垂れ、寝小便ったれと言われ続けています。母上がいないと......」


 龍馬は落ちこぼれだった。つい先日、楠山庄助の学塾を退学したばかり。この年になっても夜尿病は直らず、『坂本の寝小便ったれ』とからかわれている。


 もちろん龍馬も自身を不甲斐なく思っていた。家族に迷惑をかけ、最近の父や兄の目は冷たいものになっている。期待に応えられず、焦る日々。


 しかし姉の乙女と母は違った。龍馬の大成を信じ、愛を捧げた。この子はいつか必ず世に嵐を巻き起こすと。


 龍馬は気を落とす。


 乙女は勝気でお転婆な娘であった。また龍馬にとって最も信頼を置き、慕う姉。その人が今、龍馬のことで頭を悩ませ、泣いている。どう声をかければ良いか、龍馬は思案する。


「乙女姉さん。ごめんなさい」

「なぜ龍馬が謝るのですか」


 乙女は涙を裾で拭き、顔を上げる。瞳はまっすぐ龍馬を見つめているが、表情は硬い。

 龍馬は細々と答える。


「それは、おれが弱虫で臆病者だから。迷惑かけて」

「龍馬、そんな弱気だからいつまで立っても男になれぬのです。自覚しているのならば、あとは乗り越えるだけです」


 乙女は決して龍馬を貶さなかった。ときに厳しくも、龍馬に希望を持たせる言葉をかけてきたつもりだ。


 だが、乙女の声が大きかったらしい。幸はむせながら、目を開けた。

「乙女、あまり寝床で騒がないで、ください」

「「母上っ」」


 乙女と龍馬は同時に声を上げた。幸が動かなくてもいいようにと、枕元に近寄る。久方ぶりに、母と声を交わし、二人の脈が上がった。


 幸は壊れてしまいそうなか弱い二人を抱きしめたかった。もっと一緒に居てあげたかった。もっと二人の成長を見ていたかった。


 しかしそれは叶わない夢だと、幸が一番知っている。幸の運命は決まっていた。今できることは、愛する龍馬と乙女を安心させることだけ。


「龍馬、強さとは力だけではありません。まず知恵が必要。それから鋼のような心」

 ゆっくりと幸は口を動かす。龍馬は一言一句逃さず聞く。


「何より......いえこれ以上は無粋です。私がいなくても龍馬は立派なになります」


 龍馬は幸の言葉に驚いた。龍馬の家系は郷士だ。それ以上でもそれ以下の身分にはならない。しかし志士とは、天下のために命を捧げる志しが高い人だ、と龍馬は習った。


(おれは天下のために戦う男になれるのか)

 龍馬は話の大きさに身が縮む思いをした。


 幸は不安がる龍馬を見て微笑み、乙女の方に目を向けた。


「乙女、あなたが龍馬を鍛えるのです。そして良い話し相手になってあげてください」

「勿論です。私は龍馬の姉ですから」


 幸は乙女に浮かぶ憂いを見逃さなかった。


「乙女、よく聞いてください」


 幸の声は慈愛に満ちていた。恵みの雨がしとしと降っている。


「信じることは簡単ですが、信じ続けることは難しいものです。どうして私が、龍馬の前途有望を一片の迷いなく信じられるか分かりますか?」

「いえ、分かりません」


 信じることに特別な理由などいらない。乙女は姉として龍馬の未来を信じている。しかし時々母について思うところがあった。母はいつも龍馬を励ました。母は何か確固たる理由を持って龍馬を信頼しているのではないか。


(龍馬には本当に何か秘められた力があるのかもしれない)

 そう乙女は期待した。


「ふふ、それはね。私が龍馬の母、だからですよ」


 幸は血の気が引いた白い肌に笑みを浮かべる。幸の答えは乙女が期待したそれとは違った。でも乙女は妙に納得してしまい、腹を抱えながら笑った。


「ええ、そうですね。そうしたら私は龍馬の姉失格です。母が信じられるのに、姉が信じられない道理はありませんから」


 女性二人が自分のことを笑いながら話していて、龍馬は少し居心地が悪かった。


 乙女は笑い、悩みが吹っ切れたように思えた。だがそれは一時的なものだと、幸は知っている。どうすれば安心して龍馬を乙女に預けることができるか、朧げな意識で考える。


(やはりあの本のことを乙女に教えるしかないのでしょうか)


 それは幸にとって運命の出会いだった。刻々と過ぎる時間の中で、幸だけが見つけた本。物語も人生で最も面白かった。今は大事に自分の部屋のタンスにある箱の中。


 その運命を他人に教えるのは憚られた。幸だけの秘密にしたかった。もしその本が龍馬や乙女の手に渡れば未来が大きく変わってしまうかもしれない。なぜならそれは未来を示す予言書だからだ。


(龍馬が十二の時、私は死ぬ。その予言の的中が何よりの証拠だわ)


 死の淵にいる今の自分を見て、その予言がこれからも当たるだろうと、幸は確信を得た。

 でも娘の憂慮を見て見ぬふりをできるほど、幸は残酷になれなかった。


(これは運命に任せるしかありませんね)


 神を頼るのではない。娘が自分で道を選ぶことを願う。


「乙女、私の部屋の整理を頼みます」


 幸はその二日後、安らかに天に登った。





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龍馬が異く 英城 塁 @sato_kozya

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