八岐大蛇


の目、赤かがちの如くして、


身一つにつのかしらつの尾有り。


また、其の身にひかげすぎと生ひ、


の長さは谿たに八谷やたに八尾やをわたる。


其の腹を見れば、ことごとく常にただれたり。




古事記に書かれた八岐大蛇の姿は上記の如く八つの頭と尾、山や谷に渡るほどの巨躯を持った凄まじい怪物である。鬼灯ほおずきのような真っ赤な眼を輝かせその身体には檜や杉が生えており腹は常に血に塗れて爛れているという。


日本からの帰国子女である李 太龍リ タイロンは日本神話についても通り一遍の知識は持っている。当然、八岐大蛇についても知っていた。

人の力ではどうしようもない大自然の暴威を具現化したような荒らぶる八頭やがしらの大蛇。人智を遥かに超えた凄まじい暴虐の怪物。


今、李 太龍リ タイロン達の前に出現した怪異はまさしくそれであった。

その一本の首だけでも青龍に変化した自分の二倍以上の長さを備えていた。それらが八本揃って輪状に纏まった山のような胴体と再び八つに分かれた尾根の如き尾を合わせれば百メートルに及ぶだろう。


それは以前に紅狐と玄狼が鎮めたあの大海坊主さえ小さく霞んでしまう様な想像を絶するほどの大きさだった。その超巨体の腹部からどろりどろりと滲み出る深緋こきあけ色の血爛れた体液が辺り一帯の海面を赤黒く染めていた。



林 宗虎リン ヅォンフーが白い剛毛に覆われた巨大な口吻を捲りあげペットボトルほどもある獰猛な犬歯を剥き出しながら人語を発した。



「バ、馬鹿ナ・・・・ コンナ巨大ナ生物ガ存在デキル筈ガナイ!」



巨大生物や巨大化などは漫画や小説に出て来るように際限なくできるものではない。確かに身体が大きくなれば筋力もそれに伴って増加する。だがその許容範囲はさほど大きくない。


何故なら筋力の強さはその断面積に比例するが体重は体積に比例するからだ。そして面積が二乗倍で増えるのに対し体積は三乗倍で増える。

つまり動物の身体の大きさが何倍にもなれば身体に掛かる重力の負荷が大きくなりすぎて立ち上がるどころか動くことさえ出来なくなってしまう。


史上最大の哺乳類であるシロナガスクジラの確認された最大個体は体長30メートル、体重200トンである。只、それは海水の中では重力に対抗する浮力という力が存在するからであり間違っても百メートルに達する超巨体を持った陸上生物などは存在しない。


太古の昔、地球上を闊歩していた草食恐竜の中には体長40メートル、体重90トンという超巨体を持っていたとされるものもいるが当時は今より地球の重力が小さかった事、酸素濃度が現在の何倍もあった事、竜脚類の骨や呼吸器官の構造が特殊であった事などから存在できたとされている。

だが林 宗虎リン ヅォンフーの言葉通りこれほどまでに大きな爬虫類が自在に動き回ることはあり得なかった。


そして今、八ツ頭の怪物は海を抜け出てその血爛れた腹から滲み出る紅い体液で白い浜砂を深緋こきあけ色に染めながら上陸したところであった。その山のような巨躯の大半は未だ海水の中に浸かったままだ。

やがてゴゴォッ、ゴゴォッという低い地鳴りのような擦過音を立てて山ほどもある巨体がゆっくりと動き出した。



「アノ紅イ血ノヨウナ体液、アレハ何ダ?・・・」



白虎の独り言のような問い掛けに青龍が答える。



「アノ赤イ粘液ガ地面トノ摩擦ヲ無クスル為ノ潤滑剤ノ役目ヲ果タシテイルノデハナイノカ?」



青龍の推測に対し体長15メートルを超える巨大な黒い亀、玄武が異を唱えた。



「 違ウ、ソレダケデハナイ。アノ体液カラハ厖大ナ念力ヲ感ジル・・アレハヒョットシテ・・・液状精霊鉱リキッドスプルトニウムノ一種カモシレン?」


「ナルホド、アノ赤イ液ヲ念能媒体トシテ斥力ヲ身体ノ周囲ニ発生サセテイルノカ?

ダカラアノ山ノヨウナ巨体デ動クコトガデキルノダナ。」



八岐大蛇は四神達を敵と認識しているようだった。20メートル以上もある八つの長い首をウネウネとくねらせながらゴゴォッ、ゴゴォッと這い寄って来る。

それはまるで横倒しになった巨大なイソギンチャクが触手を伸ばして獲物を掴もうとしているかのようであった。



「・・・ドウスルノダ?」



林 宗虎リン ヅォンフーが押し殺したような声で訊いた。

張り詰めた沈黙が四神達の間に舞い降りる。

その沈黙を破ったのは李 太龍リ タイロンだった。



「直接ニハ組ミ合ワズ四方カラ攻撃シテ様子ヲ見ル。アンナバカデカイ怪物ヲ式神トシテ使役シテイルノダ。如何ニアノ女ガ優レタ念能者デアッテモアレホドノ質量ヲ何時迄モ実体化出来ル筈ハナイ。」



四人は頷きあうと大蛇を囲むように分散した。青龍は東、朱雀は南、白虎は西、玄武は北へとそれぞれが守護する方位に分かれて位置取った。

そして四頭の口から凝縮された念エネルギーが次々に実体化し始める。


青龍からは超臨界水が、朱雀からは獄炎が、白虎からは衝撃波が、そして玄武からは蒼白く光る雷撃がそれぞれの頭部全体を覆う程に膨れ上がって一斉に放たれた。


その狙いは全て中央の首一本に集中されていた。正面からバラバラに真向勝負を挑めば全員玉砕しかねないほどの強大な敵でも集中して一本づつ潰していけば勝てる。

その筈であった。


しかし大蛇は四方からの遠隔攻撃に対し四本の首を巡らせてそれらを防いだ。猛烈な物理エネルギーへと変換された念エネルギーが四本の首に当って爆散する。凄まじい轟音と光が夜の闇を走り抜ける。


だが轟音の余韻と閃光の残像が消えた後の夜闇に残っていたのは鬼灯ほおずき色に輝く八対の巨大な眼であった。

黒いはがねで出来たような鱗にはわずかな傷さえ見当たらなかった。



「首ト頭部ノ周囲ニ強力ナ障壁バリヤーヲ張ッテイヤガル!」


「目ニ見エナイトナルト斥力障壁バリヤーカ?」


「ソレナラ超臨界水ハ防ゲテモ熱ヤ電撃マデハ防ゲマイ。恐ラク実体化シタ不可視ノ膜ノヨウナ物質デ首カラ上ヲ覆ッテイルノダロウ。」



自分達の放ったエネルギー波が何の効果もなかったことを認識した四頭は再びその咥内に念エネルギーを発現し始めた。彼等の目的は大蛇を倒すことではなくそれを使役する術者を消耗させることであった。


あの女は手に掲げた天叢雲剣あめのむらくものつるぎとやらを式神のコントローラーだと言った。その言葉の真偽は分からないがあの剣が念エネルギーの強力な増幅効果を持っていることはまず間違いない。

だがこちらは四体、向こうは一人。あの剣がどれほどの触媒効果を秘めているのか分からないが手数を繰り返して消耗戦に持ち込めば間違いなくこちらが有利だ。


彼等がそう思った矢先、大蛇は突然、山津波のような蛇行を止めて思わぬ動きに出た。八本の首の内、四つは真っ赤に燃える巨大な石炭のような眼で東西南北の方角を睨んでいる。その残りの首の内の一本が巨大なアーチを描くように地面の上に頭を伸ばした。そして砂浜の上から黒い何かを咥え上げると漆黒の鎌首を再び夜空に向かって聳え立つ鉄塔のように真っ直ぐに伸ばした。そして大きく口を開くと咥え上げた黒い何かをバクリと喉の奥へと送り込んだ。



「ヒィィィィー! 帮助たすけてぇ! 讨厌いやだぁ!」



呑み込まれる寸前、その黒い何かが身の毛もよだつ様な恐怖の悲鳴を上げた。

やがてその悲鳴はくぐもった恐ろしい呻き声と化して大蛇の喉の奥へと呑み込まれていった。他の三本もそれぞれ首を弓なりに曲げ伸ばして咥え上げた黒い物体を次々に呑み込んでゆく。



请帮助!助けてください 队长隊長


「アガァッ、我被吃喰われてしまう!」


母亲っかあさん‥‥ヒ‥ヒギィィィー 」


讨厌嫌だ身体からだが・・能撕碎身体体が千切れるぅぅ!」




「「「「 ! 」」」」




四神達の身体が恐怖と憤怒に強張った。大蛇が咥え上げた黒い物体は彼らの部隊とうりてんの部下達だった。少年を追う途中の事故や戦闘で傷つき倒れた者達であった。瀕死ではあったが彼らはまだ生きていた。だが大蛇はその彼らの身体に喰らい付き呑み込んでしまった。

喰われた者達は厳しい軍規と冷酷な任務に身を置いた上での関係とは言え自分達が手塩にかけて育て上げた男女達であった。


李 太龍リ タイロンをはじめとする四神達は怒りに身を震わせ乍ら、狂ったように念エネルギーの咆哮を放った。

周囲の空間が熱く煮え滾るかと思われるほどの念エネルギーが八岐大蛇目掛けて集中する。しかし大蛇の周囲に広がる血爛れた紅い体液から立ち昇る不可視の霧のような何かがそれらの攻撃をことごとく無効化し打ち消した。


彼等の中で最も理子に近いのは北の方角に位置する趙 真武ジャオ ジェンウー変化へんげした玄き巨亀、玄武であった。彼は甲羅から突き出した太く長い首を巡らしてその術者を見た。女には何の疲弊も消耗も感じられなかった。冴え冴えとした月明かりを受けてその姿は月の女神の如く美しくさえあった。


ただその瞳には一片の慈悲すら感じられない。凍てついた表情とは裏腹にグツグツと煮えたぎる溶岩のような怒りが女の眼の奥に渦巻いていた。

それはまるで酷寒の極地に出現した噴火口の如き雰囲気を漂わせていた。


女は手に持った剣を縦に一振りした。途端に四方を向いていた四つの頭がそれぞれ大きく口を開け シュゴォォォォー という山頂からふもと目掛けて吹き降りる山颪やまおろしの如き轟音を噴き出した。蛇類が発する独特の威嚇音が数百倍に増幅された音であった。


同時に東西南北に散在するそれぞれの四神達目掛けて四つの口から直径約1メートルの仄暗い球状の空間が吐き出された。本能的に危機を察知した彼らはたじろぐようにその灰白色の空間を避けて巨躯を飛びのかせた。


次の瞬間、その空間の通った軌跡の周囲に在った砂、岩、木、草、そして大気さえもが一瞬にして吸い寄せられ、引き千切られ原形を止めぬまでに潰されて圧縮された。極度の摩擦熱でゴリッ、ゴリッ、バチバチッと発生する赤い火花すらも飛び散ることなく吸い寄せられて真っ赤な燐光のように空間内部を彩る。


それは爆縮と呼ぶに相応しい途轍もない負の圧力の玉であった。白鳥座X1に存在すると云われるブラックホールのシュヴァルツシルト面の重力を千倍近くに希薄化したレベルの引力を有した空間だった。


グレイホールとでも呼ぶべきその灰白色の結界は急速に萎んでゴルフボールほどの黒い塊になった。やがてドスンと地面に落ちたそれはバリバリと青白い火花を放ちながら物凄い勢いで地中へと潜っていく。


大量の浜砂と大気を巻き込んで馬鹿でかい蟻地獄のような穴を出現させたそれは更に何処までも潜って火花さえ見えなくなった。穴の周囲に吸い込まれる大気によって獰猛な渦巻き流が発生する。

それは直径4cm強の体積の中に何十トンという超質量を備えた物体が引き起こした異次元の現象であった。



李 太龍リ タイロンはゾッとした。

八岐大蛇は口腔内からその強大な引力球の空間を吐き出したのだ。もし飛びのくのが少しでも遅れていたなら己の身体は一部をごっそり引き千切られるか、もしくは全身をミンチ状になるまで圧縮され潰されて一口サイズのハンバーグにされていたに違いない。


あの黒い岩盤のようなあぎとに挟まれたら最後、如何に自分達四神であっても逃れることは不可能だ。瞬時に実体化させた念体ごと豆粒ほどに圧縮され呑み込まれてしまう事だろう。



『現時点ではあの子の何倍も私の方が手強いわよ。』



彼はそう言い放った理子の言葉が事実であることを認めざるを得なかった。自分達四神が束になって掛かっても勝てない相手だと思い知らされた。しかし自分達にはもう逃げ道は無い。降伏はあり得ない選択だった。


ならば・・・彼は目標を変更した。少年を拉致する作戦は失敗したが最大限の妥協点、祖国にとって将来の脅威となる事態を排除するために少年を亡き者にする任務だけは完遂しなければならない。

先程、部下たちに出した同様の命令は思わぬ伏兵独鈷衆によって阻止されたが今度は自分達四神の手でそれを実行するのだ。



「朱ヨ、少年ヲ追エ。ソシテ殺シテクレ。」



李は朱 媛雀ジゥ ユァンチャオに向かってそう言った。このまま人間の姿に戻っても逃げおおせるほど内調の連中は甘くはない。身柄を確保されてしまえばそれは祖国に対する重大な裏切りだ。それにそれを許すほどあの女術者は生易しい敵ではあるまい。

頭のネジが何本かブッ飛んだようなこの戦場を抜けて少年を始末に行けるのは空を飛べる朱雀以外になかった。



「分カッタワ。必ズソウシテミセル・・・戻ッテキタラアノ八頭ノ怪物ヲ倒シテ皆デ祖国ニ帰リマショ。・・・・再见、李同志。」



青龍は喉の奥で唸るようなゴロゴロという声を出した。笑い声であった。少年を奪還した日本政府の連中は精鋭揃いだろう。もしその中にあの ”高天ヶ原” の者が混じっていたりすれば四神の朱雀と言えども無事に済むはずがなかった。


たとえ生き延びることが出来たとしても諜報機関の幹部である自分達には証拠隠滅のために自刃するしか道は無い。それを知りながら彼女ユァンチャオは敢えてそう言ったのだと分かっていた。


そして朱雀はユラユラと陽炎の如く揺らめく真っ赤な翼を大きく広げると夜空に向かって舞い上がった。翼開長20メートルの巨大な火の鳥が県道目指して飛んで行った。



「次に会う時は閻魔の前だな。地獄の鬼共の舌を四人で抜いて回ってやろうぜ。

再见、朱同志。」



ゴツゴツした鼻面に皴を寄せ牙をむきだした李の顔は恐ろし気な龍のままであったが人間の姿をしていればあの人を引き込むような屈託のない笑顔を浮かべていたのかもしれない。


朱雀の飛んで行った方角に巡らせていた頭を元に戻した青龍が眼にしたのは彼を射殺すような眼で睨む少年の母の顔だった。

その眼は彼が何を命じたかを知っている目であった。



「そうだ。お前の息子もそしてお前も生かしておくわけにはいかないのだ。それが俺達の任務だからだ。」



彼は声には出さずにそう呟くと女術者に襲い掛かった。それを予期していたかのように白虎と玄武がそれに続いた。あらん限りの脚力で彼女目掛けて突き進む霊獣達に向かい理子はゆっくりと優雅に剣を振った。


爆走する戦車のような地響きを立てて肉迫する李 太龍リ タイロン林 宗虎リン ヅォンフー趙 真武ジャオ ジェンウーを一斉に放たれた八つの小さなグレイホールが直撃した。


辺りは一瞬にして地獄絵図と化した。あらゆる物が引き千切られ砕かれて痕跡すら残さずに消失していく。

やがて自然の脅威さえ生易しく思えるような超自然の突風が吹き荒れた後には何も残っていなかった。ただ砂浜に穿たれた八個のすり鉢状の大穴からゴォッ、ゴォッという巨大生物の息吹のような風音が聞こえてくるばかりだった。


そして荒涼とした荒野の如く大きく様相を変えた砂浜の中で生きているのは地面に突き刺した剣を支えにするようにして立つ理子だけだった。












  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る