自由へのExodus

そのまま宇宙へと突き抜けるかの如くに澄み渡った五月の青空を迷彩模様カモフラージュを施されたヘリコプターが飛んで行く。眼下には四国の街並みや山々が広がっていた。それらを見下ろしながら理子は逸る心を一生懸命落ち着かせようと努力していた。


これが只の遊覧飛行であればどんなに気が楽な事だろう。だがそうでないことは眼の前の虚空を駆ける半透明の白い霊獣の巨体が示していた。


天狐は青白い燐光を纏った八本の尾を羽のように波打たせながらUH-1Jヘリより一段高い宙空を滑るように飛んで行く。物理的法則を無視して悠然と大空を闊歩するその姿は搭乗者全員に現況の非常性を否応なしに知らしめるものであった。



「半年ほど前に玄狼君は中国籍の犯罪者集団と接触していますよね?」



ヘリの操縦室のなかで隣に座る石川 瑠利に不意にそう訊ねられて理子は思わず エッ? と聞き返した。



「去年の秋に備讃瀬戸海域の香河県近域において海上保安庁の巡視船 あわしま が密漁者集団の乗るクルーザーを拿捕し乗組員全員を逮捕した事件がありました。


集団の大半は中国籍で彼らを追跡していた日本の漁船に対し逆襲しようとしていたところに緊急救助要請を受けた巡視船 あわしま が到着、集団を制圧し漁船の船員を保護したとの記録があります。


公式な記録には残されていませんがその際に、一人の少年と女性、そして老漁師が保護されています。さらにその少年と女性は神職関係の者達であったという事が報告されています。その少年とは玄狼君の事ですよね?」



理子は 瑠利の言う事件というのは加賀美 紅狐と玄狼が荒魂化したザトウクジラの親子の霊を祓った海坊主事件の事を言っているのだと気付いた。

                     ※ 第64話【空飛ぶクジラ】参照


「ええ、多分それで合っていると思います。」



一応、肯定はしたがあの事件の真相は少し違っている。巡視船が到着した時、密漁者集団は既に意識不明の状態であったし紅狐はともかく玄狼は神職ではない。

それをどうやったのかわからないが事件の内容から紅狐達二人と老漁師の存在を消し去って単なる密漁者集団の検挙に書き換えてしまったのは他ならぬ石川 瑠利の背後に存在する政府の諜報機関である。



「その時にくろうの引き起こした強大な念能現象を目撃した密漁者集団の人間から帰化人である同胞の弁護士や大使館員を通じて中国政府へと報告がなされた可能性があります。


中国には国家情報法と呼ばれる強力な情報収集の法律が存在します。

それによって機関、組織及び個人に対しそれらが持つ全ての情報の提供を強制する事が出来るのです。それは対象が犯罪者集団、闇社会の組織と言えども例外ではありません。


その報告によって玄狼君の特殊な念能力に気付いた党の政治局が軍の諜報部に命じたのでしょう。そして半年近い入念な準備をかけて今回の拉致を実行したのではないかと思います。」



  『そうか、あの海坊主の調伏があの子が拉致された原因・・・迂闊だった。

   外国人との接触は注意するようにと言い聞かせておくべきだったわ。』



と理子は後悔した。と同時に青白く燃え上がる超高温の憤怒が己が身を焼き尽くさんばかりに噴き出してくる。

あの子を攫った連中が誰であろうと決して許しはしない! 私のこの手で恐ろしい神罰を与えてやる! と歯をギリッと噛み締めながら彼女は誓った。



「あの子を攫ったのは須弥山とかいう集団なのですか?」


「ええ、新明解放軍の須弥山参謀部でほぼ間違いないと思います。更に言えばその中核的存在である忉利天とうりてんという特殊部隊の仕業ではないかと推測されます。」


「忉利天・・・・?」


「須弥山とは古代インドの伝説上の山です。頂上には帝釈天インドラをはじめとする天部・神々の住む場所がありそれが忉利天です。


須弥山の中腹には四天王、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天の四神がいて忉利天を守護していると言われています。

中国の伝説にもそれとよく似た四神というのがあって青龍、朱雀、白虎、玄武という霊獣がそれぞれ東、南、西、北の方角を司っているとされています。


実はその特殊部隊とうりてんの幹部四人が青龍、朱雀、白虎、玄武というコ-ドネームで呼ばれているという情報があります。そして今朝、ご自宅でお話しした李 太龍リ タイロンはその青龍というコードネームを持つとされる人物です。」 



しばしの沈黙の後、理子は低い声で訊ねた。



「その特殊部隊とうりてんとやらを制圧する方法は? 自衛隊の力をお借り出来るのですか?」


「それは・・正直言って難しいです。

向こう側が武器を使用すれば緊急措置として応戦も認められるでしょうがそうなった時は先に仕掛けた方が圧倒的に有利となります。近代戦における武器の威力と性能は過去の大戦におけるそれとは比較になりません。

後手に回った方はおそらく数分で殲滅させられるでしょう。


そして自衛隊は法的、政治的な制約から先に攻撃を仕掛けることは難しいです。

対して特殊部隊とうりてん側は先に発砲するのを厭うことはないと思います。

もし自分達が拘束されれば中華新明共和国が如何にしらを切ろうとしても難しくなるからです。そして国際社会からは凄まじい非難を浴びて孤立することになることは確実です。そうなれば経済的にも政治的にも危機的状態になる可能性が高くなります。


万が一、工作が露見した場合も降伏する可能性は低いと思われます。恐らく全滅しようとも任務を遂行しようとするはずです。

言ってみれば特攻隊なんですよ、彼らは・・・


そして玄狼君の拉致が無理だと判断した時、追い詰められた特殊部隊が彼をどうするかが問題なのです。最悪の場合・・・・・・・」


「あの子を殺す?」


「・・・・・申し上げにくいですがその可能性が高いです。」



石川 瑠利はそう答えた後で声のトーンをやや高めに変えて言った。



「ただそれは最悪の場合のシナリオです。現実的には特殊部隊とうりてん側も自衛隊と局地戦になるほどの強力な武器を日本国内に持ち込むことはできないはずです。せいぜい拳銃止まりでは無いかと思います。

しかしそうなると気になるのは・・・念能を使った戦闘力です。


一般人であれば人をどうにかできるほどの念能を持つ者はごく稀ですが軍人のように特殊な訓練を受けた者の中には人間離れした身体能力や物理現象の発現力を有する者もいます。その中には下手な武器より殺傷力のある力を操る者もいないわけではありません。例えば理子さん、貴女のような。」



石川 瑠利はそう言うとなぜか理子の顔を黙ったままじっと見つめた。何かを言いたげな表情であった。やがてその意味に気付いた理子は薄く笑って呟いた。



「貴女の言いたいことが分かったわ。つまりは肉弾戦という事ね。だったら機関銃でもバズーカ砲でも持ってくればいい。私一人であの子を取り戻して見せるから。」



瑠利は眼鏡の黒い金属フレームをクイッと指で押し上げながら静かな声で言った。



「はい、微力ながら我が機関もお手伝いさせてもらいますわ。」




― ― ― ― ― ― ― ― ―




それは海岸線の外れにポツンと立った寂れた食品工場だった。茶色く錆びついた看板から大庭水産という文字がかろうじて読み取れる。十年以上前に倒産したまま稼働していない工場だがここ数ヶ月、時折トラックや乗用車が止まっていたりすることがあった。


小さな岬状の地形の先端に建てられたそれは陸路からの搬入口の他に海から小型漁船が直接、入り込んで荷下ろしが出来る舟屋造り式の搬入口を備えていた。


日没時間の午後七時過ぎ、その海に面した搬入口の水門ゲートの扉がゆっくりと上がり始めた。ゲートの向こうには工場内へと続く水路が続いている。

外部への曳光を警戒しているかの如く細く絞られたライトの光が天井から水面に反射して仄暗く揺れていた。


その水路の手前十メートルほどの海面から幅二メートル、長さ六メートルほどの奇妙な船体が波間を割って浮上してきた。漁船とはかけ離れた外観を持ったそれはディープフライング社製の潜水艇、ハイパーファルコンであった。


ハイパーファルコンは約六メートル幅の水路にゆっくりと侵入していく。潜水艇の後部が完全に工場内に入って見えなくなると水門ゲートは閉じ始め元通りに水路を塞いだ。潜水艇は水路の行き止まり近くまで船首を近づけて停船した。

暫くしてウィィーンというモーター音と共に二つのコクピットが開き一組の男女が船体からコンクリート製のプラットホームに降り立った。男女は王 美雨ワン メイユイと水上 玄狼だった。


そこは無人の水揚げ場であった。消え入りそうな照明の中に天井から下りた荷下ろし用の大きなクレーンフックがダランと侘しく垂れ下がっているだけの殺風景な場所だった。

美雨 メイユイは玄狼の手を引いて水揚げ場の奥にそびえる壁に近寄ると壁横のスイッチを押した。


ギッ、ギギ、ギィ・・ゴ、ゴゴッゴォォォーーーー


途端に金属同士が擦れ合う軋み音を喧しく響かせながら壁が天井に向かって上昇し始めた。壁と見えていたものは大型の電動シャッターであった。シャッターの向こうは広い倉庫のような部屋になっておりそこに十数名の人影が待機していた。

その影の中から一際、重量感のある大きな影がヌッと前に出て来ると王 美雨ワン メイユイに声を掛けた。



「是艰难、王。(ご苦労だったな、王。)」



美雨 メイユイはピッと背筋を伸ばし足を揃えて敬礼した。大きな影は李 太龍リ タイロンであった。李は重い手枷を着けられ頭に金箍児キンコジを嵌められた玄狼を一瞥して母国語で彼女に訊ねた。



「彼の状態は大丈夫か?」


「疲れてはいるでしょうが問題になるほどではないと思います。鎮静剤の影響で会話などは難しいですが単純な行為であれば自分の指示に対しては従順です。」


「そうか。参謀部しゅみせんの回収船へ合流するための偽装漁船はもう接岸している。此処から少し離れた小さな漁港だ。今から車でそこまで行ってお前とその子を乗船させる手筈になっている。潜水艇はここで我々がトラックに回収する。


だが時間はあまりない。ぐずぐずしていると日本政府の内調(内閣情報調査室)の連中に嗅ぎつけられる可能性もある。急ぐぞ!」



李を先頭に王 美雨ワン メイユイと彼女に手を引かれた少年が続く。その周囲を他の人員が囲む形で搬入棟の外へと進み始めた。工場を出るとアスファルト舗装された広い敷地がありそこから先は道幅七メートルぐらいの未舗装の砂利道が七十メートル程先の海岸沿いを走る県道まで続いている。砂利道の両側はガードレールもない急な斜面でその下はごつごつした岩混じりの砂浜であった。


海岸通りの近くに停めてあるバスに乗って船の待つ漁港に向かう、王 美雨ワン メイユイと玄狼が船に乗るのを見届けたら此処に戻ってトラックの荷台に潜水艇を積み込む、荷台に防護シートをかぶせて潜水艇をカモフラージュした後、トラックとバスに分かれて四国を離れる・・・・それが李の描いた作戦予定であるらしかった。


一行が砂利道の中間地点辺りに来た時、不意に美雨 メイユイの手から玄狼の手の温もりと感触が消えた。驚いた彼女が振り返るとそこには棒のような物を口に咥えた少年の姿があった。突然、何処からともなく現れ出でたそれは漆黒の柄と銀色の刃を備えた鍔の無い小刀であった。


美雨 メイユイはそれが一瞬ギィィィィーーーンと哭いたような気がした。


彼はその妖しげな刀を咥えたまま小さく首を振った。冷たく光る銀閃が手枷の近くの空間をするりと走り抜ける。

次の瞬間、分厚い杉板がバリィンッと乾いた音を立てて二つに分断された。斬れたというよりも割れた感じであった。


呆然とする美雨 メイユイの斜め後ろを歩いていた男が ゴンッ という肉を打つ音と共にグニャリと崩れ落ちた。玄狼が手に残った手枷の半分で男のこめかみを打ちつけたのだと分かった時、既に少年は人垣に生じたその綻びを縫って脱兎のごとく闇の中へと駆けだしていた。



「不要放掉!  抓住!(逃がすな! 捕えろ!)」



李の怒鳴り声が夜闇に響く前に数名の男女が遅滞なく動き出していた。五十メートル以上離れた県道の道路照明灯の僅かな光を頼りに少年の後を追いかける。彼らが特殊な訓練を潜り抜けて来た者達であることを窺わせる素早い動きであった。


対して逃亡する少年の動きはぎこちなかった。バッテリーの切れかけた玩具のロボットのようなギクシャクした走り方で何度も躓きそうになりながら砂利道を必死に駆けていく。


その距離はあっという間に縮まって彼を追う集団の先頭が愈々いよいよ、追いつこうとした瞬間、少年の身体は道の幅員を飛び出して茶色い土がむき出しになった急斜面を転がりながら落ちて行った。




― ― ― ― ― ― ― ― ―




玄狼は走っていた! 死に物狂いで走っていた!



捕まったら最後だ。さっき李が言った言葉通りなら自分は二度と日本の地を踏むことは出来なくなる。後ろから迫る複数の足音が直ぐ近くに聞こえ始めた。

とても県道までは逃げ切れない! と悟った彼は切羽詰まって砂利道の端から始まっている奈落のような暗闇へと身を躍らせた。


忽ち激しい衝撃が頭、肩、背中、肘、膝を立て続けに襲った。まばらに草の生えた土塊ばかりの急斜面を玄狼の身体はゴロンゴロンと転がり落ちて行った。どうにか身体が止まったところで彼はノロノロと身を起こすと暗闇の中に目を凝らした。


わずかな月明かりの下、そこには砂浜らしきものが広がっているのが見て取れた。

奥行六、七十メートルといったところの灰色っぽい砂浜が崖上を走る県道に沿う様に遥か先までずっと続いているらしかった。


逃げなければ捕まる! 斜面を転げ落ちた衝撃でクラクラする頭の中に稲妻のような警告がよみがえった。

玄狼はフラフラと立ち上がるとそのまま走りだそうとして何かに躓いて倒れた。同時に額から右頬に掛けて強烈な痛みが疾った。


躓いたのはごつごつとした黒い岩であった。倒れた先にも岩があってそれが顔面を擦ったのだと知った。ズキズキと痛む個所を手で拭うとヌルッとした感触があった。出血したのだと気付いた彼は闇を見凝らして絶望的な気持ちになった。


眼の前に広がる百メートルほどの部分だけは平坦な砂浜ではなく岩礁混じりのそれだった。急いで走り抜けようとすれば大怪我をする可能性があった。

だが後ろからは既に人の動く気配と物音が迫っている。グズグズしてはいられない。


玄狼は両手を割れた手枷の残部から強引に引き抜くと頭に嵌められている金属環を抜き取って海方向に投げ捨てた。そしてそのまま念視能を発現させると波打ち際に沿う様な形で前方へ向けて走り出した。


県道に向かって砂浜を横断してもガードレール下に立ちはだかる崖を登れるだけの体力が自分に残っているとは思えなかった。といって縦断した先に助かる保証があるわけではない。しかし今は前を向いて逃げるよりほかに選択肢が無かった。




足先を遮る様に横たわる青白く光る何かを飛び越えて走る。それは念による視覚で捉えた岩であった。遠く離れた先までは知覚できないが半径五メートル以内であれば物体を認識できる。対象が念や気であればであれば通常の視力を上回る範囲と精度で確認できるのが念視の特徴であった。


そうして玄狼が地雷原を思わせる岩礁混じりの砂浜を抜け出した時、幾本ものギラついた光条が集中砲火の如く彼の背中に突き刺さった。いつのまにか特殊部隊の追手がビームライトを片手に追いついてきていた。


少年くろうの体力は殆ど限界だった。

数日間、冷たく窮屈な潜水艇のコクピットに押し込められていた身体は棒を呑んだかのように硬く痺れて感覚が無かった。

つま先が地面を蹴る度に足の腱と筋肉がビキッ、ビキッ、と音を立てて骨から引き剥がされるような痛みが走る。


注射うたれ続けていた薬の影響か、身体の所々に麻痺しているような感覚が残ったままだ。内臓も同様だった。急激な負荷に肺と心臓が張り裂けそうな悲鳴を上げ始めていた。それでも止まることは出来ない。ただひたすらゼイゼイと息を切らしながら走り続けるしかなかった。


玄狼はイチかバチか荒脛巾アラハバキの術に賭けてみようと考えた。

                    ※ 第5話【荒脛巾と韋駄天】参照


だがその賭けは精神より先に肉体の方が限界を越えてしまっていた事に気付かなかった彼の負けだった。術を発動した途端、激しい痙攣が右足を襲った。右足が棒のように硬直して動かなくなり玄狼は灰白色の浜砂の中に頭から突っ込んだ。


彼の後方を追いかけていた追手の集団はそれを見て勢いづいた。それまでに砂に隠れていた岩に足を取られ三人が脱落していた。

彼らは転んだ先の砂の中から生えていたごつごつした岩のおろし金に身体中を擦りおろされて血塗れになりながら呻吟していた。



「 现在! 压住! (今だ! 抑え込め!) 」



残った特殊部隊員達が倒れた玄狼を拘束しようと約十メートル離れた位置から一気にダッシュした。男女を問わず強靭な膂力とバネのようなしなやかさを秘めた肉体が少年目掛けて襲い掛かかった。

しかし彼らの内、誰一人として少年の身体に触れることが出来た者は居なかった。


何処から現れたのか黒衣の集団が少年と追手の集団の間に立ち塞がっていた。それは誰も居なかった筈の砂浜にまるで闇から生まれたかの如く突如として現れた異形の男女達であった。





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