もう一つの御守り
仄暗い水の中からそれはゆっくりと浮かび上がっていった。灰色のベールを被ったような周囲の視界がやがて蒼く変わり、更に透き通った薄黄色の水の色へと抜け出るように変わっていく。その状況変化を閉ざされたコクピットの中から眼で追いながら
この時期15℃に満たない紀伊水道の海水温によって冷えた体を何故かねっとりとした汗が流れる。この潜水艇の推進力である念動モーターを動かしているのは自分の念能だ。筋肉を動かすわけでもないのに体は疲労し汗をかく。もう三日間以上、風呂に入っていない。髪も頭皮も皮脂でドロドロだし体中から饐えた匂いが漂っている気がする。
食物と飲料は半日に一回程度の同志達の船からの補給でどうにか繋いでいる。
宵から明け方にかけての暗い時間にやって来るその船と合流するために海面に浮上したのはあの島の渚をはなれてから六、七回はあっただろう。
排泄の方は船と合流した時に船のトイレを使うこともあるが昼間に無人の小島に上陸して用を足すこともあった。自分だけなら我慢しない事もないが
少年の頭には念能の発現を阻害する
その
そのため現在、少年と自分の排泄欲求を満たすべくGPSで確認した近場の小島に潜水艇を近づけて浮上しているところであった。
明け方の海の蒼黒く冷えた水面を割って
今度は前方のコクピットが開いた。
伸ばされた手を握って船体の上にフラフラと立ち上がった人影は玄狼だった。分厚い杉板で出来た手枷に 両手首を挟まれ施錠された状態でボンヤリとした視線を彼女に投げかけている。
美雨は少年の身体を軽々と抱え上げると先程放り投げた板の上に飛び乗った。
二十メートルほど離れた波間の先には小さな無人島が浮かぶように立っている。
彼女は少年を抱いたまま波の上を滑るように進むと島の猫の額ほどしかないような狭い砂浜に降り立った。そしてお姫様抱っこした少年の身体をゆっくりと人跡未踏の白い砂地の上に下ろした。次に彼女は鍵を出して彼の手枷を外した。続いて流暢な日本語で指示する。
「さ、そこに立って。そう、それでいいわ。そろそろオシッコしたいでしょ?
そこで済ませなさい。」
玄狼は美雨に言われるままに何の躊躇いも羞恥も見せずそこで排尿を済ませた。
一切の感情が欠落した人形のような虚ろな瞳と表情であった。
大腸がんの検査や声帯ポリープの手術の際に全身麻酔を行った場合、患者が気が付けば手術は終わっているというのが普通である。大抵の人はその事に何の違和感も持たずに退院していくがよく考えれば麻酔を受けた場所と目が覚めた場所は違っている事に気付く筈だ。
つまり自分の記憶にないところで他人の指示に従って行動した空白の時間が存在していることになる。
現在の玄狼の状態もそれと同じだった。美雨の処方する鎮静剤によって半覚醒状態である彼は意志の欠落した操り人形のようなものであった。
「はい、それじゃこっちに来て。
ほら、両手を出して、手枷をつけなきゃ・・・そう、良い子ね。窮屈だけどもう少しの辛抱だからね。」
小さな子供に接するような口調で
彼女はそのままスケートボードを模したような斥力板の上に飛び乗ると沖に停泊している
少年の身体は冷たかった。自分と同じように何日間も風呂に入っていない筈だが何故か饐えた匂いも無くその青褪めた白い肌は脂ぎってもいない。
美雨は潮風に吹かれて震える少年の長い睫毛を見ながら ” なんて綺麗な子だろう ” と思った。自分の身の回りにも彼と同年代の少年はいるにはいるがこれほどまでに奇麗な男子は見た事が無かった。
この任務が終われば多分、この子とはお別れだ。もう二度と会う事は無いかもしれない。誰か別の世話係に引き渡して終わりになるだけだろう。
だが彼の意識の中に自分の存在を
そして薬の影響で軽い退行現象を起こして自分に精神的依存を起こしかけている少年の現在の状況はまさにそのチャンスと言えた。
そして手枷の為に両手が使えない少年の身体を支えながら彼を前方のコクピットの中に座らせた。
コクピット内に異常が無いか最終確認をしようと船体の上にしゃがみ込んだ時に
「フフッ、可愛い!」
思わずそう呟いた美雨は衝動的に彼のやや青褪めた薄桃色の唇にキスをした。更に舌をすぼめて差し入れると舌先でそっと歯茎に触れた。
そして満足そうな笑みを浮かべて立ち上がるとするりと滑り込むような身のこなしで後ろのコクピットに身を収めた。
直ぐに二つの透明のドームがゆっくりと舞い降りてきて音もなく閉まった。
やがて
だがこの時、
― ― ― ― ― ― ― ― ―
玄狼は今、右顔面を覆う燃えるような痛みと闘っていた。何故こんな状態になっているのか理解できない。痛みの理由を思い出そうとしても思い出せない。というより今まで自分が何をしていたのか、此処がどこなのかという事すら思い出せない事に気付いた。
あの商豆島の人気の無い浜辺で式鬼神を使って白い虎と青い龍の化け物達と闘っていたところまでは記憶がある。だがそこから後の事がまるで記憶にない。いや、ないわけではない。漁船のような船の上で食事をしたり用を足したりといった断片的な記憶ならある。まだ二十台と思しき若い女性の顔と声がぼんやりとではあるが頭の中に甦ってくる。
〈 さ、ソ・・こに立って・・・ソウ、ソレ・・イイワ。そろ・・ろオシッコし・い・ショ?
ソコデ・・・済ま・・サイ。 〉
〈 ハ・・い、ソレジャ・・っちに来て。
ホ・ら、両手を・・・、手枷をツケナキャ・・・ソウ、ヨイ・・子ネ。窮屈ダケドモ・・少しの辛・・抱ダカラネ・・・ 〉
見覚えはあるが誰か分からない女だ。何か思い出さなければいけない事があるはずなのだが頭の中がねっとりとした白い霧に包まれたように働かない。
思い出せ! 思い出すんだ! 右頬をジリジリと苛む熱い感覚が警報の様にそれを伝えて来る。
まるで熱いお茶の入った湯飲み茶わんを頬に押し付けられたような強烈な痛みの中で玄狼の脳裡に浮かび上がったのは一人の少女の顔であった。
細面の白い顔に濡れ羽色の髪をハーフアップにして後ろで三つ編みにまとめたほっそりとした体つきの女子。
目頭と目尻が逆方向に小さく跳ねあがったように湾曲したミスティックな妖しい瞳。薄く尖った
「福田・・先輩・・・?」
それは商豆島の井家田港で別れ際に彼の頬にキスをして去って行った少女、福田 安里紗の顔だった。
その口付けは単なるキスではなく唾液に念を込めたものであった。付着した唾液が乾いても念はそのまま一週間程はその場所を
口付けを受けた相手がその念の残留期間内に他の誰かから念のこもった肉体的接触を受けた時、
菌やウィルスなどの外敵の侵入に反応する免疫システムを模したかのようなこの術は一部の特殊な宗教集団によって伝えられたものであった。その集団とは性的儀式を行う「彼の法」集団=立川流( ※ 真言立川流とは別のもの)として知られている一派であった。
「彼の法」集団自体は十四世紀前半に滅んでいるがその技法のみがひっそりと伝えられた可能性はある。立川流の本尊は
福田 紫乃は白狐の最上格である天狐を守護霊に持つ霊能者であり修行のどこかでその技法に巡り合う機会を得たのだろう。
そしてその娘である安里紗もその技を母より受け継いだものと思われる。
尤も安里紗にとってはその秘術も単なる浮気封じの
『これは
別れ際にそう囁いた彼女の言葉は今まさに事実となって玄狼の意識を覚醒させることとなった。まだ完全とは言い難いがそれでも自分を自分自身だと認識できる自我が戻ってきたことは決定的な違いだった。
取り敢えずこの状況を確認する必要があると彼は思った。
今自分が座っているこの乗り物はあの砂浜で視た奇妙な船に違いない。だがそれにしては周りに海面らしきものが見えず波の音もしない。時折、いくつかの小さなシャボン玉のようなものが透明なガラス窓の向こうに浮かび上がっていくのが見える。
『シャボン玉?・・なんでそんなものが海の上に?』
やがてそれが船体から排出された換気の為の空気の泡であることに気付いた時、少年は慄然とした。
あの時、
『ということは・・・ここは海の中か? くそっ、それじゃ逃げられない!』
だがいつまでも潜水しているわけではないだろう。今度、陸地に上がった時が逃げるチャンスだ。その時の為に準備しておかなければ・・・そう考えた玄狼はまず両手を拘束する分厚い杉板製の手枷を外すことを考えた。
斥力能を刃物の様に薄く集中させてうまく使えばこの板を切断できるかもしれない? そう思った彼は額の先から鋭く研ぎ澄まされた刃物のような斥力をイメージしながら手枷目掛けて発現させようとして違和感を覚えた。
念が発現しない! まるでチェーンの外れた自転車のペダルを踏んでいるような感じで念が構成される手応えが全くなかった。いつもなら斥力が具現化される時にはグッと押し返される抵抗のようなものが感じられるのにそれが無く淡い残滓のようなものが空気の如くスースーと抜けていくばかりであった。
『どうしたんだ? これは一体・・・・あっ、まさか?』
彼は
それまでは僅かな念すら見えなかった彼らがその輪を外した途端、急激に眩いほどの
『もしかしてあの金色の輪が俺の身体にも?』
慌てて体中をくまなく探してみるがそれらしいものは見当たらない。だがそうこうするうちに額の周りに妙な異物感があることに気付いた。手枷の付いた両腕を高く上に伸ばして頭を抜いた後でゆっくりと降ろし手首の下の前腕部で側頭部分を挟んでみるとそこに輪状のものが嵌まっているのが分かった。
どうにか抜けないものかといろいろやってみたが駄目だった。この馬鹿でかく忌々しい手枷を外さない限り頭の輪は外せないという事が分かった。
当然のことながらスマホは取り上げられているらしくどこにも見当たらない。例えあったとしても頭に嵌められた
『くそっ・・どうすりゃいいんだ!』
絶望感に打ちひしがれてガックリと項垂れた彼の太腿部分に何か硬いものが触れる感触があった。見れば手枷である杉板の端面がズボンの太腿部分に当っていた。しかし圧迫感は杉板そのものによるものではなくズボンの前ポケット部分に入っている何かを板が押しているからのようだった。手枷を嵌められているせいでかなり苦労したがどうにかそれを取り出すことに成功した。
「これは・・勾玉?」
それは井家田港のフェリー乗り場で別れた時、安里紗が玄狼に御守りとして渡した勾玉であった。深い翡翠色をした石体に朱い網紐を通されたそれは神秘的な輝きを放っているように見えた。
玄狼はそれを右掌でゆっくりと握りしめた。何故かしらそうしなければいけないような気がした。
その途端、何かがゆっくりと手の平からの身体の中に入り込んでくるのを彼は感じた。それは
その存在は玄狼の身体の中に溶け込むように広がって充満した。全身に念でも気でもない不思議な力が沸々と満ちて来る。その力に反応して彼の身体の中で目覚めの声を上げた者があった。
ギィィーン‥ギィィィーーン!・・・ギィィィィィーーーン!!
鵺殺しの神刀 ”
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