Lost Boy 1
殿庄港ってこんなに遠かったっけ・・・? と玄狼は思った。井家田港を出発してからもう四十分以上は経っている。安里紗を見送った後、フェリーの案内窓口で職員に訊いた話では車で約十五分程の距離だった筈だ。
小回りの利く乗用車ではなく安全性からスピードの出せないバスであることを考慮に入れても遅い気がする。窓から見える景色も民家や集落がほとんど見当たらない寂れた旧道のような道であった。
やがてバスは海沿いの道へと出て暫く走ったところで止まった。左側には低い岩場とその下に広がる海、右側には雑多な灌木が生い茂る急な傾斜地と言った古びた道だ。
民家どころか街灯すらない人気の無い寂しい場所であった。
既に日は大きく傾き夕陽を追いかけるかのように暗い夜の帳が迫り始めていた。すると李が通路を歩いて玄狼のところにまでやって来て言った。
「クルーザーが準備に手間取って遅れているらしいんだ。それで殿庄港じゃなくてこの下に在る小さな入り江に直接来ると言う話だ。悪いが少し待ってくれるかな?
申し訳ない。」
少しというのはどのくらいの時間なのか?
何の目印もないような海岸に本当にクルーザーが来てくれるのだろうか?
という疑問と不安が少年の胸に浮かび上がって来る。だが現状からするとそれを受け入れるしか自分には選択肢が無い。仕方なく頷いて闇に染まり始めた海を無言で見詰めていた。
そろそろ20分近くが過ぎようかという時、再び李がやってきて船が到着したことを告げられた。玄狼は朱と趙に別れの挨拶をした後、運転手の若い男に軽く会釈をしてバスを降りた。それから李と林の三人でコンクリート舗装された細い下り道を降りて行った。周囲はほぼ暗闇で先頭を歩く李の持つハンドライトと微かな月明かりだけが頼りだった。
そうして降り着いたのは小さな砂浜であった。夏に海水浴客が訪れることなどありそうにない岩場の狭間に生じた天然の砂浜であろう。奥行10メートル幅50メートルにも満たぬこんな場所でどうやって乗船するのだろうか? 周りには埠頭どころか桟橋すら見当たらない。
突然、李が暗い海面に向かってハンドライトの光を数度点滅させた。それはまるで何かの合図を送っているように見えた。
ここにきて流石に玄狼もこれはおかしいと気が付いた。
” 戻った方がいい!” そう思って振り返ればそこには林のがっしりした体が戻り道を塞ぐように立っていた。
「これは何? 一体どういうこと!」
彼は李に向かって叫んだ。李は何も言わず少年を感情の無い目で見返した。あの人懐っこい笑顔とは打って変わった冷たい能面の様な表情であった。
「君は選ばれたんだよ。玄狼君!」
李が重々しく言った。あたかも高貴な者が下民に褒賞を与えるかのような響きをもった声であった。
「選ばれた? 誰に? 何で?」
「我らの大いなる祖国 中華新明共和国の党委員会にだ。君のその比類なき念能力が政治局の同志達によって評価され認められたという事だ。」
「それが今のこの状況とどう関係があるんですか?」
「今から君を我が祖国へと連れて行く。そこで君は栄誉ある新明国共産党の一員として受け入れられ輝かしい未来を歩みだすことになる。」
「ハァッ? 俺、奥城島に母さん居るし家もあるし友達やって居る。そもそも俺、日本人やし中国になんか行くはずないやん・・」
「君が日本に来たのはたった三、四年ほど前だろ。それまで日本という国に縁など無かった筈だ。それでこの国が君になにをしてくれた? こんな地方の片田舎で辺鄙な島暮らしじゃないか。
私と一緒に来れば遥かに優れた暮らしを約束しよう。祖国は今に米国を抜いて世界の頂点に立つ国になる。君の母上も後から呼ぶ予定だ。」
少年の胸の中にギリギリと音を立てて膨れ上がる真っ黒な感情があった。それは胸を刺すような悔しさと焼け付くような激しい怒りだった。
李は今日一日、彼を気遣い優しくもてなしてくれた。父親という存在を知らない少年にとって大人の男性から半日以上もそういう扱いを受けたのは初めての事だった。
彼は李の事を信頼し心を許し始めていた。
サロンクルーザーへの乗船を受け入れたのは勿論、好奇心や時間的な利点もあるがそうした感情があってこそのものだった。
「最初からそれが目的で声をかけたわけだったんだ?」
「その通りだ。数ヶ月前から準備をして情報を分析し君の行動を監視しながら待ち構えていたんだよ。そして今朝、ついに目的を遂行する機会を掴んだのだ。
嬉しかったよ。今までの努力が水の泡とならずに実を結んだわけだからね。」
その時二十メートル程沖の海面が泡でふくらむように盛り上がると何か大きなものが波を割って現れた。李の差し出したハンドライトがその何かを照らし出す。
それは一見すると水上バイクに似てはいるがはるかに巨大で異様な形状をしたものであった。幅二メートル、長さ六メートルほどの真っ黒な細長い船体の上に二つの透明な
その前方の
それを海面に浮かべると影は無造作にその上に飛び乗った。不思議な事にひと一人の体重を受けながら小さな板は沈むどころか 小揺るぎもしなかった。
板は影の人物を乗せたまま波の上を滑るように進んで波打ち際に到着した。その人物は板を蹴って砂浜の上に飛び移るとスタスタと李の傍に近づいて来た。
李のハンドライトの光芒の中に浮かび上がったのは黒いウエットスーツを着込んだ若い女性だった。
「彼女は
今から当分の間、君にはほぼ海中での生活をしてもらう。其の後、船に乗り換えて日本の領海及び
それまでは薬剤による半覚醒状態で過ごすことになるから少々窮屈な思いをするかもしれないが心配はない。
今、君も見た通り斥力板を使って不安定な波の上をスイスイと渡れるほどの優れた念能者でもある。まぁ快適な旅とは言えないかもしれないが君の身の安全は絶対に保障するから安心してもらって構わない。」
玄狼は怒りに震える声で叫んだ。
「ふざけるな! 俺は中国になんか行かないしそのへんてこな怪しい船にも乗ったりなんかしない。行きたきゃおまえらだけで行けよ!」
そのまま彼は踵を返すと元来た道を戻ろうとした。予想通りに林の逞しい身体が体重を持たぬ影のようにスッと近づいて来る。だが少年を捕えようと伸ばされたその太い腕はむなしく空を切った。影羽織の術の応用で光を屈折させ約三十センチほど位置をずらした玄狼の実体は林の腕をすり抜け砂浜を走り抜ける。
一瞬驚いた表情を浮かべながら林は左腕の衣服の裾を捲り上げるとそこには嵌められていた金色の腕輪の様な物を抜き取った。
次の瞬間、ドン!という地響きと共に林の身体は空に舞い上がり玄狼の行く手を再び塞ぐように砂地に降り立った。
少年は驚愕した。先行して走る彼の頭上を飛び越えてその前方に立つなど人間の跳躍力ではあり得ない。林は軽く七十キロを超えるであろう身体で助走なしで二メートル近くの高さを飛び上がって五メートル先に着地したのだ。
それは野生の大カンガルー種に匹敵するほどのジャンプ力であった。
すぐさま念視能を発現させた彼の目に映ったのは眩いばかりに白く輝く燐光をオーラのように立ち昇らせながら立ちはだかる林の姿だった。
いかなる武術の歩法によるものか滑るように距離を詰めた林の双腕が玄狼の両肩をガッチリと掴んだ。そのまま持ち上げて李と王の元へ連れて行こうとした彼の表情が違和感に歪む。
少年の身体は地に埋もれた大岩の様に重かった。両掌に感じる両肩の触感も人間のそれではない。まさしく採石場から切り出されたばかりの岩肌そのものだった。
林の顔が赤黒く朱に染まった。僅かに持ち上がった少年の身体が砂浜に投げ出されドォン、ドォンと音を立てながら転がっていく。
念を半実体化させることで自身の身体の組成を玄武岩に同調させた玄狼の重量は150kg近くあったはずだ。それを腕力だけで持ち上げて転がした林の膂力は凄まじいものだった。
だが驚いたのは玄狼の方ばかりではない。李や林にしても想定外の事態だった。対象が非常に特殊な念能の持ち主と聞いてはいたが所詮12歳の少年、拉致の際の拘束などたやすい事だと考えていた。
しかしそれが異空間の非物質を物質化して現空間と同調させてしまうような念能力の持ち主だなどとは思っても見なかった。
念能を解除してゆっくりと起き上がった玄狼の眼に李が腕から金属の輪を抜き取るのが見えた。忽ち李の身体から湧き出た無数の光粒が青白い燐光を発しながら立ち昇ってゆく。
福田 安里紗が言った〈 それ自体がおかしいと思わん? 〉という疑問の答えがわかった気がした。
仕組みは不明だがおそらくあの金色の腕輪は念を無効化する機能を備えた機器であるのだろう。バスに乗っていた社員は全員その
怪物のような身体能力を持った人間を二人同時に相手にしていたのでは逃げ切ることは不可能だろう。残る
ゆっくりと息を吸い込み吐き出しながら両手の指で九字の印を結んで式神を呼び出すための祝詞を唱える。
汝、
今、我いざなひに応へて
げに凄まじきその力もて悪しきを祓え
急 急 如 律 令!
突然、冷たく暗い海面にドロリとした濃密な妖気が満ちた。やがて何処からともなく何かが波をかき分けて進む不気味な音が聞こえ始めた。
ドブン、ドブン、ドブン~ ザバッ、ザバッ、ザバッ~
ドブン、ドブン、ドブン~ ザバッ、ザバッ、ザバッ~
それは暗い波の彼方からゆっくりと黒い海面を割って現れた。波の中にひたひたに身を沈めた巨大な蟹の甲羅の如き青と赤の背中が二つ並んで近づいて来る。
ドブン、ドブン、ドブン~ ザバッ、ザバッ、ザバッ~
ドブン、ドブン、ドブン~ ザバッ、ザバッ、ザバッ~
波打ち際まで来るとその二つの生き物は巌のような巨体から潮水を滴らせながらヌゥーッと立ち上がった。
雲の隙間から顔を覗かせ始めた三日月の青白い月明かりがそれらを照らし出した。
途端、
そこには玄狼に仕える式神である善童鬼と妙童鬼、俗称で前鬼、後鬼と呼ばれる夫婦の鬼が並んで立っていた。
鋼鉄の棒を束にして捩り合わせたような筋肉に覆われた肉体に捻じれた金色の剛毛が密生している。上下の唇から突き出た獰猛な太い牙、そして海水に濡れてベッタリと額に張り付いた金髪の生え際から渦巻くように突き出た二本の角、昔話に登場する鬼そのものがそこに居た。
朱い鬼は牡牛の身体をも真っ二つに出来そうな巨大な斧を携え、蒼い鬼は子供の身体ほどもある大きな瓶を抱えていた。
二匹の鬼は金色の眼と耳まで裂けた真っ赤な口を大きく開いて激しく牙を打ち鳴らした。三メートルを超す巨体を震わせ地団太を踏み雄叫びを上げて李達を威嚇する。
李と林は呆然とした表情をしていた。そして緊張した声で呟いた。
「これが・・・噂に聞く日本の式神か!」
「これはあの子に怪我をさせないように手加減するどころではないわ! 本気を出さねばこっちが喰われてしまいかねん! 符術を使うぞ!」
李と林は身に着けた衣服の胸元を開いて胸部を冷えた夜気の中にさらけ出した。二人の胸にはそれぞれ違った絵文字が描かれていた。蒼い墨と朱い墨で描かれたそれは意味不明の図形と金石文字と呼ばれる古代漢字を組み合わせて作られた奇妙な符だった。
符と言っても紙や木札に描かれたものではない。その符とは肌に直接彫られた刺青だった。要するに自身の肉体を生身の符と化して
二人は口の中で呪文のようなものを唱えながら胸に彫られた絵文字に両手を重ねた。次の瞬間、彼らの肉体に劇的な変化が起こった。
祈る様に佇む林と李の身体をそれぞれ白い燐光と青い燐光を放つ光粒の分厚い緞帳が押し包む。光粒の緞帳は捻じれ揺らめき厚くなったり薄くなったりしながら激しく波打った。
メキッ、バキッと不気味な音を立てながら二人の身体が恐ろしく巨大な別の存在へと変貌していくのが光粒のカーテン越しに透けて見える。
玄狼が固唾をのんで見守る中、やがて緞帳は薄いベールへと変わり更に薄くなって完全に消えた。
後に残ったのは体長五メートルを優に超える白い虎と十メートル近い青い龍の姿をした巨大な怪物達であった。
それらが
玄狼にはまだ質量保存の法則やエネルギー保存の法則と言った知識はない。だから何の疑問も持たずその事実を受け入れる事が出来た。彼の頭の中にあるのはこの怪物達を如何にして倒せばいいのか? その一点のみだった。
今、約二十メートルの距離を挟んだ砂地の上で白虎と青龍、そして二匹の鬼が睨み合っていた。それはまさに特撮映画のワンシーンのような場面であった。
その時、空に掛かっていた青白い三日月が雲の中に呑み込まれて再び暗闇が砂浜の上を支配した。
それが合図であったかのように二組の怪物達が咆哮を上げて烈しくぶつかり合った。
商豆島の名もない小さな砂浜で生死を掛けた熾烈な決戦が幕を開けた。
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