大海坊主

わしは・・儂は何をしとるんかいの・・・?


ほうじゃ・・淳司と一緒に海に出て・・・あの子を殺した奴らの船を見つけて・・


この船をぶつけてやったんじゃ! 孫を殺された復讐をしよったんじゃ!


え? 殺された・・・淳司は死んだんか? 


ほんだら儂はさっきまで誰と一緒に仕返しを・・・?


おお・・ジュンジや・・・・沖の小島で拾った淳司の生まれ変わりじゃ。淳司がジュンジになって儂のところに還って来たんじゃが。



ジュンジとは数ヶ月ほど前に音次が奥城島の沖にある小さな無人島の岩穴で巡り合った不思議な存在だった。はそこで自分を庇護してくれる者、頼れる者を捜していたようだった。彼にはそれがまるで昔、海で亡くした孫のように感じられた。


音次はを自分の中に受け入れるべく呼び掛けてみた。はたちまち彼の中に入り込んでくると精神と肉体の一部となって彼と同化した。

眼には見えないがその存在は感じられた。声は聞こえないがそれが求めているものや感じているものがわかった。


向こうも音次の心の中が分かっているようであった。彼はにジュンジという名を付けて連れ帰ると一緒に生活を始めた。

ジュンジは普段は現世うつしよに姿を現さずにおとなしかったが中型クラスの大きな魚船を見つけると何故か猛々しくなってその船を襲ったりする事があった。音次の船を覆うように実体化して真っ黒いヌラリとした巨体の怪物となった姿で体当たりをかますのだ。


ジュンジが狂暴化すると音次の意識もそれに引っ張られるのか同業の仲間とも言える漁船を襲う事に抵抗を感じなくなるのだった。

そして今日、四十フィートクラスのサロンクルーザーを見つけた時は音次自身がカッとなって船を襲った。そのクルーザーが十年以上前に孫の淳司を海に落として溺死させた白い大型のプレジャーボートによく似ていたからだった。



ジュンジは何処に行ってしもたんじゃ? 淳司の生まれ変わりのあの子は・・どこに?

あのおかし気な音の響きがしてしたら(あの変な音の響きがしたら)おらんようになってしもた。あなな(あんな)哀し気な鳴き声を出して・・可哀想にの・・・・


ほんで、わしは・・儂は何をしとるんかいの・・・?



網田 音次あみた おとつぐの思考はそこで止まってしまった。始まりかけた認知症の影響でゲシュタルト崩壊を起こしやすくなっているためだろうか。

頭の中が真っ白にホワイトアウトしたような状態になってジュンジと淳司が果たして何であったのか、自分が何をしていたのかが分からなくなっていた。

分かっているのはジュンジが突然、自分の中からいなくなってしまったということだけだった。


漁船はその尖った舳先をクルーザーの側面下部に接触させたままの状態で波に揺られていた。そのたびにギィ、ギィという低く耳障りな擦過音が発生する。全長六メートル余りの小舟の上で悄然と佇む大柄な老人の頭上に烈火の如き怒声が浴びせられたのはその時だった。



做什么何をしやがる这个老大爷このジジイ!」


あんた! 杀吗ぶっ殺したげようか?!」



老人の背丈を遥かに超えた高みにあるクルーザーのデッキから一組の男女が身を乗り出すようにして異国の言葉で口々に叫んでいた。

共にダイビングスーツを着込んでいるところをみると水上バイクを運転していたのはこの二人であったに違いない。


その二人の後ろから手に何か長いものを携えた別の男が姿を現した。男はクルーザーのハンドレールを乗り越えると老人の立つ小型漁船の甲板へと飛び降りた。


男が手にした長物とは刀だった。

先端に行くほど幅広く湾曲した刀身をもったその刀は柳葉刀と呼ばれる大陸発祥の武器であった。日本では伝わった際の誤訳のせいで青龍刀と呼ばれている片手刀である。波に揺れる不安定な小舟の上に刃物を下げたままためらいなく飛び降りた行動から察するとかなり荒事に慣れた人物であるのだろう。


薄闇の中に白い船灯の光を受けて冷たく輝く柳葉刀は切れ味では日本刀に一歩譲るかもしれないが幅広の刀身が備える重量と湾曲した形状が生み出す遠心力によって高い殺傷力を誇る。


男はゆっくりと近づきながら片手だけで刀を振りかぶると操舵輪を握ったままの網田 音次あみた おとつぐ目掛けて素早く切りつけた。




― ― ― ― ― ― ―




玄狼はクルーザーの甲板デッキから男が出て来て船の上に現れたところからゾクッとするような嫌な予感を胸の中に感じていた。

漁船の上に飛び降りたその男が手に持っているものがアニメや漫画でよく目にするなんとか龍刀とかいう中国の武器であるのを認識した時、その予感は確信に変わった。



クルーザーに乗った密漁者達の側からすればその老人は漁船を故意に二度もぶつけてきた憎むべき敵でしかない。

その老人のせいで逃亡の機会が台無しになった。それどころか何千万以上の高級クルーザーをおしゃかに近い状態にされた。


彼等の組織の慣習としてそのような馬鹿者はそれ相応の対価を支払わせるのが習いであった。

老人に迫る男からは見ている者の身体が竦むような剣呑な雰囲気が発散されていた。



「オン爺ィッ! 逃げて! 早く!」



玄狼は喉が痛むほどの激しい声で叫んだ。

だが十数メートル離れた七宝丸の船上からではどうしようもない。 

男は刀というより鉈に近いようなその剣を無造作にオン爺の首筋に叩き付けた。その斬撃が真面に当たれば彼の首は刎ね飛んでいたかもしれない。それ程の強烈な斬撃だった。だがその刃が老人に当たることは無かった。


柳葉刀は老人の首の数十センチ前で太い木立に喰いこんでしまったかのように止まっていた。襲撃者の男の顔が異様な事態に強張った。あたかも無数の触手に絡め捕られたかのように体が動かない。

自分の身体のあらゆる部分が動かそうとする逆方向に引っ張られるような感覚が生じていた。


紅狐には刀を振りかざした男の身体を蒼いとばりのような何かが包んでいるのが見えた。それは玄狼が饑神ひだるがみの術によって発現させた無動領域アキネシスゾーンに違いなかった。

その蒼い空間はすべての運動エネルギーがその強さに応じた反力によって打ち消されてしまう領域であった。



「玄狼君、大丈夫なの?」



紅狐は気遣わしげな表情で彼に訊いた。彼女は少年がついさっきまで荒脛巾あらはばきの術や饑神ひだるがみの術を連続して発現させていた事を知っている。二つの高度な法術ねんのうをあの膨大な規模で発現させれば精神的にも肉体的にもその負担は凄まじいものであったはずだ。


限界を超えた念能の発現による過負荷は念能者のその後に深刻な影響を及ぼす可能性がある。その一つに狂戦士症候群バーサーカーシンドロームの発症があった。現に先程、少年くろうはその兆候である狂戦士バーサーカー状態を微かに起こし掛けていた。


そしてさしたる間もなしに今また小範囲とは言え無動領域を発現させている。未だ小学生に過ぎない彼が果たしてその負荷に耐えられるのだろうか?

彼女の懸念通り、少年の体力は既に限界を迎え始めていた。



『もう無理だ・・・なんや頭の中がボウッとしてきたが・・・・

 ほんでもここでやめたらあの爺さんが・・殺されてしまうかも。』



こみ上げてくる吐き気や悪寒と闘いながら意識をどうにか保とうとしている玄狼だったが視界にちらちらと星のような白い影が混じり始めて来た。

もう駄目だ! と思ったその時、体の何処かで何かが小さくギィーンと哭いた。


玄狼がそのか細い哭き声に意識を向けた途端、それは忽ち冷たく研ぎ澄まされた旋律となって彼のつま先から頭頂へとうねるように駆け昇って行った。



ギィィーン・・ギィィィーーン・・・ギィィィィィーーーン



その旋律は音叉の共鳴の如く彼の脳内の隅々にまで響き渡ると頽れかけた意識を正気に引き戻した。

気が付けばいつの間にか玄狼の右手に一振りの短刀が握られていた。漆黒のつかと鞘から成るつばの無い合口造りのそれはずっしりとした重みをもって彼の手の中に収まっていた。



「お前は確か・・・骨噛ほねがみ・・?」



玄狼が独り言のようにそう訊ねると漆黒の短刀はあたかも返事をしたかのようにギィィィーーンと震えた。

その途端、彼は脳内に骨噛ほねがみの意識らしい存在を感じた。そして短刀の方にも彼の意思が伝わっていることをおぼろげに理解できた。先程まで少年くろうの精神を疲弊させていた蒼い帳はいつの間にか消え失せていた。


玄狼は左手で漆黒の鞘を抜き払うと右手に持った刀身で漁船の上の男が振りかぶった柳葉刀目掛けて切りつけた。

十数メートル以上離れた位置からそんな事をしても無意味であることを理解しながらも彼は何故かその行為が無意味ではない事を知っていた。


それを証明するかのように宙に止まったまま小刻みに定まらない動きを繰り返していた柳葉刀の刀身がバキィーンという甲高い金属音を発して粉々に砕け散る。

男は三分の一程に短くなった刀身を恐怖の混じった眼で驚いたように見つめていたが直ぐにそれを老人に向けて再度、叩き付けようとした。


玄狼はすかさず骨噛ほねがみを切りつけるように小さく動かした。

次の瞬間、ボォンッという不気味な破裂音と共に男の前腕部の血肉が爆ぜた。



「ギャァッ!」



男は魂消るような悲鳴を上げると血塗れの腕を押さえて甲板デッキに蹲った。

手元から落ちた柳葉刀の残骸が甲板の上を跳ねながら暗い海面に落ちて行った。

その様子を見ていた男の仲間達がクルーザーの後部甲板スタンデッキから口々に叫ぶ。



用枪打了銃で撃ちやがった!  这个家伙不是一般市民こいつら民間人じゃないぞ!」


同行业同業者か?  那样的话,打,还だったら撃ち返せ!」



とんでもない勘違いだが状況だけを見れば銃火器による攻撃だと誤解されても仕方あるまい。空間を転移して作用する攻撃力を有した式神の存在など彼らが知るはずもなかった。それを使役する玄狼自身すら知らなかったのだから・・・


そして数分の不気味な沈黙が終わった後、突然・・・・



 パァンッ、パンッ、パンッ



七宝丸とクルーザーの間に横たわる暗く冷たい波間に花火のような乾いた破裂音が響いた。闇夜に咲いたオレンジ色の花のような銃火が暗い海面を断続的に照らし出す。


視界の利かない夜闇の中で不安定な船の上からの射撃、それもブレの大きい拳銃による射撃では射程距離や命中精度に限界がある。そうそう当たるものでは無いが漁船の乗組員たちにとっては心臓が凍り付くような恐怖だったに違いない。


一般市民が銃弾の攻撃に晒される事など一生のうちで皆無であるのが殆どだろう。

七宝丸の乗組員達は船のブルーワークにしがみ付く様にして甲板の上に身を伏せてしまっていた。


全員が血の気の失せた顔色で眼を固く瞑っている。身体は硬直したように強張ったまま動かず呼吸が上手く出来なくなっていた。

拳銃で射撃されたことによる恐怖が引き起こした過呼吸症状に間違いなかった。

七宝丸の乗組員でそうならずにいられたのは紅狐と玄狼の二人だけだった。


玄狼は軽い狂戦士状態バーサーカーモードにあった。脳内麻薬エンドルフィンの生み出す異常な高揚感と強力な鎮痛効果によって無痛状態が生じていた。

十二歳になって間もない彼が柳葉刀を持った男の腕を躊躇なく破壊出来たのもその影響によるものだろう。


『ホントの拳銃の音ってドキューンやズキューンじゃないんだなぁ。パンッって言う

 乾いた地味な音なんや。』


などと言った自分の置かれた危険な状況なぞ何処吹く風みたいな呑気な事を考えていた。


一方、紅狐はこの現世うつしよの者ならぬ存在と戦いながら生きて来たプロの祓い師であった。相手が妖であれ人であれ様々な修羅場をくぐって来ていた。海外においてなら銃を持った相手と戦った経験も何度かある。

彼女は緊迫した状況を切り抜ける手段を求めて考えを張り巡らせていた。


得体の知れない怪物に襲われて気の立っている荒くれ共を説得するのは容易ではあるまい。第一に異国語を話す連中にこちらの言葉が通用するかさえ定かではない。

となると力づくでという事になる。


彼女がその気になれば密漁者を全員始末することもできないわけではない。だが日本は高度に社会管理された法治国家だ。そんなことをすればたとえ正当防衛が認められたとしても後々、尾を引く問題が発生するだろう。鵺弓師は大量殺人能力を持った危険な存在として公安組織の警戒管理を受ける事にもなりかねなかった。


その懸念からか鵺弓や他の宗教団体の祓い師の間では攻撃的な念能を怪異以外の者に向けて使用する事は古くからの暗黙のご法度であった。

そう考えている間にも銃撃はさらに激しさを増して来ていた。



『でもこのままでは他の乗組員が危険だわ。闇夜の鉄砲でも数撃ちゃ当たる可能性があるもの。

水破、兵破を召喚してこの雷上動で放てば直ぐに終わるけど・・・下手をすれば彼等みつりょうしゃは誰も生き残らないかも?』



水破、兵破の鏑矢は完全物質化させない限り物理的破壊力を持たないが念体、生体に対しては恐ろしく有効だ。

民家に銃を持って侵入し籠城した強盗に向けて弾頭に生物化学兵器を装着したミサイルをぶち込むオーバーキル的なものではあるがやらざるを得ないと紅狐は判断した。


例え敵が全滅したとしても物的証拠は残らない。召喚した式神達は幽世かくりよへと戻り放射された念は自然界の気に同化して消滅してしまう。

無差別テロのような反社会的犯罪でない限り捜査は通り一遍なもので終わり未解決事件として迷宮入りするだけだろう。


残るのは紅狐自身の心に人を殺したと言う罪悪感がどのように影響するかという問題だけであった。

彼女の精神における禁忌領域は常人のそれに比べかなり特殊だ。紅狐は素早く決意して先ず水破を召喚しようとした。


その刹那の事だった。不意に月の光が何かに遮られたかのように周囲が暗くなった気がした。違和感を覚えた彼女はふと前方を見て思わず息を呑んだ。



「・・・・・・・!」



クルーザーの向こう側に雲を突くような巨大な黒い影が立ちはだかっていた。海面からの高さだけでも二十メートルを超えていよう。全体については計り知れないほどの大きさだった。まるで小さな島がそこに出現したような圧倒的な重量感が辺りを呑み込んでいた。手前に浮かぶ40フィートクルーザーが玩具のように見える。


突然、気配もなくその場に現れたそれはヌラリとした真っ黒い表面をしていた。

厖大な質量の差を度外視すれば紅狐の叩く「鳴弦の法」によって断末魔の鳴き声と共に消えて行ったあの海妖に酷似した姿だった。



「ヴァオォォォォーーーーーーン!」



海の底が割れる様な雄叫びを発してそれが哭いた。そしてゆっくりと前に進むとクルーザーを呑み込むかの如く圧し掛かかって海の中へと沈めてしまった。

あっという間の出来事だった。馬鹿ばかしいほどの呆気なさで40フィートクルーザーとその乗組員たちは海の藻屑となって消えた。


紅狐をはじめとする七宝丸の乗組員たちは呆然としてその光景を見送った。後には何も残っていない。ただ、黒い海面とそれにチャプチャプと洗われる島のような巨影が浮かんでいるだけだった。


やがて七宝丸は沖に向かってそれと分からないほどにソロリソロリと進み始めた。おそらく船長の池田が機関長に命じたのだろう。

黒い巨大怪物を刺激しないように船はじれったいほどの微速でその場を離れて行きつつあった。


小島と見まがう程の想像を絶する大きさと質量を持ったその黒い海妖はやがて小さな声で鳴き始めた。



ウロォォーン・・・ウロォォォン・・・・ルォォォーン



それは何かを呼んでいるような優しく哀しい声だった。母猫が姿の視えない子猫を捜して呼んでいるような切ない響きを持った声であった。

その声を聴いた紅孤はそっと口の中で呟いた。



「あれは断末魔の声じゃなくて母親を呼ぶ声だったのね。でその母親が現れたという事かしら。」



暫く続いたその声は何も現れないことが分かったのかやがてピタリと止んだ。そして黒い小島のような巨体はゆっくりと動き始めた。

既に三十メートル以上離れていた七宝丸との距離がゆっくりと狭まり始める。黒いそれは紛れもなく七宝丸の後を追い始めていた。


七宝丸はここで一挙に速度を上げた。再び距離は開き始めた。30メートル、40メートル、60メートルと黒い怪物を引き離していく。


黒い島の頂点からドォォォーーンと馬鹿でかい水煙が立ち昇った。噴気と呼ばれるクジラの潮吹きに似ていた。息継ぎを済ませたそれは怒涛の勢いで船を追い始めた。



「ひょっとしてママはものすごくお怒りなのかな? 子供をいじめたのが私だと分かっているのかも? もしそうならこれは銃弾なんかよりもはるかにヤバイ事態だわ・・・・・

あの念体のデカさと質量は少々不味いわね。私の手に負えるかしら? 

どちらかというと理子向きの力仕事だと思うんだけど。」



惚けた口調とは裏腹に紅孤の顔に緊張の色が走っていた。彼女は雷上動を大きく宙に差し出すと水破を召喚する構えを取った。




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