乾坤一擲
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「
ならば残された手段はひとつ。
果たしてそれらが伝説に残る鵺退治の鏑矢であったかどうかは確証がないが式神としての格が稀有なものであることは間違いなかった。
妖を滅する破魔の力は式神の格と術者の力量次第で決まる。紅狐の祓い師としてのたぐい稀な才能をもってすれば二本の破魔矢は凄まじい調伏力を発揮するだろう。
だがこれほどまでに巨大な荒魂と化した念体は流石の彼女も見たことが無かった。
最強の陸上動物であるアフリカ象を一撃で撃ち倒す強力なマグナムライフルも対象が世界最大の哺乳類である鯨ともなれば一撃でとはいくまい。
もし二本の破魔矢で祓えなかった時は七宝丸もあのサロンクルーザーと同じく海の藻屑になって沈むことになる。
紅狐は迫りくる黒い超巨体をその透き通るような美しい双眸で冷たく見据えながら祓詞を発した。
「汝の名は "水破 " 高天原に
何処からともなくハラハラと降り注ぐ
キリ‥キリリ‥と甲高く響く弦鳴りの音を耳奥に感じながら練り上げた
だが破魔矢は未だ放たれない。
既に黒い大怪物は七宝丸の後方二十メートル近くまで迫っていた。七宝丸の船体に伍するような大きさの波を左右に蹴立てながら猛然と追って来る。
追い付かれたらこの船はひとたまりもなく沈められてしまうだろう。紅狐は緊迫した面持ちで弓の狙いを定めながらある選択を強いられていた。
己の全念能をこの
もし初撃で大海坊主の荒魂の六割以上を、消滅させることが出来たなら二撃目で確実に屠れるだろう。問題はその念能量の割り振りだった。
彼女は自分の
只、それは双方の念量が同等であった場合の話である。ところがこの大海坊主の念体の質量は紅狐も経験が無いほどの途轍もなく厖大なものだ。どんなに優れた消火剤も広大な規模の山火事には呑み込まれてしまう。現在の状況は念の質よりも量こそが全てであった。
そうした意味では玄狼の母の
揺れ動いていた雁股の鏃の先がピタリと止まった。紅狐は取るべき戦法を決断したようであった。やがて鏃だけでなく鏑矢全体が青みがかった白金色の燐光に包まれ始めた。どうやら二矢目を捨てて一矢目に全てを賭けるつもりらしい。
「
短く鋭い発声と共に鏑矢が斜め上空へと放たれた。
ヒュウォォォ~~~~ン という甲高い音が暗く冷えた夜空に響き渡った。青白い燐光に包まれた矢は紫炎の尾を引きながら夜空に向グングンと駆け上がっていく。やがて矢は綺麗な放物線を描きながら大海坊主に向かって落下し始めた。
その小島のような黒い巨体まで後十メートル程に矢が迫った時だった。大海坊主の身体が不意に海面にグッと沈んだかと思うといきなりダンッと伸びあがった。
驚いたことにその超巨体で小さくジャンプしたのだ。それはまるで突然、そこに高さ三十メートルを超す黒い岩壁が出現したかのようだった。
白く泡立つ海水が黒い岩壁を伝い落ちる滝水の如く海面に降り注ぐ。そして海面より立上がった超巨体の半身がそのまま前のめりに海面に叩き付けられた。ブリーチングと呼ばれるクジラの習性によく似た行動であった。
次の瞬間、ドドドォ-ンという轟音と共に巨大な水の膜が立ち上がった。瀑布を逆さまにしたような凄まじい水流の壁が海妖を射抜こうとする鏑矢の行く手を塞ぐ。
だが分厚い水の緞帳に絡め捕られるかに見えた矢はまるで意志を持っているかのように夜空を垂直に駆け上ってそれを飛び越えた。
そして今度は垂直に急降下すると怪物の黒光りするヌラリとした肌にズブリと突き刺さった。
忽ち矢に込められた紅狐の
鏑矢の突き刺さった個所を中心に青味がかった紫色の焔が種火のようにチロチロと燃えだした。やがてそれは小さな無数の浄炎と化して大海坊主の身体を覆い始めた。
そのヌラリとした不気味な黒肌にボッ、ボッと蕾が開花する如く幽玄な紫炎の花畑が広がっていく。
海妖は動かなかった。冷たく燃えさかる青い浄炎に体表の半分ほどを覆われながらも哭き声も上げず苦痛に身を捩ることもなくただ茫洋と浮かんでいた。
無数に咲き誇っていた紫色の炎は今や一体化した巨大な大輪の花となって燃え盛っている。全速力で進む七宝丸との距離が再び開き始めていた。
『海坊主を倒せた・・・・のよね!?』
紅狐は心の中で思わずそう願わずにはいられなかった。己が持てる全ての念を水破に込めて射たのだ。
もし今の矢であの黒い巨大な海妖を仕留めきれなかったのだとすれば手の打ちようが無かった。
兵波を使役できるようになるには最低でも一時間はかかるだろう。余程強力な念能触媒でもあれば十五分程でも可能かもしれないがそんなものは持っていない。
彼女は小島のようなあの黒い怪物がそのまま紫色の浄炎によって燃え尽きてくれることを祈った。
しかしその願いは届かなかった・・・・大海坊主は動いた!
燃え盛る蒼い浄炎をその巨大な半身に纏わりつかせたまま再び海面の上へと躍り上がったのだ!
先ほどのブリーチングとは高さも勢いも段違いだ。原潜から発射された巨大な核ミサイルのような漆黒の紡錘体が海面を割って
そして大海原に咲いた直径三十メートルの桔梗の花の如き青紫色の浄炎に包まれたまま海面下に潜って見えなくなった。
暫くして黒い波間が盛り上がる様に割れると海坊主が再びその巨体を現した。
いつの間にか海坊主の身体から馬鹿でかい羽のような胸鰭とブーメラン型の尾びれが生えていた。
同時にヌラリとした黒い体表を覆っていた紫炎の焔も消えていた。
「 ブボォォォォォォーーーーー 」
一回り小さくなった海妖は間欠泉のような凄まじい
― ― ― ― ― ― ―
玄狼は紅狐の戦いぶりを甲板の片隅でずっと眺めていた。クルーザーが跡形もなく沈められた時の彼女の驚いた表情も、水破を放った時の凍るような冷たい眼光も、そして敵を倒しきれなかったと認識した
大海坊主の念体が水破の破邪の法力を吸収してしまったという事態は即ち、七宝丸に乗船している全員の生命の危険を意味している。
だが
だから紅狐が蒼褪めた表情で彼に近づいて来た時もただ、無表情にその顔を眺めるだけだった。彼女は少年にぼそっと語りかけた。
「・・・スマートフォンを貸して頂戴・・・」
いつもの甘さを含んだ深みのあるハスキーヴォイスではなかった。棒を呑んだような硬い声であった。
彼は言われるままにスマートフォンを水干の懐より取り出すと彼女に渡した。
紅狐は受け取ったスマートフォンを指先で弄っていたがやがてカパッとそれを二つに分けた。
「やっぱり・・・・近頃のスマホにしてはずいぶん武骨で厳つい造りだなと思ったのよ。ハードケースを装着していたのね。」
玄狼はその外れたハードケースをみてフーン、そうだったのかと思った。スマホ本体だと思っていた
スマホ本体は白い色のプラスティック製で青い防護ケースよりずっと薄くスレンダーな外観をしていた。
「で、このケースが
いくら玄狼君が並外れた念能を持ったスーパー小学生でも生体念能だけであれほどの念術を連続して発現できるはずがないとは思っていたのよ。」
「このケースが全て
ホントに! 郷子のあの指輪二つだけでも高級外車が買えるって話なのに・・・・」
「これだけの量の
昔からだけど
そう言った後で紅狐は思い出したように緊張した視線を船の後方へと走らせた。そこには一回り小さくなった海坊主が恐ろしい勢いで迫ってきていた。小さくなったと言っても長さ六十メートル、幅二十メートル 高さ十五メートル以上の超巨体である。七宝丸の七、八倍近い質量はあるだろう。
今までのっぺらぼうだった頭部にいつの間にか横一文字のはっきり口とわかる裂け目が生じていた。そこには玄狼達の乗る七宝丸をも一呑みにしそうな巨大な暗闇が口を開けていた。それは追い付かれたらそこで終わりであることを予期させる不気味な深淵であった。そして更に不味いことに向こうの方がこちらの船より少し早いようだった。
エンドルフィンの効能が切れかけて来たせいで徐々に芽生え始めた不安感を打ち消すかのように少年は紅狐に訊ねた。
「この
「残ったなけなしの念能をかき集めて兵破を射るの。今度は練り上げた荒魂の気を込めてね。これだけの
「和魂じゃなく荒魂を! でもそんなことをしたら・・・!」
玄狼は以前、” 蒼い背広の鬼 ”に向かって荒魂の気を打ち込んだら逆に相手が強大化してしまった経験を思い出した。
「そう。多分、海坊主はその荒魂の気を喰らって完全に物質化すると思うわ。地球の生物史上類のない超巨大な生物が誕生するかもね。
メガロドンやモササウルスさえ一目散に逃げだしそうな獰猛で超巨大な大怪物がね。」
「何故、わざとそんなことを?」
「
そうなればこの七宝丸でも逃げ切ることが可能になるでしょ。物理的攻撃も効果を発揮する事になるはずよ。」
「物理的攻撃?」
「
巡視艇は20mm機関砲から35mm機関砲を搭載している。どんな巨体でも肉の身を持った生物であるのなら殺すことが出来るだけの破壊力を備えた武器だわ。
尤も、それまでこの逃走状態が維持できればの話だけれど・・・・・」
「じゃ、もし巡視艇が間に合わなかったら・・・? 他に方法はあるの?」
「残念ながら・・無いわね。それが唯一無二の手段という所かしら・・・」
紅狐は他の方法は無いとさらりと言ってのけた。それは今まさに自分達が生きるか死ぬかの瀬戸際にあるのだという事だ。それに気づいた途端、玄狼は一気に息が苦しくなったような気がした。
そばでは紅狐が
念能触媒に舌と口腔粘膜で接触する事で最大限の
つがえた鏑矢の鏃が凝集した
その光景が少年の緊張と不安をより一層高める結果となった。忽ち強烈な空気飢餓感が彼の肺を支配する。
「グゥッ・・!」
窒息するのではないかという恐怖感で玄狼の口から堪らず呻き声が漏れた。その時、昏くなりかけた意識の淵で薄闇を切り裂くように何かが哭いた。
ギィィーン・・ギィィィーーン・・・ギィィィィィーーーン
彼が右手に握りしめていた
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