意外な正室
青白い月明かりが冷たく射す仄暗い海面を緑と赤の舷灯をつけた大きな漁船が黒い波を砕きながらゆっくりと進む。一千馬力を超えるパワーを生み出すディーゼルエンジンの重く低い排気音が海鳴りのように波間を震わせている。
二十トンを超える中型漁船というのは瀬戸内海域ではそう多くはない。大抵は十トン未満から十五トンクラスの小型漁船が殆どである。二十トンを超えると小型船舶の免許では操船できなくなるためだろう。
七宝丸という三十トンクラスのこの中型漁船はK県漁連本部が海坊主退治のために特別に貸し出してくれたものだ。
とは言え乗船員は皆、本物のベテラン漁師達だ。内二名は航海士、機関士の資格を持った六級海技士であった。
玄狼はその船の甲板で椅子に腰かけてぼんやりと暗い海を眺めていた。船が出港してから既に三時間ほどが過ぎている。この船は怪異現象が発生したという報告のあったいくつかの場所をピンポイントでしらみつぶしに回る予定らしい。
まず奥城島の南端より出発して島を大きく回り込むように北西方向へと進む。さらに西へと向かい燧灘方面に向かうとの話だった。既に内、二つは回り終わって現在三番目のポイントに向かって進んでいるところであった。
突然、むず痒いような細かな衝撃が玄狼の脇腹に生じた。それがスマホの着信による振動であることに気付いた彼は着ている水干の懐からゴソゴソとそれを引っ張り出した。出港時間から考えて夜の十時を回っていると思われるこの時間に一体誰が掛けて来たのだろうと訝しみながら画面を確認する。
「何だ、これ? メールか?」
白い画面に ”新着メール在り” という表示が出ていた。道理で振動のみであのけたたましい着メロが鳴らなかった理由が分かったがメールの開き方は分からない。どうしたものかと首をひねっていると横から白い手が伸びてスマホを彼の手からスッと抜き取ってしまった。
「へぇー 携帯電話を買って貰ったのね。良かったじゃない。
あら、メールが来てるわ? Y!メールかぁ・・・ちょっと待ってね、今、開くから。」
「差出人は・・・『九郎の正室』? 何かちょっと・・重い
あ、添付ファイルが付いてるみたいだわ。開くわね。
ン? これって確か・・・?」
再び白い手がスマホの画面と共に玄狼の前に差し出される。そこには稚児装束を身に着けて正面を向いた
画像アプリで加工したと思われる大小さまざまなピンク色のハートマークが彼の姿を囲むように付けられている。
この写真の
彼女の話が本当であれば既に三桁を超える人間が持っている可能性があるのだ。定義通りに考えれば100人から999人までのいずれかの人数という事になる。
だが玄狼のメールアドレスを知る人間となると恐らく母と郷子だけだろう。彼自身も知らないのはお笑いだが・・・
しかしメールネームが『九郎の正室』・・・・・ これ、果たして郷子か?
携帯電話がなくともアドレスさえ分かればインターネットメールは送れる。
如何にスマホ音痴の玄狼でもその位の事は知っていた。そして
「誰だろ?」
思わず出たその呟きを聞いた紅狐が玄狼に訊ねた。
「心当たりはないの? 」
「まぁ、一人いるにはいるけど・・・」
「その子の名前は?」
彼は少し迷った末に言う事にした。
「郷子って言います。」
すると紅狐は我が意を得たりと言った顔でサラリと応えた。
「ああ、じゃその子ね。」
「えっ、どうして?」
「玄狼君、九郎って誰の事か知ってる? クは九つって書いてロウは桃太郎の郎って書くんだけど。」
「それって・・源 義経のことでしょ?」
「その通り! じゃその奥さんの名前は?」
「確か
「残念! 静御前は側室、分かりやすく言えばお妾さんか愛人。つまり正式な妻じゃないの。ま、義経と言えば静御前って図式が出来上がっちゃってるからそう思っても無理はないけどね。」
「へっ? そうなん? じゃ、ホントの奥さんって誰?」
「義経の正妻の名は
「郷御前・・郷子・・・だから『九郎の正室』か。なるほど・・」
少年はただそのネームに掛けられた謎の意味が分かった事でしきりに感心しているようだった。
〈 この子、九郎と玄狼の掛け詞には気が付いていないみたい。
ま、男の子だし未だお子ちゃまなのかもね? 〉
紅狐は少年のその真っ直ぐな鈍感さが微笑ましくて思わず頬を弛めた。
「ついでに言っとくと義経にはもう一人、奥さんがいたらしいわ。
「奥さんが三人も!・・・ ホォー、義経ってモテたんだな。結構、イケメンだったのかもな?」
「当時の武将は複数の妻を持つのが当たり前だったのよ。一門郎党を維持していくためには優れた後継者を残す必要があったのね。
でも今の日本の男性過少社会もある意味それと似た状況にあるわ。ひょっとしたら玄狼君が成人する頃までには民法改正で重婚が認められているかもしれないわね。
もしそうなったら貴方もその位の数の奥さんを持てるかもよ。」
紅狐のその言葉を聞いた玄狼の脳裡に一瞬、郷子、志津果、佳純に囲まれながらソファーで寛ぐ自分の姿が浮かんだ。
少し離れた位置には何故か亜香梨までいる。成人した自分は今よりもずっと大きく逞しく成長しているがどことなく疲れて元気がなさそうに見えた。
〈 あれ、何やろ? 今の光景・・・まさか予知夢? それとも俺の願望なんか?
いやそれは無いよな。紅狐さんがあんなこと言うから一瞬、おかしな妄想してし
もたわ。奥さんなんて三人も四人もいらんし・・そんなん色々、気ィ使うん間
違いないし・・・ 一人おったら充分やん。〉
急に黙り込んで静かになった少年を見て紅狐は少し気になった。どうしたのと声を掛けようとしたその時、周囲に何か不穏な雰囲気を感じた。いつの間にか船内に異様な緊張が生じていた。
乗組員達が海の一点を指差して何やら囁き合っている。彼女もその場所を目を凝らして覗き込んでみた。一見、何もない真っ黒な海面が夜闇と交じり合って溶け込んでいるだけにしか見えない。
がよく見るとそこには流線型をしたボートのような黒い影が浮かんでいるのが分かった。その周りを握り拳ほどの小さな灯がチカチカと瞬いている。懐中電灯か何かの照明器具の灯だろうか? うっすらとではあるが人影らしき物が動いているような気がした。
「あれは何なんですか?」
紅狐は船員達の一人に近づいてそう訊ねた。男は彼女に困ったような表情を向けるとぼそっと答えた。
「少々、面倒な事態になってしもたな。ありゃ妖とはまた別の意味で厄介な連中じゃけん。」
そう応えた五十がらみの背の高い男は航海士の池田だった。七宝丸の船長でもある男だ。
「こなに(こんなに)見通しのええ満月の夜に出て来るとは思わんかったがの。
「その厄介な連中って・・・一体何者なんですか?」
紅孤がそう訊くと池田は細く尖らせた眼で海面を睨みながら硬い声で言った。
「ありゃの・・・密漁者どもじゃ。」
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