密漁者
密漁者、それは近年の瀬戸内海において急速にクローズアップされてきた犯罪者達である。
『海の幸は誰の物でもない、万人の物である。』
一昔前の旧く良き時代ならばそうした考えも大目にみられたのでのであろうが現代においては勝手に魚介類を捕ることは漁業権や禁漁期間等の様々な規制によって厳しく制限されている。
特に問題なのは一般人の小遣い稼ぎが目的の密漁ではなく暴力団などの裏社会の勢力による組織的で大規模な密漁だ。
法による魚介類の採集規制は水産資源を将来に渡って持続可能にしていくためのものである。しかしそれを無視してアワビ、サザエ、ナマコ、シラスウナギといった高額かつ貴重な水産資源を根こそぎ奪っていく彼らのやり方はそれらを枯渇させてしまいかねない。
水産庁の取締船や海上保安庁の巡視船による密漁の監視活動が行われてはいるが標識や道路もない海は広すぎて全てを取り締まることは難しい。
近頃では外国船による密漁も増えつつあり漁業関係者の頭を悩ませているのが実情であった。
「彼らを捕まえるんですか?」
玄狼は船長にそう訊いた。勇猛な海の男たちによる犯罪者達の逮捕劇、海の上での大捕り物・・・少年の心には生で経験する危険な状況に対してのゾクッとする脅えとそれを上回るワクワクするような好奇心が溢れはじめていた。
だが彼の期待感に対する池田の答えはあっさりと現実的な物であった。
「ああ、そりゃあ無理じゃ。わし等にはそなん事は出来んわ。」
” 儂らには逮捕権も臨検権も無いけんの、出来るのはせいぜい警告どまりじゃ。”
という玄狼にしてみれば何とも歯痒い返答だった。
で、どうするのかというと近辺の海域を航行している取締船や巡視船に無線で呼び掛けて対応してもらうのだという。だが恐らく
たとえ追いかけたところで軽量化した船体に規格外の高出力エンジンを載せた高速漁船が相手では勝負にならない。
普通の漁船が時速15~25ノット(28~46キロ)の速度であるのに対し改造された密漁船は時速約35ノット(65キロ)の速度を出すと言う。
時速65キロと言えばなんだ、そんなもんかと思うかもしれないが競艇用ボートが時速80キロほどであることを考えれば波のある海面をその速度で進むことが如何に凄い事か分かる筈だ。ちなみに海上保安庁の高速巡視船は時速40~50ノット(74~92キロ)を出せるらしい。
「どうやらこちらの船に気付いたようやの。」
池田の言葉に海上を見ると仄暗い月明かりの中に黒い影達が慌ただしい動きを見せ始めていた。
それまでチカチカと瞬いていた赤いライトが消えると同時に小さな黒い流線型の船体がロケットブースターを点火したかのような凄まじい勢いで発進した。2ストロークエンジン特有の甲高いエンジン音が暗い波間に響き渡る。
それは眼を瞠る様な驚くべき速さであった。
ボートというよりもオンロードバイクのタンデム乗車そっくりの姿勢で跨った二つの影は瞬く間に闇の彼方へと突き進んでいく。
「水上バイクか!」
池田が驚いたように叫んだ。
水上バイクとは後方に高圧の水流を噴出する事で推進力を得るウォータージェット推進を備えた特殊小型船舶である。
マリンジェット、ジェットスキー、シードゥ―とメーカーによって呼称は様々だが400㎏を切る乾燥重量と300馬力をひねり出すその圧倒的なエンジンパワーで最高速度時速55~60ノット(100キロから110キロ)で海面を疾走する事が可能だ。
但し、乗員は身体が剥き出しの上、波の影響を受けやすい事から長距離、長時間の走行には向かないと言う欠点がある。ということは何処か近くの陸地に密漁者たちの拠点があるという事になる。
玄狼達が乗った七宝丸は水上バイクが走り去った方向へ向かってそれを全速力で追いかけ始めた。漁連本部の所有する船だけあって通常の漁船よりは遥かに早い。恐らく時速30ノット(55キロ)以上のスピードは出ているだろう。
「まあ、追いつくんは無理でもどの辺りへ逃げたか大体の位置を掴んどかんとの。ここらにはこんまい(ちいさな)無人島やがなんぼかあるけんそこを待ち合わせの場所にしとる可能性もある。
そこへ必ず奴らの親船がバイカー共と捕った獲物を回収に来よるはずじゃ。そこを海保の連中が押さえれば一網打尽じゃけん。」
そう言った後で
「どうやら海妖退治どころじゃなさそうな状況ね。」
紅狐がやれやれといった表情で呆れたように呟いた。
海坊主と密漁者。
どっちも漁業関係者にとっては迷惑この上ない存在であることは間違いない。只、その存在度の明確さという点においては大きな開きがあった。
確かに海坊主なんて存在すらはっきりしない不可解なものを捜すより今、確実に近くに居てそこから逃げつつある密漁者を追っかけた方がずっと合理的ではあるだろう。
だがそうなるとゲーム三昧となるはずだった楽しい週末を棒に振ってまで参加したこの船旅は無意味なものになってしまうのでは? と玄狼は思った。
来週もまたその次の週も、といった具合に退魔業に駆り出されたのでは堪ったものではない。そこで彼は船長に訊ねた。
「だったらさっきのバイクみたいなボートに追いついてその隠れ家を確認できれば海坊主退治に戻れるという事ですか?」
「ん?・・・おう、追いつけんかったとしても逃げた方向や大体の位置が判れば取締船や巡視船に連絡して後は任せておけばええやろの。
ほんやけど(そうだけれど)水上バイクが相手ではそれもちょっと厳しいかもしれんけどの。」
すると玄狼は何を思ったのか激しい波しぶきを浴びながらうねるようなノーズダイブを繰り返している船首甲板へ向かってすたすたと歩きだした。
それを見た船員達が驚いて口々に叫ぶ。
「おい、僕! 何をしよんぞ! そっちに行ったら危ないが!」
「こら、転んで海に落ちたらどうするんぞ! 早よ、こっちへ戻らんかい!」
しかし彼はそれが聞こえていないかのようにするすると歩を進めるとびしょびしょに濡れた甲板の上に左足を斜め前に踏み出して立った。
そのまま左手を腰に当てると右手の人差し指と中指の二本だけを立てた
その動作を三度繰り返した後、舳先に向かって二拝をした。そして少年特有の高く澄んだ声で簡易な祝詞を上げた。
~
最後に二拝二拍手一拝をして背筋を伸ばし静かに船の前方を見詰める。まるで何かに意識を集中するかのように・・・・
一方、加賀美 紅狐は少年のとった突然の行動に唖然としていた。
〈 初めのは
紅狐がそう思ったのとゴォォォォーーーーという途轍もない轟音が船の前方から湧きおこったのはほぼ同時であった。何事かと前方を見やった彼女は驚愕した。
舳先の数十メートル先の海が左右に大きく割れていた。
あたかも目に見えない巨大なタンカーの
紅狐の眼にはそれが大きく開いた龍神の
巨大な
しかしそれは決して七宝丸に触れることなく左右に分かれたまま船のはるか後方へと吸い込まれるように流されていく。
そこで二つの怒涛は再び巡り合って衝突した。
左右からぶつかり合う猛烈な白い水煙がドォォォォォォーーーンという衝撃音を発生させながら七宝丸の後方の海上に小型の竜巻を作り出す。
「こ、こりゃあ・・どういうこっちゃ!?」
池田が呆然とした表情で呟いた。船の速度が恐ろしいまでに上昇していた。
体感的ではあるが時速50ノット(≒90キロ)は超えていよう。
通常、この船の大きさとエンジン出力ではそれだけのスピードを出せるわけが無かった。たとえ出せたとしても速度の二乗倍で増大する波の抵抗によって船体の重心を失い転覆することは避けられない筈だ。
しかし今、七宝丸はノーズダイブすら消失した安定した挙動を維持したままで黒い海面を滑るように疾走していた。
「鵺弓さんよ、こりゃ海妖の仕業か何かか?」
荒波に慣れた壮年の海の男であってもこんな面妖な状況には遭遇したことが無かったのだろう。池田が紅狐に縋る様な目を向けてそう訊いて来た。
紅狐はその問いに直ぐには答えずに
〈 なるほど・・成程ね。
船の速度を上げるためにこの漁船そのものに
(※ 【第五話 荒脛巾と韋駄天】参照)
アハハ、なんて単純な子供らしい発想!
ま、実際に子供なわけだけど・・・アハハハハハ。
だけどその子供っぽい出鱈目な発想を実現させてしまうだけの桁外れな念能力を持っていると言うのが素晴らしいわ。
念強度では理子が上、念操力では私の勝ち、というのがあの頃のパターンだったけどこの子はその双方において私たち二人を超える念能を持っているかもしれない。
理子は ”あの事件” でもう巫無神流に戻ることは無いだろうし・・つまり
という事は御火神流が問題なく取り込めるという事よね。いや、既によその誰かが眼をつけている可能性はあるかも?
ま、どっちにしてもこれはとっても面白い話だわ、あはははは。〉
ひとしきり笑った後で彼女は怪訝な顔付をした池田に向かってこう答えた。
「いいえ、これは海妖の仕業なぞではありません。今、この七宝丸は私たち二人の法力と大願成就の祝詞によって大海を統べる
この船の途轍もない速さはそのご加護の賜物なのです。ですから案ずることはありません。加護の力が持つ限り、存分に密漁者達とやらを追い詰めなさい!」
冴え冴えとした月光を受けながら神職の正装に身を包んだ紅狐の姿はその美貌と合わさって神秘的な美しさを湛えていた。
その彼女の口から発せられた凛とした
「近域に居る取締船と巡視船に直ぐに連絡を取れ!
船長の号令一下、船員達はそれぞれの持ち場へと走っていく。
今、七宝丸は爆風のような水しぶきと轟音をその
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