鵺弓

志津果しずかはゆっくりと歩きながら玄狼くろうがこの島にやって来た時の事を思い出していた。

あれはたしか今から三年前、賢太けんた団児だんじ、そして亜香梨あかりと自分の四人が三年生になって三か月程過ぎた頃の事だった。


島の小学校に突然、転入生がやって来た。奥義島は人口五百人足らずの過疎の島である。転出する人はいても転入する人は殆どいない。

ましてや八歳位の子供と三十を過ぎたばかりの女性が数年前に廃殿となった神社に神職として移り住むなど滅多にない出来事であった。


おまけに女性は念能士の資格を持っており念能を用いた祓いを専門とする鵺弓やきゅうと呼ばれる集団の一人だった。

そしてその女性こそが玄狼の母であり子供は玄狼だったのである。



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江戸時代の末期から明治の初期において精霊鉱という物質が欧米よりもたらされた。

精霊鉱を最初に日本へ伝えたのはペリー提督率いる黒船艦隊であるともジェームズ・スターリング司令が率いる英国東インド艦隊であるとも言われているがはっきりした事は分かっていない。


精霊鉱は別名スプルトニウムとも呼ばれ、人の精神に反応して膨張や収縮などの、固体化や液体化などの、更に発熱、発電、斥力、引力などのを引き起こす精神感応物質である。


念能とはその精霊鉱スプルトニウムを使って様々な現象を発現させる能力の事であった。

幕末に伝わった精霊鉱と念能は明治維新の文明開化と共にあっという間に日本中に広まり浸透した。


人間の思念と言う供給や品質が著しく不安定な物を動力源とするため電気や石油のように産業社会の基盤エネルギーとはなり得なかったが庶民の日常生活においてはそれらの代用エネルギーとして根付く事となった。


精霊鉱の発祥地であるヨーロッパでもそれは同様であり十八世紀半ばから十九世紀における産業革命及び電気や内燃機関の実用化以降に発見されたそれはそれまでに確立されていた産業構造の仕組みを大幅に変革することなしに社会へと浸透していったのであった。


只、歴史家たちによってよく語られる謎の一つとしてそれ以前の歴史に精霊鉱が姿を現さないというものがある。

それは電気や化石燃料による産業構造の根幹システムが確立された後の時代を見計らったかのように突如としてこの世界に舞い降りたのであった。


精霊鉱の原料となる精霊石スプルタイトは世界中の様々な地域に埋蔵されている。にも拘らず十九世紀以前にこの稀有な物質の存在や利用に関する資料、文献は全くと言っていい程見当たらない。

それはまるで精霊鉱がこの世ならぬ別の世界から何者かの手によって持ち込まれたかのような錯覚を起こさせる史実であった。


実際、学者たちの中には精霊鉱を人類史以前に他の天体から隕石に乗って飛来したものだとか他次元の世界から何らかの理由で次元の壁を越えて紛れ込んで来た物だという荒唐無稽な説を唱える者もいるが真偽のほどは解っていない。


しかし起源がどうであろうと精霊鉱を使用した器具や機器は現代において最早、排除不可能な程に社会生活に溶け込んでしまっていた。


念能機器は人間の精神、つまりは脳に対する負担を要するものであるため長時間の使用や負荷の強い使用には向かない。

しかし電気代も油代もかからず何処でも直ぐに加熱、冷却、反力、引力といった現象を発現できるという優れた利点があった。


だが全ての物事には長所と短所が在るもので念能や精霊鉱にも重大な短所が二つほど存在した。

その一つは精霊鉱が使われるようになって以降、男児の出生率が大きく減少した事である。その後の研究で精霊鉱が念能を発現する際に発する放射線の一種と考えられるものが男性の生殖細胞に何らかの影響を及ぼしているらしいことが解って来た。


そしてもう一つは精霊鉱には残留思念とでもいうべき念の残滓が溜まりやすいという事である。

何故それが問題なのかと言うと精霊鉱に溜まった念の残滓が稀に巨大な残留思念塊を形成して暴走する可能性がある為であった。


言ってみればそれは祟りや呪い、怨霊、生霊といった心霊現象と呼ばれる法螺話が現実そのものと化して身近に現れる事態を意味した。


すすり泣く絵画、誰も居ない廊下を走り抜ける足音、いつの間にか位置の変わる人形、鏡の中から見返してくる知らぬ顔、そうした現象が実際に日常茶飯事として起こる様になった。

背筋が寒くなるような恐怖に脅えることとなった人々がそれらの怪異を祓える存在を求めるようになったのは当然の成り行きだった。


そのために明治以降の日本においては雨後の筍の如く、新興宗教が現れた。既存の宗教団体の活動も盛んになり既に廃れていた古代神道等が其の息を吹き返す事となったりもした。祓い師や霊能者と称する者達が大量に湧いて出たのもその頃である。


そうした者の大半は怪しげなインチキ呪術師シャーマンであったが中には様々な怪異を押さえ込み消滅させる真正の通力を持った者達も存在した。


その中でも四国の水上神社を本社とする巫無神ミナカミ流神道の神職達によって構成された鵺弓やきゅうと呼ばれる集団は優れた通力を持っていたため多くの人々に重用された。


その通力とは他ならぬ念能である。彼らは精霊鉱の内部で凝り固まり負の極性を帯びた念エネルギーに正の極性を持った念エネルギーをぶつけてさせる事で怪異を取り除いた。



※ 注意

ここで言う対消滅は念という非物質同士が

反応して中和する現象の事であり物質と

反物質が反応して超極大エネルギーを発生

させる対消滅とは全く別の物である。



鵺弓やきゅうとはぬえと呼ばれる強大な妖怪をも退治した弓のような存在と言う意味であった。

今日でも彼らは念能による祓いや解呪を職務として行っており瀬戸内地方周辺では鵺弓やきゅうさんと呼ばれ親しまれている。

昔と違うのはそう呼ばれるのが巫無神ミナカミ流神道の神職ばかりではないという事だ。


田舎のおっちゃんやおばちゃんたちにとっては宗派や団体名の違いなどさしたる問題ではないのであろう。

今では仏教系や他流神道系、果てはキリスト教系のエクソシストまで皆、鵺弓やきゅうさんである。


玄狼くろうの母がこれから神職を務める神社も巫無神ミナカミ流神道の分祠ではない。巫無神ミナカミ流神道の分祠は全て狛犬の代わりに狼の像を置く珍しい神社である。


それに対し玄狼くろう母子が引っ越してきた神社は奥城島神社という名の稲荷神社であった。狛犬も何処ででも見かけるありふれた狐の石像である。

関東の方に本社ほんやしろを置く稲荷系神道の分祠らしいが数年前に先代の老宮司が亡くなってからは無人となっていた。


そこに突然、未だ三十そこそこの女性と八歳の子供が神職としてやって来たのである。それは近くの地域に住む神社の氏子衆にとっては有難い話だった。それまでは神事の度に本土の同系統の神社から宮司を呼んでいたからである。


そうした事情もあってこの母子の島への転入は素朴で静かな島民の生活に幾許かの騒ぎをもたらす事になった。

尤も騒ぎの一因にその母子の極めてと言っていい程の優れた容姿が関係していた事は否めない事実であったが・・・



― ― ― ― ― ― ― ― ―



玄狼くろうが母親に連れられて初めて小学校にやって来た日の事を志津果しずかはよく覚えている。

それはジメジメした鬱陶しい梅雨が終わって暑くなり始めた七月の初旬の頃であったと思う。

当時、担任であった三十半ばの女性教諭と共に一緒に教室に入って来た二人を見て志津果達四人の生徒は息を呑んだように黙ってしまった。


それはまるで夏の精が人の姿を取って現れたのかと思う程、綺麗な女性だった。


細面ほそおもての白磁の肌にぱっちりと開いた大きく黒い眼と濡れ羽色の長い髪、程よく丸みを帯びたすっきりとした目鼻立ちに薄く紅を差したやや受け口の可憐な唇、それらが一体となった逸品の日本人形を思わせるような美しい顔であった。


背は充分に高い。恐らく百七十cmを越えているのではと思われた。

濃紺のノースリーブのシャツからスラリと伸びた腕の白さが目に痛い程に眩しい。


上品なアイボリーのプリーツスカートのひざ下から覗く白い足と細く引き締まった足首が清涼感のある色気を漂わせている。

最後に足首から下を包む薄桃色のローカットスニーカーが女性らしい華やかさを添えていた。


母親の横に立つ少年も彼女ははによく似た整った顔立ちをしていた。身体はどちらかと言えば小柄である。百二十cm台の半ばと言ったところだろう。


肩先に届くほどに伸ばされたボブカット風のふんわりとした髪型や華奢な身体つきの所為で女の子と見間違えそうになる。


白とネイビーの縞模様が入ったボートネックの半袖Tシャツを着て細身のデニムジーンズを穿いていた。

小柄ながら均整の取れたプロポーションとあどけなさの残る綺麗な顔に思わず志津果は見惚れてしまった。


彼女しずかがボウッとした眼でくろうを眺めているとふと少年と眼があった。吸い込まれる様な大きな黒い瞳が志津果を見返していた。

何とはなしに居たたまれなくなった彼女は思わず眼を逸らしてしまった。


女性教諭に志津果達へと紹介を受けた少年は明日から登校するという事で母親と一緒に帰って行った。今日は書類上の手続きと事前説明を受けに来ただけだったらしい。

母親と少年が女性教諭と一緒に出ていくと木地谷きじや 亜香梨 あかりがこっそりと話しかけて来た。



「がいに(ずいぶん)イケメンな男の子やったな! お母さんも女優かモデルみたいに綺麗な人やったし・・・

見てん!(見て!)

男子やかし未だポォーッとしとるわ。(男子なんて未だポォーッとしているよ。)」


「え、ア、ああ、 うん・・そうやな・・・」


「どしたん、志津果? えらい反応薄いやん・・・ハァーン、さてはあのイケメンボーイに一目惚れしたんか?」


「あ、アホな事言わんといてつか!(馬鹿な事を言わないで頂戴!)ど、どしてうちがあなん女子みたいな子に!」


「ヘ、そなん慌てとるという事は案外、図星やったん? こら、難攻不落と謳われた志津果姫もいよいよ陥落間近ゆう事なん? 

なんとイケメンパワー恐るべしやな!」


「誰が陥落するんな! それに難攻不落て誰かうちに攻めて来た人おるん?

うちまだ誰からも告白されたことないしラブレターもろた事も無いんやけど・・」


「おるやん。あそこの二人。まぁ、二人とも攻める前に自分が陥落してしもとるけんど。(陥落してしまっているけど)」

               

「ハァッ? 賢太と団児の事な! 亜香梨、あんたふざけとるんな! あなんしょうも無いんが攻めて来たって迎え撃つ気にもならへんわ。

何よ、あほらし・・・誰かうちを好きな人がおるんか思てちょっと期待したやんかっ。

もう、うちのドキドキ返してつか!(返して頂戴!)」


亜香梨にそう文句を言いながら志津果は先程の少年の澄んだ黒い眼を思い返していた。


綺麗な眼だった。まるで吸い込まれそうな黒い瞳をしていた。だが何故か志津果はその瞳がどこか寂しげな色を湛えていた様な気がした。

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