33 心を、縛る
「と、豊音さん……?」
「んー?」
「いや……これは何かなぁ、と思いまして」
「何って、調律だよ。そう言ったじゃん」
「た、確かに俺に触れればいいんだから、この体勢でもできるだろうけどさ」
だとしても、この二人羽織みたいな格好は色々と刺激が強過ぎた。
肩の上から回された細い腕が胸の前で交差する。全身を包む込むのはアロマバスに浸かったような暖かさと甘い香り。背中に当たる二つの柔らかい物が、脳に直接電極を突き刺したみたいにパルスを送り込んできた。
「えーと、何故、このような事を……?」
「ご褒美、あげるって言ったでしょ? ハル君、私の為にずっと頑張ってくれてるから……」
「っ」
かあぁと顔を熱が駆け上がった。気を抜けば変な声が出そうだ。
「それに、偶には
「だ、だけど豊音は」
「ダメ」
「いぎぃっ!?」
振り返ろうとした途端、物凄い力で豊音にこめかみを押さえられる。
「こっちを向くのは禁止。それと、必要以上に身じろぎするのも許さない」
「えー、そんなぁ」
「文句を言わないの……私だって、恥ずかしいんだから」
耳元で囁かれる言葉が熱を帯びた。背中を叩く鼓動がまた一段と速くなった気がする。
「……分かったよ、もう動かない」
「うん、ありがと」
豊音は頭から手を離し、再び胸の前で軽く交差させる。
調律が始まって、視界の端にリーフグリーンの光が映り込んだ。豊音が
「だけどさ」
心地よい重みを背中に感じながら、陽明はぽつりと漏らした。
「どうして
「
「かもしれないけど、仮に
「
エバジェリーが対戦型のスポーツである以上、全くの無感情でプレーするなど不可能だ。
ペース配分を無視した
だが、
事前に
「でも
二年前、陽明は世界で初めて
限られた範囲内でなら無類の性能を発揮する叡智の怪物も、奇想天外な発想や直感と言った人間の可能性まで計算できる訳ではないのだから。そう考えれば、十五年以上も
「人間の短所とか欠点ってさ、
「それ、何となく分かる気がする」
陽明の肩に頬を付けた豊音が呟いた。
「手の掛かる子ほど可愛いって言うし、顔だけ良い
「似たような事を前に会長が協会で言ってたな。誰かと深く繋がる為には、その人の長所も短所も受け入れる必要があるって」
「だったらハル君は、人の弱さは個性なんだから克服しなくてもいいって言いたいの?」
「いや、そうじゃない。きっと、大切なのは弱さとの向き合い方なんだ」
陽明はベッドに置かれた絵本に視線を落とした。
それは、自分の弱さを認識するきっかけになった存在。
「誰にだって弱さは必ず存在する。それがどれだけ醜くても、目を逸らしたくても、自分の本質である事には変わりない。だったら、まずは受け入れてあげなくちゃ。他の誰でもない自分自身が認めなくちゃ、話が始まらない、んだから……」
ちくり、と。
言葉にならない違和感が舌を痺れさせる。
ネガティブで、他人任せ。
不意に頭の中に響いた誰かの声。
いつの日か、誰かに自分の弱さを指摘された時にどう感じた? 図星だと理解しながらも、憤りを抑えられなかったのではないか? 目の前に立っていた存在を認めなくなかったから。
だったら、本当の意味で。
「何だよ、これ……」
手が、震え始める。
答えるべき質問に答えられていない焦燥感に胸を締め付けられた。まるで悪夢の内容を思い出してしまったような不快感。記憶にないはずの絶望が、鋭い痛みと共に蘇ってくる。
「ハル、君?」
「ごめん豊音……なんか変な事を思い出して、急に試合が怖くなってさ。負けた時の事を考えると、体の震えが止まらなっちまう。だって試合に負ければ、俺は豊音を失って、」
声を低くすると、目許に
「多分、
それは、確信めいた予感。
根拠なんて思い出せないのに、何故か否定できない確定事項。
「ただ飛べなくなるだけじゃない……俺はきっと、大切な物を全て失ってしまう」
だとすれば、この一年間と同様に豊音の隣にはいられなくなる。いつしか、胸を焦がすこの恋慕すら心の奥底で朽ち果てさせてしまうだろう。
「……やっぱり、
声が、濡れそうになる。
「負けたくない、絶対に負けたくないんだ……でも、どうしたって最悪の想像しかできなくて、気付いたら不安で俯いちまう。弱音なんか吐きたくないのに……駄目だ、やっぱり俺は弱くて、後ろ向きで、それで……」
「無理をしなくてもいいんだよ。私が、ハル君の弱さを受け入れてあげるから」
凍て付いた心を溶かすように、少女の腕が優しく陽明を包み込む。
「多分、ここで頑張ってとか、信じているよとか、月並みに励ましてもプレッシャーになるだけなの。それはハル君の欲している言葉じゃない」
豊音は
まるで迷える羊に救いの手を差し伸べる
「だから、私が心を縛ってあげる。もう迷わなくてもいいように」
その言葉には、魔力が宿っていた。
「私の為に戦って、私の為に勝ちなさい。他には何も考えなくていい。貴方はただひたすら私の為に空を飛びなさい。その為の『理由』はすでに胸に刻んであるでしょ?」
……ああ、と。
陽明は思わず微笑んでしまった。
やっぱり、
この気持ちは、何があっても揺るがない。
だから、一つの決意をする。
もし。
三日後の試合に勝って、全ての問題が丸く収まったら、その時は――
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