32 絵本

 9月16日(木)

 

 その日。

 陽明は朝からずっとそわそわしていた。


 出席しているだけの授業中も、友人と教室で弁当を食べる昼休みも、帰りのホームルームが終わった今も、心ここにあらずといった様子で完璧に浮き足立っていた。いつもの眠そうなまなこはどこへやら。燦々と瞳を輝かせるその様子は、まさしく遠足前の小学生だ。


 しかし、誰も彼を責められないだろう。

 

 だって、好きな女の子の家に招待されたのだ。

 これでテンションが上がらなければ、そいつはきっと男ではない。


 豊音の家は自転車を使って九高から約三十分の場所にあった。てっきり一緒に下校できると朝から楽しみにしていたのだが……


「部屋を片付けたいから、ハル君はちょっと待ってて」


 そう言われれば従うしかない。

 そもそも世間の目があるのだから、学校の外であまり二人きりになるべきではない。適当に時間を潰して連絡を待っていた為、豊音の自宅へ到着した頃にはすでに午後五時を回っていた。


「……確か、ここだったよな?」


 比較的新しい一戸建てが立ち並ぶ分譲住宅街の一角。小学生の時に訪れていた記憶を頼りに『篠竹』と表札の掛かった一軒家を発見する。二台分の駐車スペースは空いており、西日に照らされた木製フェンスが白いコンクリートに影を落としていた。


「……、」


 インターホンに触れようとした瞬間、強烈な緊張が指先を痺れさせる。残念ながら、この状況で平常心を保っていられるほどステキな青春を送っていない。


「(落ち着け、慌てるな。大丈夫、イメージは完璧なんだ。いや、何がとは言わないけど! どんな展開になっても乗り切ってやる! 覚悟しろよ青春の神様、健全な男子高校生の妄想力を舐めないでもらおうかっっっ!!)」


 ラスボスに挑むくらいの決意を固めてから、震える手でインターホンを押した。バクバクと破裂しそうな程に心臓が脈を打つ。だが解錠音と共に扉が開いた瞬間、準備万端だったはずの頭は真っ白に染まった。


「いらっしゃい、ハル君。ごめんね、待たせちゃって」


 慌てた様子で出てきたのは、私服姿の豊音だったのだ。


 淡い赤色のノースリーブニットに、ゆったりとした五分丈のデニムワイドパンツ。ここ数年は制服かジャージ姿しか見ていない事もあって非常に新鮮だ。

 ついついニット生地を押し上げる胸や眩しい肩に視線が吸い寄せられそうになるが、理性を総動員して表情筋を岩よりも硬くする。そのせいで随分と面白い顔になっていたのだろう。くすっ、と一つ歳上の先輩は唇を綻ばせた。


「どうしたの、ぼーっとして。早く入ったら?」

「……お、お邪魔します」


 上がりかまちで運動靴を脱いで、光沢のあるフローリングに足を付ける。清潔な室内は昔の記憶とほぼ変わっていないが、知らない香りや生活感のせいで気まずさは拭えなかった。


「えーと、ご両親は?」

「二人とも夜まで仕事。いつも七時くらいまでは帰ってこないよ」

「へ、へぇ……」


 答えに窮して空返事をすると、階段を上る豊音が微笑みながら振り返る。


「変なの、借りてきた猫みたい。小学生の時はよくウチに遊びに来てたのに」

「いやー、あの頃とは色々と事情が違いますし」

「そうなんだけどさ……でも、あんまり大人しいと、それはそれで困るかな。私も、その、意識しちゃうし……」


 先に二階に着いた豊音が赤くなった頬を隠すように前を向く。尻尾みたいに揺れる長い髪。陽明は顔を熱くしながらも少女の後を追った。


 数年ぶりに豊音の部屋に入る。

 几帳面な豊音らしく、勉強机や本棚は綺麗に整頓されていた。全体的に暖色系で揃えられた内装と、可愛らしさを添える小物類。柑橘系の香りがするのは、ベッド脇に置かれたスティックタイプのルームフレグランスのお陰だろう。ちょっとしたセンスの違いに異性を感じた。


「何か持ってくるから適当に座って待ってて」


 銅像みたいに入口で固まる陽明を一瞥してから豊音は廊下を歩いていく。静まり返った家の中に少女の足音だけが響き渡った。


 突っ立っていても仕方がない。ベッドのシーツを汚しそうで抵抗はあったが、可能な限り縁のギリギリに腰を下ろす。

 座っているはずなのに、心は長距離走でもしているみたいに落ち着かなかった。閉め切られたクローゼットや赤っぽい背表紙の単行本が並ぶ本棚。気を抜くと夕陽に染まった室内のあちこちに目をやりそうになる。


「あれは……」


 本棚に懐かしい絵本を見つけて、思わず手に取った。


 太陽の騎士と湖の王女。

 陽明が幼い頃に好きだった海外の児童文学だ。水彩画のような淡いタッチのイラストに、子どもでも読みやすい大きな文字。内容を知っているはずなのに、気付けば意識が物語に吸い込まれている。


「うわー、また懐かしい物を見つけたね」


 ペラペラと絵本を捲っていると、お盆に飲み物とお菓子を載せた豊音が帰ってきた。おりたたみしきの座卓にお盆を置くと、豊音は陽明の隣に座って上製本ハードカバーを覗き込む。


「俺さ、子どもの頃にこの本を親父おやじに読んでもらったんだよ。その時にさ、陽明って名前の由来が太陽だって教えられたんだ。太陽みたいに明るい子になってくれって意味らしい」


 陽明は絵本のイラストをそっと撫でる。雨雲の怪物に捕らえられた王女を助ける為に、白い翼を羽ばたかせた騎士が燃え盛る剣を携えて突撃するシーンだ。


「それを聞いた時にさ、主人公の騎士がすごい好きになって何回も読み返したんだ。多分、憧れてた。大人になったらこんな風になりたいって思ってたんだろうな」


 適当に捲っていると、あるページで手が止まった。静謐な湖畔に佇む王女に、空から手を差し伸べる太陽の騎士。生きる世界の違う彼らが、それでも永遠の愛を誓い合う物語の結末ラストである。


「だけど、それが無理だって気付いたのは割と早かったよ。力には、ノブレス・義務が伴うオブリージュ。自分の使命に忠実な騎士様と比べて、俺は完全に正反対だったからな」

「そうかな……? ハル君だってやる時はやってくれると思うけど」

「だけど普段がなぁ」

「自覚があるなら直しなさい」


 物言いたげな目になった豊音に軽く肩を突かれた。


「でも、ハル君って昔から家族と仲がいいんだね。それはちょっと羨ましいかな」

「豊音は相変わらず……?」

「うん、お母さんとは冷戦中。理詰めするとすぐに感情的になるから、喧嘩しない為に極力話さないようにしてるの。お父さんは上手にいなしてるんだけど、私は我慢できなくて」

「豊音は容赦なく人を追い詰めるからなぁ。むしろ人の弱みに付け込んでる時が一番生き生きしていたたたっ、いたい、いたいっ!」

「失礼な事を言うのはこの口かしらぁー?」


 ピクピクと笑顔のまま眉を引き攣らせた豊音が細い指で頬を抓ってくる。ふんっ、と唇を尖らせた少女を、能天気な馬鹿は平身低頭で何とか宥めた。


「じゃ、二人が帰ってくる前にやっちゃおうか」


 豊音はベッドから立ち上がると、勉強机まで移動して小型アタッシュケースを手に取る。慣れた手付きで鍵を開けて、中から赤いチョーカー型の機械を取り出した。陽明の固有型ユニークタイプPACEだ。


「調律の為って言っても、よく持ち出しの許可が降りたな。いつもみたいに練習前に隠れてやれって言われそうなもんだけど」

「日曜日の試合もあるし、慎也さんの名前を借りて書類を作ってもらったの。今回だけの特例だってさ」


 選手や調律師ビショップが所有する固有型ユニークタイプでも、協会が管理している汎用型スタンダードタイプでも、全てのPACEは指定された施設に保管する事が法律で義務付けられていた。

 練習や体験会で使用する時でも代表者に事前に書類を作成させる程に厳重であり、個人的な理由で持ち出しの許可が下りる事などまず有り得ない。後で慎也にはお礼を言っておく必要がありそうだ。


「それじゃハル君、目を閉じて」


 両手で長髪を掻き上げた豊音がうなじにチョーカー型の機械を装着した。ノースリーブニットのお陰で、引き締まった脇腹から膨らんだ胸までのラインが強調されている。露出した二の腕やわきが妙に色っぽい。脳をフル稼働させて眼球に映像を焼き付けてからまぶたを閉じた。


 足音が、目の前で止まる。


「……?」


 しかし、いつになっても豊音が近づいて来ない。緊張で体がどんどん硬くなっていく。

 不意に前方の気配が背後へと回り込んだ。ギシッと鼓膜を揺らすベッドの軋む音。不思議に思ってまぶたを開けようとした瞬間、温もりが質量を伴って背中にしなかってくる。


「と、豊音さん……?」

「んー?」

「いや……これは何かなぁ、と思いまして」

「何って、調律だよ。そう言ったじゃん」

「た、確かに俺に触れればいいんだから、この体勢でもできるだろうけどさ」


 だとしても、この二人羽織みたいな格好は色々と刺激が強過ぎた。

 肩の上から回された細い腕が胸の前で交差する。全身を包む込むのはアロマバスに浸かったような暖かさと甘い香り。背中に当たる二つの柔らかい物が、脳に直接電極を突き刺したみたいにパルスを送り込んできた。


「えーと、何故、このような事を……?」

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