26 秘策

 9月7日(火)

 

 午後六時半。

 陽明は下校する生徒の流れに逆らって、すっかり夜闇に溺れた校舎へ向かって歩いていた。一度は学校から出ているのだが、慎也に呼び出された件でまた戻ってきたのだ。


 中庭を横切って、体育館の角を曲がる。

 目的地であるプールの前にはすでに先客がいた。腰まで流れる長髪に、夏服の上からでも分かる女性らしい体付き。建屋から漏れる明かりで逆光になっているが、陽明にはシルエットだけで十分だ。


「豊音、お待たせ」

「ハル君」


 一つ歳上の先輩はパタパタと手を振ってくれる。


「放課後はどうしてたの? 学校にはいなかったみたいだけど」

「九天大学のジムに行っておりました。もちろん、豊音様からたまわった筋トレを遂行する為にございます」


 おどけるように右手を胸に添えつつ深く頭を下げてみる。イメージは大富豪の御令嬢にかしずく執事だ。


「ふーん」

「……えと、それだけ?」

「うん」

「鬼みたいなメニューを頑張ってきたんだし、少しくらいはねぎらってくれても……」

「褒めて欲しいって顔に書いてある人を褒めても面白くないからイヤ」

「そ、そんなぁ」


 お預けを命じられた犬みたいな陽明を見て、豊音はくすっと満足げに微笑する。


「じゃあ行こうか。慎也さんがプールの中で待ってるよ」

「……イエス、マム」


 悄然と肩を落とした陽明は、促されるまま運動靴からゴム製のサンダルに履き替えた。

 プールの建屋に入った途端、塩素の匂いが蒸気みたいに顔へ貼り付いてくる。頭上には水泳の授業でやたらと冷たい水をぶっ掛けてきた大量のシャワーヘッド。一学期を思い出して無意識に身構えつつも、半透明なアクリルカーテンを押して明るい室内へと入って行く。


 バーテンダーみたいな服装の慎也は白いプールサイドに一人で佇んでいた。

 裸足になり、濡れないようにスラックスの裾は折ってある。一本に括った長髪に、線の細い顔立ち。背筋を真っ直ぐに伸ばした立ち姿に隙はなく、浮世離れした武人みたいに見えた。


「来たね、ハル」


 凛と張った低い声が、プールの高い天井に染み渡る。

 普段は飄々として掴み所のない優男だが、今ばかりは分かりやすく楽しそうだった。中性的に整ったかおには少年のような無邪気さが浮かんでいる。


「慎也さん、これが昨日言っていた秘策ですか?」

「そう。別に難しい事をする訳じゃないよ、僕と毎日ひたすら戦ってもらうだけなんだから」

「それって」

「師匠として可愛い弟子を鍛え直すのさ、昔と同じように」


 その時。

 胸中に去来したのは、言葉を奪い去る程の暖かさだった。


「ありがとうございます、慎也さん……俺の事を、また弟子と呼んでくれて」

「なに、当然の事をしているだけだよ。特訓場所は協会の力を使って用意した。とは言え、水泳部の練習が終わった九高のプールを借りるので精一杯だったけどね。エバジェリーをするには手狭だけど、技術や意識を養うだけなら何とかなるだろう」


 感覚としては、フットサルコートでサッカーを行うような物だろうか。25mプールではそもそも面積が足りてないし、屋根までの高さだって十メートルもない。


「それに宙曲技マニューバの影響で高速化が進んだ現代エバジェリーでは、宙域フィールドを広く飛び回るよりも至近距離で斬り合う技術が要求される。狭い空間での戦闘に慣れておいて損はないよ」

「……だけど、慎也さんは大丈夫なんですか?」

「何がだい?」

「いやだって、現役を引退してからもう六年も経ってるんですよ。ここ数年は協会の仕事が忙しくてまともに飛んでないはずですし……」

「つまり、ハルは僕に練習相手が務まるか不安だって言いたいのかな?」

「まあ、意味合い的にはそうなりますけど」


 ぎこちなく頷くと、慎也はふっと口許を綻ばせる。鋭い眼光が湛えるのは、剥き出しの刃にも似た荒々しい輝き。普段の爽やかな印象からは想像もできない程に好戦的な色だった。


「だったら、試してみるかい?」

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