02 地に落ちた天才
9月1日(水)
「それで、また君ですか」
夕暮れの教室だった。
細い指でこめかみを押さえたのは、白いブラウスにタイトスカートを合わせた三十代の女性教師だ。眉間に深い谷を刻みながら、大きく溜息を吐いている。
対して。
教卓越しに溜息を一身に受ける
「いやー、先生も大変ですね。仕事も残っているはずなのに、こうして放課後に追試の面倒まで見なくちゃいけないんですから」
中肉中背で、何らかのスポーツをしていたと思わせる引き締まった体付き。そこそこ精悍な顔立ちなのだが、眠たそうな目許や寝癖の残る髪が容姿全体に緩い印象を与えている。表情や仕草をふんだんに使う話し方には彼の社交的な性格が滲み出ていた。
「だけど、先生って本当に真面目ですよね。最低限の指導はしたって建前を作るために居残りで俺と話してるんですから。俺、尊敬しちゃいますよ」
「そこまで分かってるなら勉強して! 君だけなんだよ、簡単な数学の小テストに合格できてないのは! お陰で今日も残業が確定してるの!!」
コホン、と女性教師は小さく咳き込んで昂ぶった精神を落ち着かせる。
「仮にだよ。遠城君が中学の時みたいにエバジェリーで活躍しているなら、まあ大目に見ない事もないの。だけど遠城君、今はやってないんでしょ? だったらさ、そろそろ現実と向き合うべきじゃないのかな?」
「……そう、ですね」
ちくり、と。
胸に走った痛みを、陽明は曖昧な笑みで隠した。
「でも、どうして活動休止中なの? もしかして、怪我、とか?」
「そういう訳じゃないんですけどね……」
「なら、続けて欲しいって先生は思うかな。
「……それで」
話題を逸らす為に、少し乱暴に言葉を差し込む。
「追試に落ちた俺への罰は何にするんですか?」
「そうね……次の授業までの宿題があったでしょ? その解答を遠城君にお願いするわ。黒板を使って説明してもらうからそのつもりで」
「あのー先生、それだと俺は
「嫌なら予習しておきなさい。ほら、帰った帰った」
交渉の余地がないと判断した馬鹿は、頬を引きつらせたまま通学鞄を肩に掛けた。軽く頭を下げてから、教室の扉を開ける。
出迎えてくれたのは、聞き慣れた放課後の喧噪だった。
真っ直ぐ伸びる廊下は、窓から差し込む斜光で茜色に沈んでいる。ゆっくり吹き抜けていくのは、夏を惜しむような
生徒玄関へ向かい、運動靴に履き替えて校舎から出た。
緑のネットに覆われたグラウンドでサッカー部員達が全力でボールを追いかけている。陽明はその様子を退屈そうに眺めながら、校舎間にある中庭へと入っていった。一年生の駐輪場に向かう時はここを抜けるのが近道なのだ。
「あれ、ハル君? 今から帰り?」
声を掛けてきたのは
快活さを感じさせる大きな瞳に、可愛らしく整った目鼻立ち。すらりとした高身長で、長髪が広がりながら腰まで流れている。包容力に溢れた柔らかい物腰や、服の上からでも分かる女性らしい体付きも相まって、まさしく全男子が望む憧れのお姉さんという印象だった。
「そうだよ、さっきまで数学の追試があってさ。豊音は生徒会?」
「うん。ほら、今月末に体育祭があるでしょ? 今から実行委員会と顔合わせなんだ」
「忙しそうな事で、流石は副会長様。後期からは生徒会長として学校をお願いします」
「もう、からかわないで。私なんてまだまだだし、立候補するかどうかも決めてないんだから」
照れを隠すように微笑んだ豊音が自販機のボタンを押す。ガコン、と取出口から音が鳴った。
「だけどハル君、追試ってのは聞き捨てならないなー」
「いやー、意外と何とかなるかなぁって思ったんだけどさ……」
副会長様のじとーっと湿った目から逃げる為に、馬鹿はボリボリと頬を掻きながら、
「やっぱ数学は無理。一夜漬けの暗記じゃ誤魔化せなかった」
「もう、どうして勉強しておかなかったの?」
「なんかやる気が出なかったんだよなぁ……馬鹿になって困るのは俺だけだしさ」
「
「そう、だな……」
目を、伏せる。
言葉が喉に引っ掛かり、思うように口が動かなかったから。
「いや、やっぱいい。一人で何とかしてみるよ」
「別に遠慮しなくてもいいんだよ。ほら、最近はあんまり二人で話せてないし」
「そうかな? まあ、いつまでも豊音に頼る訳にもいかないだろ?」
「かもしれないけど……本当に困ったら言ってよ。私はいつでも構わないからさ」
「ああ。それじゃ、そろそろ行くな」
「……うん」
ぎこちなく頷く豊音に背を向けて、陽明は駐輪場へと歩き出す。
「ハル君っ!」
鋭い声だった。
まるで感情が昂ぶって、意図せずに溢れ落ちてしまったような。
驚いて立ち止まった隙に、豊音に腕を掴まれる。
「えっと、あのね……」
豊音は落としてしまった言葉を探すみたいに唇を引き結んだ。空いている手を、大きな胸の前でぎゅっと握り締める。夕陽を背にしている事もあり、伏せられた両目は深い陰翳に埋もれていた。
「久しぶりにさ、エバジェリーの練習に来てみない?」
「っ」
視界が、揺らぐ。
粗悪な粉薬でも飲んだみたいに口の中が乾いていく。
「みんなハル君の帰りを待ってるよ。それに今回は
「……かも、な」
「だったら!」
「でも……今は、そんな気分じゃないんだ」
咄嗟に顔を逸らした。縋り付くような眼差しを受け止められなかったから。
「だけど、ハル君だって本当は――」
「悪い、本当に無理なんだ……多分、今は」
「そう、なんだ……なんかごめんね、しつこく誘っちゃって」
喉の奥から絞り出されたのは、風口の蝋燭よりも弱々しい声。遠ざかっていく少女の腕が震えていると気付いた瞬間、胸に斬り裂かれるような痛みが走る。
「でも、私は諦めないから」
地面に長い影を伸ばした豊音は、自らを鼓舞するみたいに胸の前で手を握った。
「ハル君、明後日の夜に
「ちょっと待て、俺は報告会に行くなんて一言も――」
「でも、行くつもりなんでしょ?」
「それは、まあ」
「私、待ってるから……ハル君が来るまで、ずっと」
揺るぎのない言葉。
強烈な意志に彩られた瞳だけが、逆光の中で確かな輝きを放っていた。
「……分かった、気が向いたらな」
陽明は逃げ帰るように踵を返す。だが、心には豊音の言葉が突き刺さったままだった。
「くそっ」
ギリッ!! と奥歯を噛み、足下に転がっていたアスファルトの破片を蹴り飛ばす。予想外の方向に撥ねた黒い塊は、駐輪場の錆びた鉄柱に当たって甲高い音を鳴らした。
——戦う理由もなく、ただ飛びたいだけの欠陥品に、空を望む資格はあるのか?
不意に、頭の中で響いた言葉。
誰かの声を無視して自転車の鍵を外していく。
「
乱暴にスタンドを上げると、自転車に跨がって漕ぎ始めた。
藍色が濃くなってきた夕空で、一羽の
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