アセンション・オブ・エバジェリー~異能の力で宙を舞い、競技刀で斬り合うスポーツ『エバジェリー』 翼を失った少年が空の王へと成り上がる~

夢科緋辻

第1章 空からの福音

01 スポーツ・シンギュラリティ

 8月9日(月)

 

 満員の観客席は、燃え上がるような歓声で沸き立っていた。

 場所は屋内50メートルプール。オリンピックや世界水泳を思い出させる広大な空間で、淡い光を纏った二人の少年がゴム製の刀を構えて対峙している。だが、彼らはプールサイドで睨み合っている訳でも、忍者みたいに水面に立っている訳でもなかった。


 上空。

 水面から七メートルほど宙に浮いていた。


 二人の頭上では『後光輪ヘイロー』と呼ばれる光の円環が眩しく輝いている。これが奇蹟の正体。彼らは後光輪ヘイローによって重力を中和し、神話の時代から人類が追い求めてきた夢を実現していた。


 試合開始のブザーと共に二人の選手が同時に動き出す。猛烈な勢いでそらを蹴り、十五メートルはあった距離を一瞬にして詰めたのだ。


 ゴム製の刀で斬り結び、火花の代わりに鋭い光芒を飛散させる。

 すぐさま片方が距離を取って接近し直したと思えば、もう片方はサーカス団員もビックリな空中挙動アクロバットで回避した。目まぐるしく激突を繰り返す様子はまさしく立体的な剣道。イメージとしては人型ロボットによる宇宙空間での近接格闘戦に近いか。


 空識道エバジェリー

 識力シンシアと呼ばれる能力を発現させた少年少女が生身のまま空を飛び、ゴム製の刀で斬り合う人気スポーツ。


 山の日である本日、埼玉県熊谷市にあるてんだいがくにて第二十二回エバジェリー全国大会の決勝戦が行われていた。

 その様子を、一人の少年が自室のベッドで寝転びながら眺めていた。死んだ瞳で眺めているのはスマートフォン。地上波と同時に定額制の動画配信サービスでも放送されている決勝戦の生中継だ。


『いよいよ試合も大詰めとなりました! ここまで圧倒的な力で勝ち上がってきた「ぞらあく」が決勝戦でも一方的に相手を追い詰める!! まさしく赤子の手でも捻る状況! 対戦相手に同情したくなるような展開が続いていますっ!!』


 安物のイヤホンから興奮した女性アナウンサーの声が聞こえてくる。ズキズキと頭が痛むのは音量設定を間違えたからだけではないだろう。画面の向こうでは、目を覆いたくなる程の蹂躙が行われているのだから。


 甲高いブザー音が鳴り響く。

 試合が終わった合図だ。


『決まったーーーっ!! 全国大会優勝は「ぞらあく」です!!』


 盛り上がる実況とは裏腹に、観客席からの反応は一切なかった。嵐の過ぎ去った惨状を眺めるにも似た絶望感。夜の帳が下りたような静寂には、落胆の溜息だけが染み渡っている。


『最後まで危なげなく勝利を収めてきた「ぞらあく」ですが……えー、あまりにも破格な力を持っているせいで、他の選手と勝負その物が成立していないように見えました。これは異常です。今後、新たなルールや制限を設けなければ、スポーツとしての競技性が崩壊し——』


 イヤホンを外した少年はスマホを持った右手をベッドに投げ出す。ギシッ、とスプリングの軋む音が薄暗い室内に響き渡った。


 スポーツには、特異点シンギュラリティが存在する。

 たった一人の天才によって生み出された技術や発想が、そのスポーツのルールや定石セオリーを根本から否定する瞬間だ。


 例えば、水泳。

 1956年メルボルンオリンピックの平泳ぎ男子200メートルにて、一人の日本人選手が披露した『潜水泳法』があまりにも強過ぎて翌年からルールで禁止されたように。


 例えば、走り高跳び。

 1930年代にとあるアメリカ人選手によって『ベリーロール』が考案され、また1960年代に別のアメリカ人選手によって『背面跳び』が考案された結果、世界的な跳躍スタイルが変化してしまったように。


 例えば、槍投げ。

 1984年に一人の選手があまりにも好成績を記録してしまった結果、次の大会から安全性を担保する為に飛びにくい槍へと道具が変更されたように。


 オリンピック種目に選ばれるスポーツだって、ルールや道具を変更する事で競技性を守ってきたのだ。


 そして、空識道エバジェリー

 今年で三十周年を迎える日本生まれの人気スポーツ。世界十カ国で約二万人の選手プレイヤーがいるとされ、生身での飛行という独自性で注目を集めているこの種目は、たった一人の大学生によって競技性崩壊の危機に立たされていた。


 少年は起き上がる気力が湧かず、流し目でスマホの画面を眺めてみる。中継は続いていた。どうやら優勝者インタビューの最中らしく、『悪魔』が女性アナウンサーからマイクを向けられている。内容が気になって、ベッドに転がっていたイヤホンを嵌めてみた。


『拍子抜けしました。全国大会のレベルがこの程度なんて正直がっかりですよ』


 耳を疑った。

 落胆した声で告げたのは、切れ味の鋭い侮辱の言葉だったから。


『今までずっと一人で技を磨いてきたので、ようやく大会に出られると決まった時は嬉しかったんですけどね。失望したことには変わりないですが、これならこれで受け入れます。別の楽しみ方を思い付きましたし』


 呆然とした観客やアナウンサーを置き去りにして、涼しげな見た目の青年は告げる。

 ぞっとする程の冷笑を浮かべながら。


『分かりやすく言いましょう。僕が、エバジェリーをぶっ壊す。圧倒的な王者として頂点に君臨し続けることで。皆さん、今まで無駄な努力をご苦労様でした。これからは僕に敗北する為だけに力を磨いてください』


 誰も、何も言えなかった。

 中継映像のBGMだけが、音を失った世界を空虚に彩っている。


「っ」


『悪魔』の浮かべた酷薄な笑みを見た途端、焼き付くような後悔で胸が詰まった。

 脳裏に浮かび上がったのは一年前に刻まれた敗北の記憶。何もできずに立ち尽くす自分を見下す冷たい瞳。


 いつからだろうか?

 空を見上げる事を、苦しいと感じるようになったのは。


 全てのきっかけは、という純粋な願い。

 ただ、それだけだったはずなのに。


「……ちくしょう」


 少年は歯軋りをする。

 かつて空を支配するとまで言われた天才の背中に、もう翼はなかった。

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