眠りたい

寅田大愛

第1話

 眠りたい。ただひたすら眠っていたい。眠っている間にうっかり三年間とか寝すぎてしまうことがないのなら、うっかり仕事に行き損ねてしまうことがないというのなら、可能な限り眠っていたい。ご飯もいらない。お菓子もいらない。ゲームもいらない。ただ柔らかい寝具に包まれて、惰眠をひたすら貪りたい。

 かつてあたしのご先祖様が、外国人部隊に所属していたころ、銃を持って戦場を駆けていたころ、夢に見たという。朦朧とする頭に死への恐怖と生への渇望を呼び起こさせながら、本能である睡眠欲に襲われながら、生まれ変わったら何でもない国の例えば戦争のない国の平和な一女性になって、結婚して主婦になってただ子どもをずっと育てて幸せに暮らせる毎日を送ってなんの恐れも心配もない日々を送ってみたいと神に祈ったという日のことを思い出した。ご先祖様は傭兵だったのだ。あたしの霊能力でご先祖様をさかのぼっているときに偶然出会い話をすることになった方だ。今のあたしの暮らしに、彼は満足しているだろうか? 少なくともあたしは銃の持ち方撃ち方すら知らないし、見たこともないが、彼の願っていた暮らし――平和で幸せな毎日を送れているんだろうか? また彼に会ったら満足しているかどうか聞いてみたい。

 あたしは夜中、眠気と戦いながら部屋で小説を書いていた。机の上のノートパソコンの前でひたすらキーボードを叩いていた。椅子に座っていたのだが、あるとき、不意に足元になにかが触れた。髪の毛の束だった。ごそっ――という音。束になった柔らかいような硬いような髪の毛の感触。あたしはぞっとした。人の頭だ。あたしの足元に人の頭がある。頭部が、あたしの右足に触れた。あたしは思わず足で頭を蹴飛ばした。思い切り蹴った。頭は嫌な気配を残しつつ消えた。

「なんで人の頭なんかこんなところにあるのよ」

 あたしはひとりでぼやいて、栄養ドリンク剤の瓶を手にとった。ぐっと瓶を開けて、なかの甘すぎる液体を飲みこむ。あたしは最近変な幻覚を見ることが多くなった。きっと栄養ドリンク剤の飲みすぎなんだと思う。陽性症状が通常時よりひどく強く出てしまう。栄養ドリンク剤を飲むとその症状はすぐに消えてしまうけど。

 眠りたい。早くベッドの中に入りたい。

 でも小説の続きを書かなくちゃ。

 その二つの願望の間で葛藤していると、急にキッチンからミックスベリーティーの香りがしてきた。幽霊執事があたしのために淹れてくれたのだろう。彼はとても有能で、あたしは芸術の神・ミューズや思考の神菅原道真公たちの次に信頼している幽霊の執事だ。

〈お嬢様。ミックスベリーティーが入りましたよ。今からそちらに持ってまいりますね〉

〈ありがとう。でもね、あたしはお嬢様じゃないわ。お姫様よ。それを間違えないで〉

〈大変失礼しました。お姫様。冷めないうちに、作業机に置いておきますね。失言お許しください〉

〈いいのよ。言い間違いなんてだれにでもあることよ。次は間違えないで頂戴ね〉

〈姫様の大好物のロイズの生チョコもご用意いたしましたよ。これでどうか機嫌を直してくださいね〉

〈じゃあ特別に赦してあげる〉 

 姫と呼ばれるのがまっとうだしそう信じて疑わないあたしだけど、これにはちゃんと根拠がある。

 あたしは王族だ。それも生粋の。今のところこの地球上に、あたし以上の血筋のいい姫は存在しないと神様が疑うたびにあたしが信じるまで何度も懇切丁寧に教えてくれた。

 それじゃあ……と言って姫と呼ばれることになんの抵抗も抱かずに呼ばれている次第である。

 なんの気配もなく作業机の端に、お気に入りのマグカップに甘いベリーたちの匂いのする紅茶と生チョコが器に盛られて小花柄のトレーの上に載っていた。幽霊執事の姿は、あたしは見えない。見えなくても、話ができることがとても不思議なのだが。

〈お姫様。《映像思念》があなた様の脳内に届いておりますよ。開いてごらんになられますか?〉

〈どうせ見たくもない画像だろうけど。いいわ。開いて頂戴〉

 ……。ああ妬ましい……

 うちらはこんなにブスで貧乏でどうしようもないのに、凛子のやつ。ああ、憎たらしい。……。狡いよな。あんなに可愛くて生まれが姫とか。……殺してやりたい。……キラキラと無駄に輝くから、ああ、踏みつけてやりたい。踏みにじってやりたい。キラキラが糞にまみれて台無しになっているところが見たい。……

 嫉妬に狂った醜い農村の豚だか牛だかわからないような田舎者の歪んだ顔。

〈いかがなさいますか?〉と幽霊執事。

〈あたしが天才で神により選ばれし者だからって、こんなに汚い感情を露出させて酷く嫉妬してくるなんて最低だわ。だからあたしはU市の人たちと関わりたくもないし一緒の空間にもいたくないし、お話もしたくないのよね。どうしましょうか〉

〈いいわ。地獄から派遣した狂戦士を七千五百十万人ほど街に放しましょう〉

〈お姫様は本当に悪い人だ〉と水色の鳥のぬいぐるみが言った。そう、これはすべてあたしの妄想である。もう眠くて現実と妄想の世界の見分けがつかなくなってきているんだ。自分で淹れたミックスベリーティーは熱すぎて、熱いものが苦手なあたしは舌を火傷をしてしまった。

〈U市を滅ぼすべきよ〉壁にかかっている希望の光と題した赤色と黄色の絵画があたしに話しかけてくる。〈狂戦士だけでもいいけど、ここはいろいろな者を派遣してU市を恐怖のどん底に叩き落とすべきよ。絶対よ〉

 絵画のくせに怖いことをおっしゃるのね。

 あたしは小説のなかでヒロインとその恋人が幸せな結末に向かってひた走る展開のシーンを熱を込めた筆致で書き進めていた。物語の佳境である。

 眠っている場合ではないのだ。それだけはわかってはいる。なのに。

 眠気のせいで軽く頭がおかしくなってきている! 

 ……あたしのまわりには素敵な人はたくさんいるけど、本当にだれと結婚したらいいのかよくわからなくて困っている。……だれがあたしの運命の結婚相手なのかを知りたい。……あたしだって三十代だし? そろそろ、ねえ? いや遅いのか。でも手遅れっていうほどではないのでは? いやいやもう、一生一人でもおかしくはないのでは? 一人でも生きていけるような女じゃないと結婚とか到底無理だし。……あたしが本当に好きになれる人はだれなの? もう出会ってる? まだ出会ってないの? どっち? ……

 眠たい。もう一生眠っていたい。いやそういうわけにはいかない。

 書くことと生きることはよく似ている。前に向かって進んでいくこと、たまに戻って考えたりもできること、でも結局進めていくことしかできないこと、突然終わらせたりもできること。……そう、書くことは生きること。前を向いて生きて、生きて、生きるしかない。文章を書き連ねて、痕跡を残していくこと、足掻き続けること。なにもかもが、よく似ている。

 どうしたい? どうしたらいい?

 一生懸命生きていくうちに、なにかがわかっていって、そのついでになにかが変わっていったらいいな。

 了、の字を書きこんであたしは心のなかで叫んだ。

終わったああああああ!

もう疲れた。なにもしたくない。あたしは眠るんだ! 全国民よ、おやすみなさい!

 

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眠りたい 寅田大愛 @lovelove48torata

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