旅行もどき
1.準備の日
その時、私は日本の国際空港で……ツアーガイドをやらされていた。
英語もろくに話せないのに。
完全なブラック企業の社長秘書兼経理をやらされていた。それだけではない。総務も人事も私だ。黒に黒を塗りかためたような会社だ。つまるところは、私は転職に失敗していた。が、仕事で海外はラッキーなので今回ばかりは存外悪くないと思った。
そういえば。前任の先輩は「この会社にいることが私の恥だと思ったから辞める」とさらりと辞めた。
小柄で美人などんな髪型でも似合うであろう、可愛らしい人だった。あ、昔バンドやってたとかも聞いたな。タバコを吸いながら、ワンフレーズだけ有名なアニメ曲を歌ってくれた時、鳥肌が立つくらい上手だったなぁ。
さて、仕事仕事。
今回は、シンガポールで行われる有名な人の大きなセミナーがあるという。会場は何やらイベントホールのようで、各国からの受付ブースがある。私は日本人の受付係までやらされる。
セミナーの内容は『お金の使い方』的なものだったと思う。まぁ裕福を目指す人たちの、裕福だからこそお金の使い道を考えよう的な何かだろうなと思っていて。自社が参加するセミナーのくせに、私は興味ゼロだった。
何より、このブラック企業の給料形態をどうにかしていただきたい。社長、有名講師のセミナー。よ~く聞いておくんだぞ。
私は空き時間にどこに行こうか、しか考えていない。何が美味しいのかなとかね。小さいながらに見所たくさんみたいだし!免税店でお買い物もできるし!海外久し振りだなー。相変わらず怖くてアジア圏から出られないでいるけど。
2.シンガポールに行く日
社長とコーチングを生業としている通訳の人は、別便。ずるい。と、思うけど。まぁこれはこれで自由にできる。今日は参加者数名と一緒に飛行機乗って、一緒にホテルまで行くだけ。
若そうな人からおじさままで年齢はバラバラ。そりゃ何十万も出して行くんだもんね。それなりの経済力がある人たちよね。
「こういうご案内を努めるのは初めてなので、至らぬ点がございましたら申し訳ございません」と丁寧に私が言っても、誰一人不審そうな目を向けたり、不安がったりしなかった。いいグループを担当したなと安心した。
それから、私の対応はフランクになる。
3.セミナー初日
セミナーでのあれこれは省きましょう。お仕事の話だからね。
少し話すなら、隣の中国人向けブースの人たちが物凄く優しかったことかな。スタイルとか服とかやたら誉めてくれたし、突然社長から叱責されて泣いてしまったときも、拙い日本語で手紙をくれた。「泣かないで」「笑顔でいて」って。それ見て、私はもっと泣いてしまって、中国ブースの人たちがそっと抱きしめて背中をさすってくれた。
あとは、知らない人にディナーに誘われたりしたけど、英語は苦手も苦手。もう、スマホの翻訳機能を駆使した無言でのやり取りしかできやしないから、しれっとしといた。
セミナー後に、気の合いそうな何人かで観光がてらテラスのあるバーで食事。参加した動機とか話したり、自分がどうしたいか話してたり、かとおもえば、他愛もないことで盛り上がったり。
私は、シャンパンをボトルで注文した。みんな驚いたけど「私が払いますから」と笑顔で言った。内心は、無理矢理経費で落としちゃお。散々理不尽なことで泣かされたんだし、と思っていたから。あれは完全な理不尽。納得していなかった。「ちっ!」と、心の中で舌打ちしてみた。
明日もセミナーがあるから、響かないうちに解散。
4.セミナー二日目
セミナーが終わると私たちは、今日も観光に出る。社長や通訳がどう過ごしているのかは知らない。だけど、少ない日数なのに居心地のいいグループに気兼ねなく参加できることで大満足なので。
遊園地にあるような、小さなスカイフォールに乗ることになり。絶叫系は好きだけど、異国の地のアトラクションに命を預けられるのか。ドシンと落ちたらどうしよう、と若干不安にかられていると、年が近そうな男性が「手を繋いでましょうか?」と言うので「だ、大丈夫ですっ!」と訳もなく意地を張る。
だがしかし。その男性と隣り合わせでアトラクションに座ってベルトをつけられた時、完全に弱々しくしおらしくなった私は「……やっぱり、手、繋いで、もらって、いいですか?」と切れ切れに言葉にした。彼は「いいですよ」と笑顔で手を握ってくれた。
落ちてる最中に「声が枯れてしまうでしょうがぁ!」という程に大した高さでないのに悲鳴をあげ、地上に降り立つ頃には小鹿のような有り様だった。みんな私を見て笑ってたけど、嘲笑ではなくて、単純に楽しそうに笑ってたから不快感はない。
私も笑った。
でも、完全に小鹿と化した私は、彼の手をしばらく放せなかった。
5.セミナー最終日
全三日間のセミナーを終えてカフェバーで乾杯!そして、この場にも社長と通訳はいない。どこで何をやっているのやら。どうでもいいけども。レシート見たら解ることだしね。
私は上機嫌も上機嫌。まぁ、さすがにシャンパンは頼まないけど。色んな国から参加者が来るぐらい、有名な講師だったみたいで、参加者も満足そうだったし。明日からはどこでなにをしているのかもわからない人たち。いい出会いだったね。楽しかったね。
みんなで思いっきり、はしゃぐ。
私の頭をふとよぎったのは、明日のこと。帰りの便がまた行きと同じく社長と通訳と違う上に、時間も遅い夜の便。
チャイナタウンでも行ってみたいなぁと考えつつ、みんなそれぞれ観光か社長たちの便の人もいるから、帰りの時の話はしないでおいた。
解散する時、昨日スカイフォールで手を繋いでいてくれた彼が「明日、マユさんも夜便ですよね。昼間一緒に観光しませんか?」と言ってきた。一人じゃさすがに心細かったから、ありがたく快諾した。
6.日本に帰る日
マーライオンを見たり、チャイナタウンでお買い物したり、時間が過ぎるのは早かった。何より、彼と過ごすのが思いの外楽しかった。優しくてちょっと優柔不断そうで保守的、かと思いきや突然知らないことにチャレンジする……年も近いから、話も合ったし。
そうしているうちに、空港に行く時間になって。座席は離れたところ。一日遊んで疲れたから、飛行機の座席にもたれてすぐに寝てしまう。
起きた頃にはもう日本の夜景。到着して、預けた手荷物を待っていると彼が現れた。各々、自分の手荷物を見付けて引っ張るように取ってから。
「それでは、さよなら」
「お疲れ様でした、さよなら」
と、わかれた。
……しくじった。
私の足は止まった。
その時、私に彼氏はいなかった。彼も彼女がいないと言っていた。
よくよく考えれば、完全に見た目は私の好みの部類だった。ハイヒールを履いていても、私より背が高くて。歩く時も、歩幅を合わせるように歩いてくれた。
連絡先、聞いておけばよかった!
突然の大後悔に襲われる。痛恨のミス!仕事のミスよりもショックに感じる!なんでもっと早く気がつかなかったの!私!
ツアー参加者リストに連絡先はあるけれど、それをプライベートに使うのは違反事項。大人しくまだフリーを楽しむ他、無いようである。
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