第3話 見知らぬ姉
幼い頃、自宅にいたずら電話がよくかかってきた。決まって男の声でこう言う。
「お前のうち、父ちゃんいないんだろう」
男は母が仕事で不在の時間を狙ってかけてきているようで、たいてい平日昼間だった。何か必要な連絡かもしれないので電話には出るようにしていたものの、それは不気味だった。子供の俺には大人の声としか分からなかった。親戚なのか、近所の連中なのか。俺は話すのが怖くて通話を切るだけだった。
父親がいないことは俺と母の間ではタブーだ。成人した今も母に聞けないでいる。母に恥をかかせるようであったし、そのことで同級生の親から陰口を叩かれていた俺自身の恨みと意地もある。だから、謎の男の挑発電話は軽蔑すべき大人のいやらしさを知ったきっかけであった。歳上を敬うよう地域から育てられていた子供には衝撃的だった。成人してもなお歳上の男に話しかけるのが嫌なくらいに。
何度か挑発が繰り返された
「お前のうち、姉ちゃんいないんだろう、え?」
土曜の昼時だった。中学校はテスト休みで、母が作り置きしてくれた炒飯を電子レンジで温めているところだった。帰りに買ったマンガを、食べながら読もうと急いで帰宅した日のことだ。
「お前のうち、姉ちゃんいないの知ってるよ」
俺は硬直してしまった。男の言葉がナメクジのように鼓膜を這う一方で、しかし友人の或る言葉が脳裏を奔った、「おまえんち姉ちゃんいないのに、女の気配がするな」。
「お前のうち、姉ちゃんいないの知ってるよ、そりゃあ」
その友人には姉が3人いて、独りっ子の俺を羨んでいた。姉達に子供部屋をとられ、多数決でも負ける彼は俺と仲良かった。だから、俺の広い自室に遊びに来ると楽しそうだったし、ことあるごとに姉妹への不平をぼやいていた彼の謎めいた指摘は俺の記憶に残っていた。
「お前のうち――」
俺は遮った。そして、
「それ本当ですか」
と、聞き返していた。廊下を挟んだ台所でチーンと電子レンジが鳴る――。
「あの、本当、ですか、おじさん、誰なんですか」
不意をついたのか男は黙った。俺の動悸は早まり舌がもつれていたから、もう一度念を押すように、
「姉はどこにいるんですか、教えて下さい」
と、声の震えを殺しながら丁寧に申し入れた。
受話器に男の呼気が吹きつけられてバリバリと音が割れた。黙っていた。まるで秘密を告白する直前の嘆息のようであったが、俺自身の鼻息かもしれなかった。古い電話なので側音があるためだ。だからこの時、男と呼吸を重ねたように思われた。お互いが何か後ろ暗いことを黙契したかのような、不道徳な感情を一瞬抱いた。それは俺の錯覚であって、間もなく電話は切れた……。
知らない大人と口をきくのは怖かった。切れて良かった。でも、俺の口をついて出た言葉には、今から思うと不純な衝動が含まれていたのだ。
まず俺にとって父親像は子供を頭から抑えつける恐ろしい男だ。同級生が父親の気まぐれで叱られているのを見たことがある。それは学校の体育教諭と同じく理不尽で暴力的で腕力では敵わないものだ。だから、母子家庭の俺にとって居心地を悪くする者に違いなかった。
しかし、もし姉がいたらどうだろう。友人宅へ遊びに行き、うっかり食事をごちそうになった後、家人から家族構成を聞かれた時の気まずさ……。父親がいないことでイジメられるのではないかという極度の
まるで姿を変えてつきまとう、これら父親不在の斜影から庇ってくれる姉がいてくれたら、俺はどれだけ嬉しいだろうか。母は必要な時に不在なのだ。誰にも言えない寂しさを共有し、身を挺して守り、いつでも遊び相手になってくれる小さき母――幼い俺は男の言葉に
突然電話が切れたことで、如何ともしがたい感情が腹の底に残った。手がかりが潰えたように感じた。廊下に炒飯の匂いが漂ってわずかに食欲を感じたが、好物もマンガも「姉」の前では取るに足りないものと思えた。
この感情は数日
或る日学校から帰宅すると電話機が新調されているのに気づいた。番号通知機能のある液晶表示と子機が装備されているものだ。母の話では午前中に業者と立ち会い、設置したのだという。
俺は何も聞かされていなかったが、男からの
以前から営業などの迷惑電話はあって母に漏らしたこともあるので偶然かもしれなかった。ただ電話機を買い替えるにあたって何の相談もなかったのは不自然に思えた。
急いだのではないか、と俺は勘ぐった。男と俺の関係を断つべく……。そう思惑するといっそう姉の存在が際立つように思えて仕方がなかった。
着信の履歴を確認すると登録外の番号に混じって公衆電話があった。しかし留守電も拒否になっていた。あの男かもしれない、設定を変えてやろうと考えないこともなかったが、それを勘づかれてはいけないとも思った。
母は俺を「世間を知らない無垢な子供」扱いしていて、「家の手伝いはいいから遊びなさい」と言う母だったのは、母子家庭や親戚付き合いのまるでない事情といった、立つ瀬がない母の気遣いであり、裏を返せば過去を知られたくないがゆえの甘やかしでもあった。そして俺は母の思惑を裏切らず母子家庭の居心地の良さを甘受し、その反面で父不在の母を恨んでもいた。
それゆえに俺は愛憎のバランスをとらなければいけない。「無垢な子供」の一方で、母の過去かもしれない「姉」の探索を行わなければならない――喫水線を超えぬように浮き沈みするのが、幼少の俺の常だった。
もし勘づかれたなら母との関係は瓦解し、姉も斜影に巻かれて消息を絶ったままだろう。俺は母からの信頼を得つつ、対立する姉に肩入れをする気でいた。それは家庭の機能不全同様、そう育った自己の悪知恵であり、父性の欠けたエキセントリックな胸次を静める手段でもあった。
電話も男も姉もすべて俺の邪推……事実なのは男の謎の言葉だけ。しかも人物不詳の与太話であったけれども、つまりは「不安」だったのだ。父不在、時折不機嫌で忙しい母、いつ見放されるか分からない。離婚した父からは音沙汰がないのだから、母とていつ心変わりするか分からない。無論母には忠誠を誓っていたが……だから昔の俺は宿り木を探していたのかもしれない。
姉は本当に実在するのか。かつて身近にいたのだろうか。今生きているのだろうか。どこかですれ違っていないのだろうか。会いに来てくれないのだろうか……。もし会えたなら、どんな顔かたちだろう……。
脳裏に浮かぶ姉の姿は逃げ水のように消え去り見当もつかない。陽炎めいて揺らめいて、知らぬ間に俺を抜き去って、眼前を遠ざかり、4番線に横たわり、快速が通過し、視えなくなる。
本当は、姉は、近くに、いたのだろうか。
不意に駅の幽霊を想った。
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