第4話 夏畦

 武漢風邪の感染者数が連日増大していく。二ケタから三ケタの感染者数に至る時間は早く、引き続き物に触れるたび手洗いと消毒、うがいを徹底した。持ち物も帰宅時に消毒し、特にケータイ・鍵・サイフは念入りに行った。

 外ではマスク着用を欠かさず、頻繁に取扱店へ通ってはハンドソープとともに購入していた。その一方で装着を怠っている外人や若者を見ていると恐嚇きょうかくの念が沸く。自分はそれほど神経質ではないと思っていたが、感染第一波時の品不足が尾を引いていたし、職場の同僚の知人にも死亡者が出たという話も聞いていたので、日々の恐鬱きょううつは深まるばかりだった。

 心配なのは初老の母だ。高血圧持ちで薬も欠かせないから、最近になってオンライン診療に切り替えさせた。通院での罹患りかんは抑えられそうだが、仕事好きの母は何かにつけて外出したがる。せいぜい庭いじりで我慢してくれていれば良いが、今度は熱中症が心配になる。

 むしろ熱中症の方が月の死亡者数の観点では危険であったが、しかし俺も母をとやかく言えなくなった。

 なぜなら、俺は今朝も駅に来ていたからだ。無論マスクもしている。高湿度、炎天下で暑い。今日は月曜で休業日であり、目的がある――霊に逢うためだ。

「霊が姉ではないか」と想像をたくましくした日から数日経って、霊の姿に顕著な変化が現れていた。

 そもそも幽霊自体に初めて気づいたのは5月末。大陸武漢の熱波に圧されて戦後初の緊急事態宣言発出・解除後の頃だった。在宅勤務や時差出勤の推奨によって駅から人影が減少し、視界の片隅を動く何かに気づいた。しだいに逃げ水のように揺らぎ陽炎のように萌え、人の像を捉え始めて8月。いまや物の輪郭を定めつつますます人間に近づいていた。揺らぐ線のようだったものが人型をとり、その輪郭が葛餅くずもちのように厚みを保つ。日を追って質感はいや増し、今ではおおよその身長から髪の長さまで視てとれるようになっていた。

 きちんと眼科処方の目薬もビタミン剤も継続しているから眼病ではないはず、と信じたい。このまま日を重ねればいっそう鮮明に視えるのではないか。俺は期待した。しかし、恐ろしくもあった。

 もしも現実の人間と変わらず見えるようになったら、今後俺はどうなるのだろう。霊の姿が際立つようになっても、その行動は変化していない。今俺が立っている5番線ホームからの電車飛び込みを繰り返し目撃するのだろうか。もしもそれが姉だとしたら、俺は正気を保てるのだろうか。他方、姉ではない何者かの幽霊だった時、俺と何の関係があるのだろうか。ずっと視続けるのだろうか……。

 人間同様に流血するものを視続ければ、きっと狂ってしまう。この駅も恐ろしくて利用できなくなるし、他の場所でも四六時中視えてしまうようになったら俺は……死んでしまうのかもしれない。何か非現実的で、誰にもわからないような原因で……。

 そう考えていた時、対面する4番線ホームからアナウンスが聞こえた。定刻通り、快速通過を知らせている。

 俺は知らず口渇し何度か咳払いした。しかし周囲の目が咳をさせないように俺を見張っている……。

 にわかに息苦しくなり、マスクを引っぱって口元を浮かせた時――、

「おねえちゃんいないのしってるよ」

 ――聞こえた。あの男の声ではない。電話の声ではない。右耳に囁いている。

 若い女だ。母によく似た女の声だ。俺をよく知る女の声だ。間違いない――。

 俺の眼前にヌッと固まりが現れた。薄ぼんやりとして、しかし視線が噛み合った。一瞬で顔と分かった。女の、莞然かんぜんとした、色のない顔……。

 そいつはすぐに振り返ると、肩までの髪を揺らしてホームを飛び降りた。対面する4番軌道上にフワッとうつ伏せになるとレールをつかみ首を固定して、そのまま快速にモミクチャにされてしまった。姿はかき消える……。

 腰が抜けそうだった。直立できず、中腰のままあえぐ。マスクが汗で貼りつき、鼻口を塞ぐ。心臓が早鐘を打ち、全身から汗が染み出してくる。苦しい。

 だが、そのままでいるわけにはいかない。まもなくこのホームにもいつもの電車が滑り込んでくるはずだ。よろけたら線路上に落ちてしまう。ベンチに――。

「大丈夫ですか」

 若い女の声。俺はギリギリと見上げた。

 そこにスーツ姿の女がいた。30代だろうか。人間だよな……。

「ちょ、ちょっと……ベンチに……」

 俺はろれつが回らず下を向いてしまった。

 すると女は俺を抱えるようにして、ゆっくりとベンチへ誘導してくれた。ほどなくして各駅停車のアナウンスが入る。

 ベンチにどっかりと座らせてもらうと、お礼を言うよりも早く、

「どうぞ、これ飲んでください。まだ口をつけていませんから」

 と、彼女はペットボトルの茶をわざわざ開けて差し出してくれた。俺は一も二もなく受け取って、咳き込まないように、心臓を落ち着かせるように嚥下えんかする。

「熱中症かもしれませんね。大丈夫ですか、救急車呼びます?」

「……ありがとうございます。でも大丈夫です、ちょっと腰を痛めてまして」

 ピンクのカバー付きのボトルを傾けながら、俺は嘘をついた。

「少し休んでいれば痛みも引くと思います。助かりました。あ、電車が来ますよ、あの、これ」

 俺は舌が回らないまま早口に言って、ともかくボトル・カバーを慌てて引き抜いて親切な女性に返した。会社に遅刻させたら申し訳ない。もう電車が入ってくる。

 「お茶、ありがとうございました。だいぶ良くなりました。後日、お礼します」

 「それはいいんですけど……本当に大丈夫ですか」

 マスク越しの少し釣り上がった目は明るめのアイシャドウにラメがのっていて、俺の眼をパッチリと覗き込んでくる。それが思案げに聞いてきたが、電車が何事もなかったように停車し、乗降客の気配が一斉に動き始めると急かされたようで「じゃあ行きますね、ごめんなさい」と会釈して去った。俺は再度お礼を伝えてから彼女を見送った。

 乗降客が改札へと向かうなか、俺は独りベンチに沈み込んだ。しばらく立たない方がいいだろう。暑い。けれども背筋に悪寒が奔る。こんなのは初めてだ。

 「何だってんだ」

 俺はもうマスクを剥いで茶をグビグビとやった。冷たく香ばしい茶が喉元を過ぎていくと汗は全身に際限なく沸いてきた。体がカッと熱せられて消耗するのを感じる。しかし少しずつ精神は落ち着いてくるようだ。

 人の親切心に救われた。もしあのままだったら落下して死んでいたかもしれないと思うと、嘘をついたことや、改めて礼を言うための連絡先を聞かなかった不手際を後悔した。

 ふと「あのパッチリ女、俺の姉さんかもしれない。だから俺を気遣ったんだ」と思った。同時に、強烈な意思表示をしてきた「見知らぬ姉」の顔貌がんぼうが脳裏に浮上し、俺は身震いする。

 声とともに鼻先に浮かんだ顔――そいつが目笑してシワが寄って、目や口元に色味が奔り肌色になって、息遣いまでも感じたような気がした。ヌッと寄ってきた時の空気の微動、顔の厚みがあるかのような圧迫感は現実の女のようで、幼少に感じた如何ともしがたい感情を呼び覚ますには充分だった。

「おねえちゃんいないのしってるよ」

 右耳に触った女声が響く。電話男と同じ言。しかし、言い回しは異なっていた。揶揄やゆではなく幽韻ゆういん。もう声色も思い出せない。舌で這うかのような感触のみが、現実の女のような吐息で残る……。ふと母が電話で話しながら泣いていた光景を思い出した。昔だ。

 呼吸を整えた俺はベンチから立ち上がった。空のボトルを自販機脇に捨てると、もう俺を助けたパッチリ女のことは忘れてしまった。

 なぜか俺は浮気を咎められたよう気がした。早く帰って、もっと何かを模索しなければならない気分でいた。仲直りするには、お互いにとって何か大事な物を見つめ直すのが肝心だ。自室に何かあるはず。姉がはっきりと視えてくる以上、俺の感性は間違いではないだろう。何か意思疎通できるものが見つかれば、今度は会話ができるかもしれない。そうすれば悩みを聞き出して電車に飛び込まなくても済む。きっと苦しんでいるはずだ。だから俺に助けを求めてきたのだ。

 急がなくては……。

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