第2話 過去に
数週間後、会社帰りに再び眼科へ行った。もう「不気味なもの」については言及せず、疲れ目ということで薬だけ処方してもらうことにした。改善を期待していたものの長々と相談するだけ無駄なようだし、院内は受診控えも解消され混み合っていたから、武漢の風に吹かれそうで嫌だった。普段医者通いしない俺はこの混みように辟易した。金曜の夕方はいつもこうなのだろうか。唯一涼しいのが救いだ。
しかし、予約時間を過ぎても診察に呼ばれない俺はひとまず院外へ出た。そこは駐車場に隣接した中庭が設けられていて、夕暮れ空が見えている。人気もなく3密回避にはちょうどいい。
受付に呼ばれるまで、そこで種々のカウンセリングについてケータイで調べてみた。が、思いのほか高額なうえ保険適用されないことを知った。フランクに話せて暗いイメージのない新設のクリニックを探していたが、話すだけなのに……だからか。また今度にしよう。
外は蒸し暑い。受付に呼ばれた時にはだいぶ汗ばんでいて、待合室ではしゃいでいる子供の親を一睨しつつ診察室へ入った。涼しい所でマスクもさせずにいるのが気に入らなかった。
ようやく帰宅した俺は何よりもまず入浴を済ませた。汗は落とせたけれども眼科のことで少し気落ちしていた。
次に冷蔵庫の炭酸を求めて台所へ行くと母が夕食の仕度をしていた。揚げ物とゆで麺の熱が古い換気扇に逆巻き、一方母は頭にタオルを巻き、髪が逆巻いている……。大汗を忍ぐその顔を俺はジッと見ていた……。
冷房のない夏の台所で火を使うのは蒸し風呂のようであるが、親子の食卓は台所にあった。平日は一緒に夕食を摂るのが常なので、眼科で遅れる俺に合わせて仕度してくれたのだろう。
とりたてて手伝うようなこともないので2階の自室へ上がり、冷房とパソコンを立ち上げておく。今夜は調べ物をしようと思っていた。
椅子に座って、ちょうど炭酸を飲み干した頃、階下の母に呼ばれた。
台所へ降りると天ぷらや冷麺が用意され、火の匂いが残るなか暑さで減退した食欲にアピールしてくる。熱気をかき混ぜながら、壁の扇風機は首振りの音を立て、俺と母はそれを聞きながら静かに今日の出来事などを話し、麺を
夕食を済ませると母は風呂場へ、俺は自室に戻った。あまり食欲は戻らなかった。
室内は冷房が効いていて、夕食時の汗がスッと引いていく。早速パソコンの前に座り、俺は夜ふかしするつもりでネット検索を始めた。
明日から会社は3連休に入る。週休2日のうえ月曜は臨時の休業日にあたる。実際は会社都合で自宅待機扱いだが、つまりは休みの日で差し支えないだろう。
あまり暇になると収入面で不安を覚える人はいるだろうが、実家暮らしだから自分の貯金に関して心配していなかった。休業手当もありそうなので、もともと働くのが嫌いな俺は「失業しなければいい」程度に思っていた。
しかし未知のウイルスが日常にもたらした経済不安はいまだ底知れず、来年の雇用状況など分かるはずもない。
そのうえ健康不安、政府への不信感、陽性者への白眼視、伝染すことで誰かを死なせるリスクをマス・ソーシャルメディアともに増幅し、モラル・パニックの震源となっている。その絶えぬ余震にくわえて駅の幽霊じみたものがいや増して現れる状況――増長続ける社会不安に俺個人の特殊な事情が煽られて、まるで下草が燃え広がるように負の感情が奔る。
ウイルスも幽霊も不可視であるが、咳ひとつで起こる人心のさざなみも不可視であって、それらがどのように牙を
今の揺らぐ精神状態ならばもっと幽霊(そうであるなら)を鮮明に視えたかもしれない。実際、以前にもまして視えてきている。けれど月曜が自宅待機に割り当てられるとわざわざ駅に出向く気はなかった。反面、その幽霊への引力は日に日に強まる気がしていた。
そのような社会の病的な内向き傾向に煽られ、しばしば俺もステイホームを気取って幽霊検索に勤しんだものの、これまでにめぼしい情報はなかった。
しかし、ブラウジングするたびに答えはネットの海ではなく、記憶の深みにある気がしてくる。
それはコロナ禍以前から燻っていた心底の悩みで、家族の問題であった。長年に及ぶその根は深く、負の念であるが親しく……この問題と幽霊を結びつける手がかりはこの部屋の有り様次第かもしれない。
というのも、この自室――昔からの物が堆積した部屋で、まるで子供の頃から成長していない自分そのもののように思える。8畳の間のすみに固定された学習机には食玩のシールや落書きが残され、視線を上げれば自在棚のガラス戸の向こうでグチャグチャになった学校のしおりがいまだに見えている。そのせいで自分は退行気味で、何かにつけて昔のことを思い出す――そう分かっていながら放置していた俺の心理は、日に日に強まる幽霊への疑惑と通底しているのだろう。
家族、幽霊、過去――何かが形作られる気がした。その材料は部屋の中に隠されているかもしれない。誰が隠したのか……昔の自分か。
この机に着くと「死ぬまで大人になりきれない」と思えて、なぜそう思うかは分からなかった。
そうして、検索にふけって思考の海へ沈み込むうちに長年解決されてこなかった悩みが浮上してくる――。
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