夏濤
@alfirjg7k4ht
第1話 駅の幽霊
観測史上最も長い梅雨が明け、晴れ渡る空が広がっていた。雨に悩まされる日は一区切りついて代わりに夏が到来し、道沿いは朝から車の熱波で暑い。
駅へと続く歩道は陽光眩しく、心なしか人通りも多い。通勤通学の様子はパンデミック以前の光景に戻った感はあるものの、感染予防のマスクが日差しを浴びて真っ白く、或いは真っ黒く、色それぞれに際立って見える。華やかな花柄、幾何学模様、格子柄と華やかな一方で、そのデザインを楽しむ人々の目睫はしかし熱気で苦しそうだ。
俺は駅方面へと進み、やがて駅のバス・ターミナルへさしかかる。その脇に人気のコンビニがあって、ちょうど涼しげな格好の女が出てきた。オフの日だろうか、ノースリーブの白い腕とコンビニ・コーヒー、それに大きめのスクエア・サングラスの色合いが何とも夏らしい。
このまま出勤せず、どこかへ涼を求めたい。俺は汗を拭いながらターミナルの階段を登り、駅構内に入った。
外はカラッとして「ようやく夏が始まった」感があったのに、駅構内は早くも人いきれでムッとしている。電車、店舗、発車標、改札機、それらの熱が大勢の人の匂いに乗って流れてくる。その中を縫うように歩くだけでマスクはもう汗で濡れ始めていた。呼気の熱でいっそう張り付くのが不快だ。
改札を抜けて5番線へ降りていく。乗降客がはけたプラットホームは一息つくかのようだ。発車標には遅延もない。定刻通りに電車が入ってくるはずだが……最近、俺はここで不気味なものを見るようになった。
定刻まで10分ほど余裕がある。この時、対面する4番線ホームのアナウンスが快速通過を知らせるのだが……。
マスクで顔がかゆくて頬のラインを微調整しながら目を細めていると、俺の脇から不気味なものがすり抜けていく……総毛立つも、あっという間に眼前を遠ざかるが、それは後ろ姿かもしれない。目を凝らせば、逃げ水のようなものが人の輪郭をなしているのが視え、そいつは小走りでホームを飛び降りる……。
鉄道自殺の幻影なのだろうか――。
これは決まった日時、つまりは月曜の朝に現れる。上り5番線に対面する下り4番線の軌道へ飛び込む姿は陽炎のように透けている。
5番線ホームのどこかから、必ず俺の脇をすり抜けるように現れてホームを飛び降り、フワッとした身の投げ方をして4番軌道上に倒れ込むのだ。ちょうど首を軌道上に固定する態で大の字にうつ伏せとなって、電車通過の瞬間に合わせる……。
そこまで視えているのも不気味だが、運転士も車掌も乗降客も全く視えていないのはこの一月でよく分かった。誰も騒がず、運行の妨げにならないのだ。
4番線のダイヤが乱れていてもそいつは月曜の朝、快速通過のアナウンスが響くたびに、俺の視ている限りの時間で見えない自殺、言いかえれば架空の自殺を繰り返しているようなのだ。
俺も初めて目撃した頃はてっきり眼精疲労だと思っていた。仕事帰りに眼科へ通い「時々こんなものが見える」と相談していたが、結局目薬とビタミン剤を処方されるだけだ。医師の反応からみても、そもそも透き通った人間などいないのだから、通う場所が適切ではなかったかもしれない。心理カウンセリングとか精神科とか……。
ともあれ今朝も目薬とビタミン剤を服したわけだが、しばらく完治しないのだろう。週明けの憂うつな月曜に幽霊じみたものを視るのは不快だったが、ついゾクッとして目で追ってしまう。例えば歩道を進んでいる時、背後から音もなく自転車に追い抜かれた時のようなギョッとする感覚に似ていた。一瞬思考が止まってしまうようなあの感覚は御しがたい。
こうして今朝もそいつは俺の脇をすり抜けて、快速の4番線電車に音もなく轢かれてしまった。列車の激しい動きに溶け込んで跡形もない。俺の他にも乗降客はいるわけで、「武漢コロナウイルスのせいで全員マスクをしているのだから多少は眼力が増して視えるのではないか」と根拠のないことを考えながら、向こうの4番ホームだったり自分の肩口であったり、ともかく人の視線を追った。やはり誰も騒がなかった。
やがて5番線にアナウンスが流れる。この各駅停車で俺はいつも職場に向かう。
俺はホーム中央のベンチに座った。電車が滑り込んできた時、あの不気味なものに突き落とされる気がしたから、毎度こうして座っている。実のところ、自分が思っているよりも深刻なことなのかもしれない。
油っぽい熱風とともに電車が到着した。俺は乗降客のひとりとなって車内に乗り込んだ。もうその時には不気味なもののことは忘れて、仕事の段取りを考えていた。
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