第35話 消えた記憶
奏の矢を防いだ瞬間を見られなかったのは、天音にとって予想外の出来事であった。決してタイミング誤ったわけではない。
まさに矢が刺さろうとした瞬間、軌道が変化した。どんなに素早く矢を落としたとしても、天音の目に捉えられないはずがない。単純な高速の斬撃ではなく、まるで映像をコマ送りで見たような不思議な現象である。しかも、重要なコマが欠落しているようだった。
それに、楓真が飛来する矢を見たわけでもなく、それどころか気付いた様子すらないのに正確に防いだという点が気になっていた。
——どうしてそんなことができる?
一つの道を極めた達人の動きを常人が理解するのは難しいように、楓真には天音たちが分かり得ない何かを感じていたのだろうか。
でも、彼は達人というにはまだまだ若い。二十代前半くらい、どう見ても三十歳に満たないであろう。
とすれば、矢を落としたのは能力と考えるのが自然である。気付いていない背後を超高速で斬ることができるのは、どんな能力なのだろう。
斗亜たちは、すでに走り出している。
考えている時間はない。決着を付けるために動き出してしまった。
天音は加速した。三人の同時攻撃に合わせた発動であり、絶好のタイミングだ。
斗亜はジェットブーツから炎を放ちながら姿勢を低くし、楓真へ足払いを仕掛けようとしている。
冬矢は上段に構えた打刀を振り下ろそうとしている。斬撃は斗亜の攻撃に合わせており、楓真も刀での一撃の方が威力が大きいと考えたのか、冬矢を見ている。
奏も矢を放った。距離から考えても、正確に彼の背中を狙っている。
この動きでどんな能力を持っているか分かるだろう。むしろ、このまま楓真が死んで戦いが終わるのが一番いいのだが、天音の抱いている不安感はずっと胸に残り続けている。
——きっとまだ終わらない。
そんな嫌な予感さえする。
しかし、もう攻撃は始まってしまった。
一瞬楓真の刀が消え、斗亜の足が切断される。このときの攻撃を楓真はまったく見ずに対処していた。
冬矢の打刀が振り下ろされる。真っ直ぐ、素早く無駄のない斬撃である。だが、楓真の一閃はそれよりも速い。横薙ぎした太刀は、冬矢の胴を斬り裂いた。
再び楓真の刀が消えたかと思うと、背後に迫っていた矢が叩き落とされる。先ほど落とされた位置よりも近い場所で防がれたことになる。
時間の流れが元に戻る。
「ぐっ……!」
足を失った斗亜が、苦しそうに声を上げながら地面を転がる。
『冬矢!』
腰から真っ二つに両断された冬矢は、わずかに意識はあるものの、奏の呼び掛けに答えるほどの余裕はなかった。
——斗亜!
天音は出現させたナイフを握り締める。
すぐにでも助けに行きたかったが、まだ加速できない。それまでの数秒間、冷静になって状況を判断しなければならない。
斗亜の足を切った攻撃も、楓真は見ることがなかった。また、冬矢も蜃気楼を使ったはずなのに、惑わされることなく彼の体を斬っていた。さらに、矢を落とした位置も不可解である。なぜ落とす距離が変わったのだろう。単純に同時攻撃されたからなのか。
もし、彼が能力をコントロールしていないとしたら、それらの疑問を解決できるのではないだろうか。楓真の能力はある一定条件を満たした際に自動で発動される。見ることなく背後の矢を落とすことも、蜃気楼の効果を無効化したことも、それならば説明できるのではないか。
——もう、迷っていられない。
天音は加速して走り出す。
みんながまだ生きているうちに戦いを終わらせなければならない。相手の能力は完全に理解したわけではないものの、考え続ける余裕はない。今は判明した一つの事実に頼って賭けに出るしかない。
とは言え、自棄になっているわけではない。ナイフを前に突き出していけば、武器だけは弾かれるかもしれないが近付くことができる。彼の足元に転がっている冬矢の打刀を使って攻めを継続させることが可能なのだ。
だが、それは楓真に近付いたときであった。
彼の刀が消えた。
次の瞬間、天音の右腕に激しい痛みが走る。十六年の人生の中、彼女もさまざまな痛みを経験してきたが、今感じている痛みはそのどれにも属さない強烈なものであった。
激痛のために能力の継続ができなくなったのか、時間の流れが元に戻る。
バランスを崩し、楓真の位置を通り過ぎて地面に倒れ込む。
とっさに右手を見たが、そこにはナイフもなければ右手もない。あるのは血が吹き出す傷口であった。
——斬られた!?
初めて知る痛みが全身を駆け巡る。
「うっ……あぁっ!」
堪えきれずに声が出る。
『香坂さん!』
奏の声のすぐ後に銃声がした。目を開けると、まるで真っ赤な花が咲いたように、遠くにいる奏の体から血が吹き出していた。
「こんなもんか、残念だな」
楓真はそう言いながら、冬矢と斗亜の首を刎ねる。
今すぐ走っていって戦いたかったが、もう武器もない。仲間もいない。
そのとき、体がふわりと浮かぶ感覚がする。
停止世界が終わる。
このときばかりは、天音も早く戦いが終わるのを待っていた。今終われば、誰か生き残っているかもしれない。
——早く……早くッ!
次の停止世界でも、楓真と戦わなければならない。それは覚悟しなければならないが、今のまま戦っても勝ち目はない。
世界が消えていく中、楓真は笑っていた。
* * * * *
気が付くと、天音は美術室にいた。
時間を見るとお昼休みである。なぜ自分が美術室にいるのかも分からない。
ここで授業があって、自分だけ取り残されてしまったのだろうか。それとも、誰かに呼び出されたのだろうか。
思い出せない。
どんなに頑張っても、記憶の断片すら見つからない。何か大切なことがすっぽりと抜けてしまっているような気もするが、うっかり忘れているだけのような気もする。
とにかく、午後の授業もあるからここから出なくてはならない。
歩き出したとき、手の平に違和感を感じた。いつ手に入れたのか、手紙を持っていた。
開けて読んでみたが、差出人の名前に心当たりがない。
「……斗亜?」
一体誰なのだろう。天音のことを前から知っていて、ずっと好意を抱いていたようだが、彼女には誰のことなのか見当が付かない。
——私に何が起こったの?
天音の疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。
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