第12話 世界の矛盾
先に美術室へ向かった奏は、電気ポットに水を入れた。みんなが集まる頃には沸くだろう。
目の前にはマグカップが六つある。美術室に集まるのは五人なのに、なぜ一つ多いのだろう。
これは天音たちが初めて美術室を訪れた際にも感じていた違和感である。
誰も使わない水色のマグカップがずっと置いたままになっている。
どんなに記憶を遡ったとしても、誰が使っていたのか思い出すことができない。
停止世界で死亡した場合、現実世界に戻ってくることもできなければ、記憶も記録も消滅してしまう。だが、すべてが消え去ってしまうわけではない。ビジターの天音たちには強めに言ったが、実際はどこかで何かが残るのである。
それがこの水色のマグカップだとしたら、奏の仲間であった誰かがロストしたことになる。
悲しみも哀れみもなかった。
誰かが死んだ、ということに実感がないのである。
——誰がロストしたのだろう。
まるで映画の中の登場人物が一人死んだくらいの感覚しかない。しかも、役名のないキャラクターがいつの間にか死んでいた、という感じに近い。本当は泣き叫んだ方がいいのかもしれないが、相手が誰かも思い出せない人物に対してそこまでの感情は自然とは湧いてこない。
——仲間が死んで悲しめないなんて、人として最低。
自らを責めるとともに、なぜ中途半端に痕跡が残ってしまうのか、というところに思考が向かった。持ち主がこの世から消え去り、誰の物でもないマグカップだけが残っている。停止世界で死ぬことで、現実世界に小さな矛盾を生んでいる。
——矛盾が積み重なっていったら、どうなるの?
この世界からすれば、見えないほど小さなことなのかもしれないが、矛盾を孕んだまま存在し続けることがどんな影響を及ぼすのだろう。
「どこかで辻褄が合わなくなるかもしれない」
奏の呟きは、湯が沸く音にかき消されていく。
もし、世界の整合性が取れなくなったとしたら、この世はどうなってしまうのだろう。まさか世界が消滅してしまうのか。それとも矛盾を抱えたまま存在するのか。
天音と斗亜がやってきたとき、ちょうど湯が沸いた。
「如月くん、このマグカップ誰のか知ってる?」
「いや、知りませんね」
斗亜は一瞥しただけでそう言った。
「じゃあやっぱりロストね」
「今回はマグカップだったんですね」
この世に何が残るかは分からない。今回はたまたまマグカップだった。どんな条件で何が残るのかさえ定かではない。もっとも想いがこもった品が残されるのだろうか。だとしたら、生前のマグカップの持ち主にとって美術室は憩いの場として大きな役割を果たしていたことになる。
そんな風に大切に想ってくれていた美術室のメンバーでさえも、持ち主のことを思い出してあげられない。
奏は気持ちを落ち着かせるためにハーブティーを淹れた。
——このマグカップは私が引き取ろう。
誰の物か分からないとはいえ、
「香坂さん」
コーヒーを飲もうとしている天音に声を掛ける。
「如月くんに聞いたんだけど、能力を発現したそうね」
「はい……ちゃんと扱えてるかどうか分かりません……」
「気持ちの方は大丈夫?」
天音の返事に間が空いた。きっと戦いのことを思い出しているのだろう。
「なんとか……あまり気分のいいものじゃありませんけど」
「それが普通よ。香坂さんが正常な神経の持ち主ってことね」
「私……こんな状態で戦っていけますか?」
「うーん、そうね……私が何でも知ってるわけでもないし、予言者でもないけど……たぶん大丈夫だと思う」
「そう……ですか……」
「如月くんのときに比べたら、香坂さんはしっかりしてるから」
そこまで言って、奏は斗亜を見る。彼の目は「それ以上言うな」と強く訴えていた。
——彼女は大丈夫そうだ。
確かに今は戸惑う部分もあるだろうが、きっと乗り越えられると直感的にそう思った。斗亜と仲が良いようだから、それが心の拠り所になっているようだ。
問題は真帆である。彼女は未だ武器も能力も発現していない。武器がないと言うことは、敵と対峙したときの焦りに繋がる。能力がなければ、戦いの駆け引きで不利となる。どちらもなければ、今後の生存率は絶望的と言い切ってもいい。
停止世界で戦うための力は、自ら望まなければ手に入らない。単純に力を手にするタイミングがなかったのなら、さして問題はない。
ただし、もし本人が戦いを拒んでいたとしたら、それが一番の問題なのである。拒んだまま戦い続けても、武器も能力も手に入らない。停止世界で死ぬのを待っているようなものである。
いよいよ切り札を使わなければならないかもしれない、と奏は覚悟を決めた。切り札は言われる相手もつらいが、話を切り出す側もつらい。
しばらくすると、冬矢に連れられて真帆がやってきた。
それまでの彼女も決して率先して美術室にやってきたわけではなかったが、今日はいつも以上に嫌がっている様子が顔や行動にも表れている。
「佐倉さん、座って」
「あの……やっぱり私、帰ります」
「帰ってもいいけど、その代わり私の話を聞いて。話を聞いた後なら帰ってもいいし、そのまま留まってもいいから」
言われて、真帆は座った。奏の様子を見て、話の深刻さを察したのだろう。
「これは佐倉さんだけじゃない。香坂さんも聞いておいてほしいことなの」
彼女は真帆と天音を目を交互に見ながら話し始めた。
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