第2話 眼前の死

 天音は夢中で走り、昇降口までやってきた。

 振り返ったが、男が追ってくる気配はない。

 ここまで向かってくる途中、誰ともすれ違わなかった。授業中なのに、授業をしている気配も物音もしない。激しい戦いの音は廊下まで響いていたのだが、様子を見に出てくる人さえいない。

 やはりこの世界はどこか変だが、とりあえずまだ生きている。


「無事みたいね」

 安堵している天音の背後から声が聞こえ、勢いよく飛び退いて声の主を確認した。

 鞭を持った女子生徒であった。周囲を警戒しているのか、表情は硬い。

「とりあえず、あいつは追い払ったけど油断はしないで」

「あの……えっと……」

「私は杉浦姫華すぎうらひめか、二年よ。あなたは?」

「香坂天音……です」


 姫華と名乗った女子生徒は優しく微笑むと、すぐに険しい表情へと戻る。

 いろいろと訪ねたいことはあった。あの男のこと、この状況のことなど、分からないことだらけであった。

 だが、まずはこれを言うべきだろう。

「あの……助けていただいて、ありがとうございます」

 姫華は一瞬意外そうな顔をした。

「いえ、いいのよ。いきなりお礼を言われたのは初めてだけど」

「何か、変でした?」

「そうね、変と言えば変かな。普通は、この世界はどうなってるんですか、とか、さっき襲ってきた奴は誰なんですか、とか……そういうことを聞きそうなものだけど」

「まあ、確かにそれも聞きたいですけど、助けてもらったんですからお礼は言っておいた方がいいかと」

「やっぱり、あなた少し変わってるわね」

 一瞬間があって、姫華は続ける。

「外へ出るよ」

 そう言って、姫華は上履きのまま校舎の外へと出て行った。

「ちょ、ちょっと、靴を……!」

「そのままでいいわ。別に誰に怒られるわけでもないもの」


 得体の知れない罪悪感に抗いながら、天音もそのまま外へと飛び出し、姫華に追い付いた。

「香坂さん」姫華は振り向かずに言う。「いろいろ聞きたいことはあるでしょうけど、今は時間がないの。死にたくなければ、私の言う通りにして」

 死、という言葉を聞いて、天音は妙な胸騒ぎを覚えた。

「はい……」

「じゃあ、早速で悪いんだけど……しゃがんで!」

 大きな声を出されて、何故、と考える前に体が反応した。膝を地面に叩きつけるような勢いで姿勢を低くした。膝と掌に砂利が食い込む痛みを感じながら、何が起こっているのかと顔を少し上げる。

 天音の頭の上を姫華の鞭が風を切って掠める。


 そのとき、二つの音がした。一つは布を破くような音であったが、もう一つは天音が聞いたことのない不思議な音であった。


 ——何が起こっているの?


 音の方向へ顔を向けようとしたとき、背後で大きな音がした。

 振り返ると、見知らぬ少女がうつ伏せで倒れていた。年齢は天音よりも少し年下で中学生くらいであろうか。まだ幼さの残る体からは真っ赤な血が流れ出ている。

「香坂さん、離れて……まだ生きてる!」

 少女が胸を押さえてゆっくりと立ち上がる。よく見ると服は破れ、手の奥には鮮血が吹き出している傷が見えた。

 血塗れの少女の右手には、その体の大きさに不釣り合いなサイズのなたが握られている。


 ——私を殺そうとしてる!


 天音が動いたとき、少女も動いた。鉈を振り上げ、武器を持たない天音へ殺意をむき出しにして襲いかかる。


 ヒュンッと鞭が風を切り、少女の喉元を切り裂いた。


 同時に、天音は一度聞いたことのある音を耳にした。

 不思議な音だと思っていたのは、鞭で人体を切り裂く音だった。


 ——何なの……これは?


 少女は自らの血でできた血溜まりの中に倒れ込み、苦しそうにもがいていたが、やがて動かなくなってしまった。


「無事ね?」

「え、いや……死んでます……」

 姫華の問いに、天音は声を震わせながらそう言った。

「そうじゃなくて、あなたよ」

「私は無事です……」


 何故少女が死ななければならなかったのだろう。どんな理由があって天音を殺そうと向かってきたからだろうか。少女をそのような行動に走らせたのは一体何なのか。

 何もかもが分からない。

「……これは、どういうことなんですか?」

 少女の死体から目を離し、姫華を見た。

 説明をしようと口を開きかけた姫華の背後に、斧を持った男がいた。手に持った斧は振り上げられ、今まさに姫華に向かって襲いかかってくるとことであった。


 ——危ないっ!


 天音が声を発する前に、斧は振り下ろされた。

 驚きと苦痛が入り交じる表情を浮かべながら、姫華は倒れていく。うつ伏せで倒れた彼女は立ち上がろうとすることなく、もがいている。


 男が顔を上げ、天音を見た。


 ——次は私だ。


 明らかに天音を狙っているのが分かった。血の滴る斧を握り直している。彼にとって、武器を持っていない天音など、簡単に殺せるのだろう。いきなり動くわけでもなく、じりじりと近付いてくる。

 急に走れば、きっと男も追いかけてくるだろうし、そうなったらたぶんすぐに追い付かれてしまう。目線を男から外さず、後退あとずさる。


 ——でも、どこまで逃げれば?


 逃げなければならないが、逃げたところで助かる保証はない。戦う術もない。起死回生の策があるわけでもない。天音の行動は、数十秒間の延命に他ならない。目の前の男だって、いつ距離を詰めてきてもおかしくないのだ。


 天音の背中が、校舎の壁にぶつかった。

 男の足に力が入り、地面を踏み込んでいる。


 左右に避けるしかない、と気持ちを決めたときであった。


『動かないで!』

 頭の中に女性の声がした。

 今の天音には、その声にすがるしかなかった。


 空を切り裂く音がして、男の首に何かが刺さった。

 矢であった。どこかから飛来してきた矢が深々と刺さっている。


 ——助かった……?


 壁伝いに男と距離を取る。

 そのとき、再び激しい耳鳴りがした。同時に意識が遠のいていく。


『放課後、美術室で……!』

 先ほどの女性の声でそう言われた気がした。

 チャイムの音で気が付いた天音が周りを見回すと、ちょうど日本史の授業が終わったところであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る