停止した時の中で

松本 ゆうき

第一章 停止した世界

第1話 時間が停止した日

 眠気を堪えながら日本史の授業を受けていた香坂天音こうさかあまねは、まったく頭に入ってこない授業を聞き流し、時計を眺めながら秒針を追いかけていたが、まるで鼓膜を鋭く突き刺すような強烈な耳鳴りに似た音が突然したことに驚き、「うわ!」という声とともに勢いよく立ち上がった。


「どこ……ここ?」


 一番後ろの席にいる天音だから、その光景が異常なことが一瞬で分かった。机だけはきちんと並んでいるが教室には誰もおらず、天音だけが立ち尽くしている。先生もクラスメイトもいない。びっしりと書かれていたはずの黒板も、新品のようにきれいであった。

 見慣れた教室ではあるが、初めて見る教室のようでもあった。

 早朝か放課後の教室のように思えて、まさかいつの間にか寝てしまって、クラスのみんなが自分を置いて教室を移動しただけではないか、とも思って壁掛けの時計を見る。


 ——動いていない?


 あの耳鳴りの直前に見たままで、秒針は止まっている。

 スマホで時間を確認しようとしても、壊れてしまったのか、まったく操作できない。買い換えたばかりの機種だし、バッテリー残量だってたくさんあったはず。

「いったい、なにがどうなってるの……?」

 教室の窓から外を見るが、やはり人の姿はない。遠くに見える国道は、いつもならひっきりなしに車が通っているのだが、天音が今見た限りでは車に限らず動く物はなにもない。


 ——夢でも見ているのだろうか。


 この状況をもっとも簡単に説明する方法は、夢である。夢であれば、現実でないことだって起こり得る。

 それにしては奇妙な夢だ。思考もはっきりしているし、体の感覚もしっかりしている。待っていてもなにも起こらない。教室に閉じ込められる、という内容の夢なのだろうか。

 だが、夢と思うことで気が楽になった。夢ならなにかをする必要はない。いずれ目が覚める。あとで夢占いで調べてみよう、と考えられる余裕まで出てきた。


 少しだけ落ち着いて自分の席へ座り直そうとしたとき、教室の扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのは女子生徒であった。

「大丈夫!?」

 ただならぬ形相で近付いてきた女子生徒は、天音を見た瞬間に安堵の息を吐いた。

 天音と同じ一年では見ない生徒だから、たぶん上級生だろう。

 しかし彼女の言う「大丈夫」とは、いったい何なのだろう。扉を開けたときの表情から、ただごとではないのは理解できたが、「大丈夫」とは天音のことを気遣った言葉であろう。


 ——なにが起こっているの?


 自分の知らないところでなにかが起こっている。そんな気がした。それも、たぶん良くないことが起きている。

 女子生徒に疑問を投げかけようとした天音の言葉を遮って、女子生徒は言う。

「私と一緒に来て!」

「え、でも……」

「いいから早く……!」

 女子生徒が天音の胸ぐらを掴んできた瞬間、背後で窓ガラスが割れる音がした。何事かと振り返る余裕もなく、女子生徒に強引に引き寄せられる。


 首の真後ろに風と音を感じた。素早くなにかが動いたようだ。

 天音は踏ん張りきれず、投げ飛ばされるようにして床に転ばされたときに、ようやく後ろを見ることができた。


 男がいた。二十歳前後の男が斧を手に持っている。

 彼は窓ガラスを割って入ってきたのだろう。だとすれば、あの首に感じたあの感触は、斧がかすめたのではないか。

 そう思うと背筋が凍るようであった。女子生徒が引っ張ってくれなかったら、首を落とされていたかもしれない。


「すぐに立って」女子生徒が言う。「走れる?」

「は、はい……」

 どこから取り出したのか、女子生徒の手には鞭が握られている。

「走って!」

 鞭を振るい、女子生徒が叫ぶ。

 立ち上がりながら教室を飛び出した。

 教室の中では、女子生徒の鞭が机を持ち上げていた。宙に浮いた机は男に向かって飛んでいくが、彼は斧の一振りで真っ二つに切断する。


 ——なぜ、戦っているのだろう?


 考えても、答えは出なかった。夢なら傷付かないし、死ぬことだってないはずである。だが、天音の中のなにかが警告していた。これは普通じゃない。女子生徒の言う通りにしなければ、取り返しがつかないような気がする。

 その警告にかき立てられるように、天音は無人の廊下を走っていった。 

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