第5話 死への7日間(下)

 相談すればよかったのか。


 毎日働いている母、尊敬されている優秀な妹、学校の教員、こんなこと誰にも言えないし、言いたくもない。


 もし師匠がいてくれたなら迷わず話していたのに、ある日前触れもなく居なくなってしまった。


「もう、どうでもいいや」


 俺はそう呟くと、食べようとしていた得体の知れないねばねばとしたものを檻の外へ投げた。


 ささやかな抵抗だった。体重を減らして食べられる量を少なくしてやろうと思った。意味があるのかはわからない。無駄な行動なのかもしれない。けれど、もうどうでもよかった。


「はやく終わらないかな。もう疲れた」


 いっそのこと、族長の目の前で死んでやろうかと考えたが、刃物もなく、ご丁寧に植物の紐も回収されている。気が触れることも予想されていたのかもしれない。


 それとも自害した人でもいたのだろうか。


「どっちでもいい。結局は死ぬんだ。抗ったって仕方がない」


 次の日もなにも食べず、水も飲まずに日がな一日空を見上げて過ごした。


 雨が降っていた。朦朧としたまま、冷たい水が全身にあたるのを感じる。もはや、空腹も感じない。虚しさだけが心を埋め尽くしていた。


 檻の周囲にはクラスメイトが並んでいる。イーラに至っては、こちらを指差して笑っているように見えた。


「遂に幻覚まで見るとは。もう限界かも知れない」


 眠っているのか、起きているのかもわからないまま、太陽が昇るのを見た。


 もはや身体を起こす気力も体力もない。じっと格子状に区切られた空を、今日も飽きずに眺めている。


 雲ひとつない快晴の空の下、じりじりと焼かれている。顔の傍には、葉っぱに包まれた味のしないねばねばした食感の食べ物が置かれていた。


 腹が立つ。村に向かって投げつけようと思い、手を動かそうとしても、指先さえ動かない。肉体との接続が切れてしまったのか、意識ははっきりとしているのに、身体がまったく命令を聞かなくなった。


「やっと終わるのか、このくだらない人生が」


 雨はとうに止んでいるのに、水が頬を伝った。とめどなく流れ続け、席を切ったように嗚咽が漏れる。


 すると、砂を踏む音が聞こえた。


 どうやらこちらに向かっているのか、だんだんと近づいてくる。


 遂に、迎えが来たのかもしれない。


「大丈夫、ですか?」


 横目で見ると、捕まった時に見た女の子が檻の向こうから心配そうにこちらを眺めていた。


「なぜ、来たんだ?」


 掠れた声で話しかけた。届いていないかもしれないと危惧したけれど、どうにか聞こえていたらしい。女の子は少し考える素振りを見せた。


「わかりません」


 こんな状況で俺と接触すれば、周囲からどう思われるかなんて、すぐに理解できるはずなのに、この娘は会いに来た、いや来てしまった。


「君はほかの地の民と違って、肌が白い」


 それなら会話をせず、この子を早く帰してあげればいいのに。俺はもう限界なのかもしれない。


「君じゃない。私は、イル、です」


「イル」


「そうです。肌が白いのは生まれつきで、理由はわからない」


 イルはまだ幼さの残る顔つきをしている。けれど、鼻筋の通った綺麗な顔をしていて、歳を重ねればきっと美人になるだろう。


「ご両親の肌は白い?」


「わかりません。会ったことない」


「そうか」


 何気ないことのように話すイルの環境は、地上では珍しくないことなのかもしれない。食べものに困ることもなく、子供の頃から家族と死別することのない天空都市では、彼らからすれば天国のような場所なんだろうか。


 食べ物が足りていないのか身体は薄く、布の隙間から見えたお腹は骨に皮が張り付いているようだ。


「あなたの名前は?」


「これから死ぬ男の名前を聞いてどうする?悲しいだけだ」


 名前を言ってしまって、彼女に呼ばれて、認められてしまったら、あれだけどうでもいいと投げ出していた自分が大切なもののように思えてしまう。


「そうだとしても、名前は、大切、です」


 大切。もう価値のない名前なら教えてもいいのかもしれない。すでに帰るところもなく、地上は残虐な地の民と空腹とで満ち満ちている。それにもうすぐ終わりだ。


「俺の名前は、ルシウス、ルシウス・レクリシア」


「るしうす、れくしりあ?」


「難しいなら、ルシウスでいい」


「るしうすも肌が白い。理由は?」


「なんでだろう。そういえば、考えたことがなかったな」


「両親も肌が白い?」


「うん、そうだ」


 イルは不思議そうな顔をして自分の肌の色と見比べていた。


「イルは肌の色が白い人を見たことがない?」


「うん」


 イルは探しているのか、あちこちに目線を転じていたが、何か発見したのか困惑しているように見えた。


「ダラを食べないと」


「ダラ?」


「これ」


 葉っぱに包まれた味のしないねばねばした食べ物を持ち、隙間から手を伸ばして俺の顔に近づけた。


「嫌いなんだ。美味しくない。それに、もう生きていても殺されるだけ。無意味だ」


「ダラは、葉っぱも一緒に食べる」


 イルは付いていた砂を落とすと、そのまま口に放り込んだ。見ているだけで不味そうなのに、平気そうにして食べているのを見ると、やっぱり地の民とはわかり合えないんだと思う。


「美味しい」


 それでも、本当に美味しそうな表情をしているイル見ていると、不思議と欲しくなってきた。


「じゃあ俺も貰おうかな」


 起きあがろうと力を入れたものの、身体が動かない。イルは今日の分のダラを持つと、檻の隙間から手を伸ばして口元まで運んでくれた。


「確かに、葉っぱと一緒ならねばねばしないし、味も少し甘くなった気がする」


 葉と一緒に噛むことで、ねばねばが気にならず、どこか甘い。ただ、口に入れるものを直接砂の上に置いてしまうことには耐えられそうにない。


「ルシウスは助けようとしてくれた」


「え、あのときのこと?」


「そう。虎に襲われそうになっていたときに、石を投げてくれた」


 イルは短く切りそろえた黒色の髪を耳にかける。


「そっか、わかっていたのか」


「だから、イルも助ける」


 イルは布の下に隠していた尖った石のような物を檻に向けて振り下ろそうとした。


「おい!そこで何をしているんだ」


 檻から離れたところに男が立っていた。右手には、イルがダラと呼んでいたものを握りしめている。


「イルはなにも」


「おい、天の民、イルから離れろ」


 男は肩を怒らせ、空気しか入っていないお腹を蹴り上げた。飲まず食わずだったため、胃液が溢れた。


「イルを巻き込むな!どうせ、あんたは明日死ぬんだ。関わるな」


 そういえばこの男は、檻に入れられた最初の日に殴りかかってきた男だ。


「あ、した」


「ああ、お前は明日死ぬんだ。ちゃんと7回数えてなかったのか?」


 意識を失ったまま、何日間か過ごしてしまったらしい。それでも、日数が早まっただけで、結末は変わらない。


 それなら、俺から誘ったことにして、このイルという名の少女を助けたとしても、誰も文句を言わないだろう。


「わかった」


 男はイルを連れて村の方角へと向かった。背中が見えなくなるまで目で追いかけた。


「本当の妹にはもう会えない。それでも、似ている彼女に会えたお陰で、後悔はない」


 空は青く澄んでいて、どこまでも続いている。時折、名の知れない羽の大きな鳥が横切った。たとえ、俺が居なくなっても、この世界はずっとこのまま。すべてを許容して、変化を拒絶する。空はずっと青い。地の民と天の民は、大地と空の関係に似ているかもしれない。


 わかりあうことのない、交じり合うことのない二つの民は、お互いの存在を認めながらも、拒絶している。


 空と大地が合わさることのないように、ずっとこのままなのかもしれない。


 それでも、いいと思った。


 どうせ、明日死ぬんだ。俺が存在していたことも、天空都市の記録から抹消されているだろう。ただ、数人の記憶の片隅に生きながらえて、禁忌として蓋をされる。


 今までもそうだった。気づいていない、知らないフリをしていただけで、子供が突然消えることは度々あったことだ。それが偶々俺になっただけ。


 後悔がないと言ったら嘘になる。怖くないわけがない。それでも諦めることだけが、俺が俺でいる最後の方法だ。


 沈み行く陽を視界の端で捉えながら、ゆっくりと目を閉じた。雲の隙間から覗く月光に照らされて、たまに目を覚ましては、夢に落ちていく。


 朝日が村の方角から昇っていくのを、まるで初めて見たかのように新鮮な気持ちで眺めた。心が洗われるようだった。あまりの眩しさに勝手に涙が流れた。


 最後の1日。


 檻が開いた。


 俺が寝ていると思ったのか、イルがそっと、ダラ、を置いた。


「そうか、毎日届けてくれていたのは、イルだったのか。それを俺は、不味いと言ったり、外に投げたりしたのか」


 最後の力を振り絞り、うつ伏せになった。這いつくばるようにして、ダラを口元に持ってくると、砂を気にせずに食べた。


 ほのかに甘い。人生で1番美味しいご飯だった。

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