第72話 自由奔放

  翌朝、私が起きて日常のルーティーンに入ろうとした時、彼女はまた、ごめんなさい、と言った。何のことを謝っているのかわからなかった私に、それ、と左肩を指差した。

「見たの?」

私が目覚める前に楓は起きていて、私の左肩を見たらしかった。バスローブのまま眠っていたから、見るのは容易かったのだろう。

「痣に、なってた。ごめんなさい...。」

何と返事をすれば、楓が謝らずに済むのかを、嘘でも何でも良いから、楓が罪悪感を感じない正解の返答は何かということを、咄嗟に考えた。

「楓に噛まれるのは別に嫌じゃないから、謝らなくていいよ。」

結局、判らなくてそう返答した。

「生きてるから痣になるわけだし、楓が、私が生きてるって確認するには丁度良いんじゃない?」

茶化した様に付け加えたら、楓は困ったような拗ねたような顔で微笑んだ。


  左肩の痣が消えかかった頃、楓の幼馴染みがやってきた。たまたまその日、私は仕事でカイロを離れていたが、空港で幼馴染みと合流し、自宅に戻ったと携帯に楓からメールが入っていた。徹夜仕事を終えて翌朝自宅に戻った時、楓と幼馴染みの女性はダイニングで朝食を取っているところだった。

「ただいま...あ、いらっしゃい。」

「あ...菅原華です。お邪魔してます!」

元気な女性だった。柔らかい雰囲気の外見とのギャップに驚いたが、なるほど楓の幼馴染みらしく、ハキハキしていて芯のある女性だな、と思った。私を見ても驚かないところを見ると、事前に色々話したらしい、と察しはついた。

「レイ、朝ごはんは?」

「食べる。シャワー浴びて着替えてくるね。...華さん、ゆっくりして下さいね。」

私がダイニングから消えた後、2人は何やら楽しげに話しているようだったが、シャワーの音にかき消されてよく聞こえなかった。ダイニングに戻ると、楓がトーストとサラダを出してくれた。

「今日は?どこか行くの?」

「華が明後日からツアーに参加するらしいから、今日と明日で、カイロ市内とピラミッドを観光しようかなって。」

「カイロとピラミッドはツアーに入ってないの?」

「私が案内するからツアー申し込まなかったの。」

「2人で大丈夫?一緒に行こうか?」

「レイ、徹夜明けでしょ。」

「そうだけど。アラビア語苦手な楓が案内人とか、聞いてるだけで不安なんだよね。」

「大丈夫だって!私だって多少は話せるんだから。」

「はいはい。じゃあ、頑張って。私は寝させていただく。」

「あ、でも晩ご飯は一緒に食べようね?」

「わかった。」

「ちゃんとそれまでに起きてよ?」

「わかってるって。」

「レストラン、どこか素敵なところ連れて行って。」

「はいはい。」

私はサラダを平らげ終わり、トーストに齧りついた。私達のやりとりを華が微笑ましそうに見ているのが気になって尋ねた。

「華さん、昔から楓ってこんな感じなんですか?」

「そうですね。」

そう華が言い、楓はむくれた。

「こんな感じって何よ?」

「自由奔放。」

私がそう答えると、華は頷きながら笑った。

「でも、初めて見ました。恋人相手にこんな自由に振る舞ってる楓は。」

「え、そうなんですか。」

それを聞いて嬉しくなって楓を見たが、本人は完全に拗ねていた。

「華は余計な事言わなくて良いから!」


  夕方には一度帰ってくるね、と楓と華が出かけた後、私はベッドに倒れ込むようにして眠った。あくまでも仮眠で数時間の眠りだったが、余程熟睡したのか目覚めは悪くなかった。何の気なくテレビをつけると、ニュース速報が流れてきて、それを見た私は衝撃を受けた。この前まで過ごしていたシャルムで自爆テロが起きたというのだ。有名な高級ホテルが狙われ、死傷者が多く出ていた。

(危なくなってきているな、エジプトは...。)

私はそのニュースを見ながら、そう思った。

  当時のエジプトはまだ、ムバラク大統領によるムバラク政権で成り立っていた。高い経済成長率を維持する一方で、失業率が上がり、国民の不満は多かった。秘密警察が市民に紛れ込んでいて、ムバラク大統領や政権に対する不満を公に発言すれば投獄されるという噂も飛び交っていた。そんな政権下だということも、イスラム過激派の行動に影響を与えていたのかも知れなかった。

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