第54話 シナイ山
それから数日の間、楓の熱は上がったり下がったりを繰り返した。私が同じ部屋で一緒に眠ることを、楓は私にうつるのでは、と非常に心配していた。
「うつしてくれていいよ?」
そう言うと、うつしたくないよ、と困った様子で言われたが、楓が熱に浮かされ、彼女の綺麗な顔が苦しげに歪むのを見る度に、出来ることなら変わりたいと思った。ともあれ、私にうつることもないままに、徐々に症状は落ち付きを見せていった。
シナイ山に向けて出発する日が迫っていたが、病み上がりの楓に登山をさせるわけにも行かないので、日程を遅らせ、全快してから暫く期間を置いてシナイ半島に向けて出発した。シナイ山登山は、岩だらけの段差を登っていくので体力を使う。私は楓を登らせたくはなくて、登山を止めないかと何度も説得を試みたが、楓は一向に諾かず、結局私が折れる形になったのだった。
スエズ運河を越え、シナイ山の麓にある、山のリゾートに相応しい佇まいの『ホテル・セイントカトリーヌ・ヴィレッジ』に、ムハンマド、ムスタファ両名の車で到着した時には既に夕方になっていた。今回は私と楓の2人だけではなく、奈津と桜子も同行していて、賑やかな道中で、途中、自然が作ったという蒸気の温泉と呼ばれる洞窟に立ち寄る等の道草をしたのも影響していた。ホテルは、全ての客室が石造りのコテージだった。其々が一軒ずつ立っている家のように見え、ヴィレッジと呼ぶに相応しい造りになっていた。
私と楓の部屋はヴィレッジの奥にあるダブルの部屋で、ホテルのコテージが並ぶ風景と、その後ろに聳えるように立つシナイ山が望める部屋だった。山、といっても、日本で想像する山とは大きく異なり、岩肌が完全に露出した、赤土色の崖のような山だ。旧約聖書によれば、モーゼが神から十戒を授かったとされているねがシナイ山だ。聖書の描写のような、大平原が近くに存在しないことや、パレスチナとエジプトの間の通り道としては南過ぎるのではといった理由で、聖書のシナイ山ではないのではないか、というのが定説になりつつあるが、アラビア語でジェベル・ムーサー、つまりモーゼの山と古くから呼ばれているだけに、神聖な気分になるのは否めない。
カイロからの長旅にはなったが、翌日にはシナイ山の登山が待ち受けていたから、早めに夕食を取り、早々に眠りについた。翌日とは言え、登山への出発は深夜2時、普段なら眠りについてすぐの時間だからだ。
深夜、ホテル前に集合し登山に出発した。頂上まで行く道は2通りあり、険しい3750段の階段の道と、道のりは長いが緩やかな坂道をラクダに乗りながら7合目まで行く道がある。楓に、病み上がりだからラクダの道を選ぶようにと言ったが、階段の道で一緒に上がる、と固く決めているようで聞きいれてくれなかった。階段と簡単に言うが、舗装されたわけではない、石を積み上げただけの階段で、一段一段高さも違い、険しい道のりだ。しかも、辺りは真っ暗で何も見えず、ただ登山者達が持つ懐中電灯の明かりだけで頂上を目指す。夏場にも関わらず寒さは厳しく、頂上に近づけば近づく程に気温は下がっていく。途中休憩所が設けられてはいるが、汗をかいて登ってきた登山者にとって、いくら暖かいベドウィンの紅茶が振る舞われたとて、休んでいる間に身体が冷えてしまうのは難点であった。登っている途中で桜子とはぐれ、さらに休憩所で奈津とはぐれた。
数時間石段を登り続けて頂上に到着した。かなり息が上がっていて、頂上に着くと岩場に座り込んでしまった。楓も肩で大きく息をしていた。聖歌を歌う登山者もいて、暗闇のシナイ山頂上は厳かな空気に包まれていた。日の出を待つまでの間、暖まっていた身体は徐々に冷えていき、寒さを感じた。
「楓、大丈夫?寒い?」
「うん...寒い...日の出までの我慢だよね?」
私は、時計を見て答えた。
「日の出まであと30分くらいかな。頑張って。」
楓のすぐ横に腰を下ろし、彼女の手を取って、私の手で包み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます