第55話 綺麗

  太陽が顔を覗かせた。空の色が黒から少しずつその色を薄く、青く変えていき、それと共に、シナイ山の岩肌が色を取り戻していった。太陽に照らされ、オレンジ色に染まった岩肌が辺り一面に広がり、空の色とのコントラスト、調和が眩しい程に美しかった。寒さに震えていた楓も、その光景に息を呑んでいた。私は、壮大な風景も美しいと思ったが、その風景の中で太陽に照らされた楓が、たまらなく綺麗だと思った。

  飽きるほどに山頂からの風景を眺めてから、私達は頂上に建つギリシア正教の三位一体の礼拝堂を覗いた。見慣れた聖画の人物、つまりレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ・サンティらが描いた人物像とは異なって、顔の濃い人物像が描かれており、新鮮だった。

  山頂で過ごす間に、肌で感じる気温がもの凄いスピードで上がっていて、太陽の力を異常なまでに感じていた。私達は着ていた上着を脱ぎ、ラフなシャツ姿になり、太陽の眩しさから逃れる為にサングラスを着用し、下山の準備を始めた。明るくなって人探しがしやすくなったからか、奈津と桜子がそれぞれ私達を見つけて、合流した。合流した瞬間に、どちらもがその景色の素晴らしさと、登ってきた道のりの辛さを口にし、笑ってしまった。下山は、来た道を戻るわけだが、行きには見ることの出来なかった、美しく、そして険しい岩肌を見ながらの下山は楽しかった。あれほど苦労して登ってきたが、下山は意外と楽に感じられた。下山し終わった頃、私達の足は、ガクガクと震え始めていた。産まれたての小鹿のように震える足に、筋力足りないな、と4人で笑いあった。

  ホテルに帰り着き、ホテルのレストランでベドウィン風の朝食を取った。どことなく、それが砂漠での食事を思い出させ、誰からともなく、もう一度砂漠へ行きたいね、という話題になった。やはり、あの砂漠の景色、空気は癖になるのだ。砂漠へ行った頃、私はまだ楓の気持ちを知らず、苦しい片思いだと思っていたんだな、と思い、チラリと楓を見た。余程お腹が空いていたのか、野菜とチーズを挟んだアエーシを頬張る様子を見て、クスリと笑ってしまった。


  食後、部屋に戻り、楓の後にシャワーを浴びた。疲労感が洗い流されていくような気がした。そして、激しい眠気に襲われ、うつ伏せにベッドに倒れ込むとそのまま眠りについた。いくら前日早く眠ったとは言えど、そんな早い時間からしっかり眠れたわけもなく完全に寝不足だったし、普段眠りにつこうかという時間から激しく活動をしたのだから、眠気に襲われても当然ではあった。堕ちていく意識の中で、楓が私の名前を呼びながら右腿に触れたのと何かひんやりしたものが腿に塗られた感覚だけが感じ取れたが、私はそのまま眠りの世界に入っていった。

  正午少し前、私は背中に重みを感じて目を覚ました。寝転んだまま首を後ろに向けて振り返ると、私の背中を枕のようにして、楓が眠っていた。私はそっと身体をずらして、起こさないように彼女の下から抜け出た。彼女の手に、筋肉疲労を和らげる薬用のマッサージクリームが握られていた。眠りに落ちる前の感覚の正体がコレだったのかと気付いた。眠気に勝てずに堕ちてしまった私にこれを塗ってくれたんだな、と思うと嬉しかった。私は楓の手からクリームを取り上げてベッドサイドのテーブルに置いた。立ち上がってみると、足の震えはもう無く、微妙に腿裏に痛みを感じた。筋肉痛がやってきていた。

(その日のうちに筋肉痛が来るなんて、まだまだ若いな、私。)

そんなことを考えながら、眠る楓をそのままにして、私は部屋を出た。

 外は真夏だった。カラリとした湿度のない爽やかな夏。私はコテージの外に咲く、鮮やかなハイビスカスを見ながら、大きく伸びをし、煙草をポケットから取り出した。

「レイ、起きてたんだ?」

隣のコテージから奈津が出てきて、近づいてきた。

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