第5話 息切れ
「...ごめん。」
手に持っていたマグカップが冷たくなっていたから、随分と時間が経ったらしいことはわかった。
「大丈夫、今シャワー終わったとこだから。...あの、ごめんね?迷惑かけて。」
「いや...少しは落ち着いた?」
「...うん。」
「そっか。何か飲む?お酒もあるよ。ウイスキーだけど」
「うーん...レイに任せる」
私はキッチンに立った。
マグカップを手にリビングに戻ると、楓はバルコニーに出て、外を眺めていた。
「はい、アイリッシュミルクティー。バスローブで外にいたら、風邪引くよ。」
「うん...ありがとう。レイ、素敵なところに住んでるのね」
「そう?」
それから二人とも無言のまま、ソファに座った。ジャズの音が途切れ、CDがキュルキュルと音を立ててリピートし始めた。
「襲われたの。語学学校に行ってる子の一人に。」
突然、楓が呟くように言った。少しずつ、ポツリポツリと彼女は話し始めた。私はただ、黙って聞いていた。
同じ大学から5人の男女でエジプトに留学してきていたこと。そのうちの2人が男性だということ。全員が明日帰ること。自分は大学に編入し日本の大学には籍は残っていないが、あとの4人はアラビア語だけを学ぶ為に、語学学校に行っていたこと。寮の近くにあるレストランで全員で食事をし、帰り道がバラバラになり、男性のうちの一人と自分が同じ方向で一緒だったこと。告白されたこと。断ったら態度が急変し、人目のない場所に無理矢理連れ込まれ、襲われたこと。
「そっか。...怖かったね。」
ありきたりな言葉だと、我ながら思った。こんな時、なんて返事をすれば良いのか、どんな声をかければ良いのかなんて、わかるはずも無かった。
「必死で抵抗して...最後まではされなかった。必死で逃げた。でも、怖くて、堪らなくて。レイに電話したの。」
聞くことは出来なかった。寮に戻ってから電話をかけるまでの数時間のことは、何も。ただ部屋で泣き、蹲っていたように思えたから。そして、最後まではされなかった、という言葉に、目眩がするほど安堵した。
それから、何を彼女が話したのか、私が話したのかは、覚えていない。何度か、アイリッシュミルクティーを作り直したのは覚えている。気づいた時には、外が明るくなっていた。バルコニーから部屋の中に朝日が差し込んで来ていた。
「もう、休んだ方が良いよ。」
私は立ち上がり、空になったマグカップを彼女の手から取り上げ、寝室へ行くよう促した。彼女は頷いて立ち上がった。
彼女が寝室に消えた後、音楽のボリュームを下げ、リビングの電気を消し、バルコニーに出た。そういえば、シャワー浴びてないな、とか、寝ないで一日いけるかな、とか、朝ごはんは彼女はパン派かお米派か、とか、そんなことを考えながら、バルコニーの欄干にもたれながら、煙草に火をつけた。バルコニーからは隣にあるエチオピア大使館の庭が見え、その景色を眺めながら煙草の煙を燻らすのが、朝の恒例行事だった。庭にある噴水の音が大きく聞こえるような気がした。
何故、楓は電話したことも無かった私を頼ったのだろう。私が留学生の手助けを普段からしているから?それとも、私がいつも深夜まで遊んでいることを知っていたから?それとも語学学校以外での日本人の知り合いが私だけだから?
心のどこかで、息切れをしているような感覚があった。私がセクシュアルマイノリティーであることを話していないから、彼女は私を頼ってきたのだ。何の危険もない、女友達だから。期待、は出来ないとわかっているのに、期待しそうになる自分を戒めた。辛い出来事に遭遇してしまったばかりの彼女に、何を期待するのだ、不謹慎ではないか、と。そもそも、女同士で期待とか、何を馬鹿なことを。また、日本にいたあの頃の、逃げ出したあの白い目で見られるような環境に戻るつもりなのか。
でも、「特別」になりたい-
ため息をついて、煙草をもみ消した。
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