第6話 性別
シャワーを浴びてスッキリした私は、楓が目覚めるまでの間、ダイニングのテーブルで論文を書いていた。急ぐ論文ではなかったが、起きているには、また不謹慎な雑念を払うには、論文を書くのが一番だと思ったから。広いテーブルに、所狭しとばかりに資料や書籍を積み上げ、開いていた。かけていたCDも既に消していたから、部屋にはノートパソコンを叩く音と資料を捲る音、それに時計の音だけが響いていた。
「ごはん、私作っても良い?」
楓の声で集中が途切れた。時計を見ると、朝10時を少し過ぎていた。
「え、あ、良いけど。」
少なからず動揺しながら答えた。
「眠れた?」
「うん、寝れた。ありがとう。レイは寝なかったんだね。」
そう言った彼女の目の下には、薄く隈があり、眠れなかったことは一目瞭然だったが、あえて触れないことにした。
楓が手際よく食事を作っているのを、淹れなおした珈琲を飲みながら後ろで眺めていた。そんな私の視線に気付いた楓は、
「何よ。私が料理するの意外だった?」
と笑った。
「いや、何か、幸せだな、と。」
思わず口をついて出た言葉に、しまった、と珈琲を飲んで誤魔化した。
「なにそれ!」
コロコロと笑い、何も気にしていない彼女の様子に、ホッと胸を撫で下ろした。少し、昨夜よりは元気なのかな、とも思った。
食事の後、私は午後に出かけなければならないことを彼女に伝えた。教授に用事があり、大学に行かなくてはいけなかった。今の彼女を一人にするのは忍びなかったが、仕方がなかった。そして、何日でもこの家にいていい、とも伝えた。ただ、この家は度々、男女問わず日本人留学生達の溜まり場になるから、もしそれが嫌なら、寮の方が良いかも、と。彼女は迷っているようだった。
「他の人には今はまだ会いたくない...」
彼女は小さく言った。
他の人に合わないことを選ぶなら、寮には帰らないだろうと思ったが、反面、他の日本人に会いたくない、と思うなら寮に帰ってしまっただろう、と思った。用事を終えた私は、早く走れとタクシー運転手を急かし、家の前までタクシーを乗り付け、彼女がまだ家にいることを願いながら玄関扉を開けた。電気が点いていて、玄関には彼女のブーツがあった。
「早かったね」
楓が顔を覗かせた。その場にへたり込みそうになったが、平静を装った。
「ただいま」
「お腹空いてる?材料あったから、肉じゃが作ったの。」
「奥さんかよ!」
そんな冗談とも願望とも付かない、他愛もない会話が幸せだと思った。
その夜、二人で映画を見た。ナイルテレビというエジプトの放送局で、たまたまやっていた映画。二本立てで、一つ目はバンパイアホラー。二つ目は、イスラム教の国だけあって、ラブシーンは全てカットされていたが、有名なハリウッドの恋愛映画だった。普段、アクションやホラーしか見ない私にとっては、微妙に居心地が悪かったが、楓は恋愛映画が好きらしかった。バンパイアホラーは余程ダメだったのか、毛布に包まって見ていたが。
その映画鑑賞がきっかけになった。その時、私は完全に「レイ君」になっていたのだと思う。恋愛映画を真剣に見ている楓の髪に触れてみた。彼女はチラリと私を見て、頭を預けてきた。その意外な反応に驚いたが、悪戯をする調子で、ソファの奥行きが深いのを良いことに、私は彼女の後ろに座り直し、後ろから彼女を抱きしめてみた。
「ちょっと、何やってんのよ」
女同士のちょっとしたお遊び、の感覚だったのだろう、笑いながらそう言って、彼女は私にもたれてきた。映画が終わるまで、ずっとそうしていた。
映画がエンドロールになった時、
「いつまでやってるのよ」
彼女は笑いながら振り向いて言った。
「駄目?」
そう言った私の目を見て、彼女は息を飲んだ。言葉の意味を正確に理解したらしかった。
「レイ、何言ってるのよ。女同士だよ?」
彼女の声は先程までの笑いを含んだ声ではなくなっていた。
これでもう、彼女とは友達としてもいられない。怖い思いをしたばかりの彼女に、今また怖い思いをさせているのだから。女同士なのに気持ち悪い、またそう言われると覚悟した。高校時代に言われてトラウマになった記憶が脳裏を過ぎった。それでも、口をついて言葉が出てしまった。
「性別とか、どうでも良くない?」
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