第4話 招き
大粒の涙が溢れて彼女のコートに落ちた。驚いた私を部屋に招き入れると、彼女は私に抱きついてきた。
「何があったの?どうしたの?」
何を聞いても、泣きじゃくるばかりだった。狭い部屋のベッドに彼女を座らせ、泣き止むのを静かに待った。
「明日から休みだから、語学学校に行っている友達と晩ご飯食べるの!」
そんな風に昼間楽しげに話していたというのに、一体何があったのか。椅子に座って彼女が泣き止むのを待つ間、彼女を観察していた。いつも綺麗にとかれている彼女の長い髪に、小さな枯れた葉がいくつもついているのを見つけた。お気に入りだと言っていた彼女のモスグリーンのコートの裾に、乾いた泥が付いていた。そのまま目を落とし、彼女のストッキングに小さな破れと血の跡を発見した瞬間、胸を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
(まさか...)
「ごめん。」
そう言って、すこし落ちつきつつある彼女のコートの襟に手をかけ、コートを脱がせた。服のボタンが取れて下着が見え、肩口に汚れた跡があった。
「やっぱり...。誰にされた...の。」
怒りなのか、ショックでなのかわからなかったが、声が震えた。質問にもなっていなかったかもしれない。悔しさが込み上げてきて、彼女の腕を強く掴んでいた。彼女はじっと俯いて何も反応しなかった。
「わかった。いいよ、答えなくて。とりあえず着替えようか。あ、でも、シャワー浴びたいよね...」
ここは大学の寮。シャワールームは廊下の向こうだし、深夜とは言いながらもそこまでの廊下には他の学生もまだ沢山起きてウロウロしている。既に休みに入っている学生も多く、みんな夜更かしだ。シャワールームまでコートを着たまま行くのは目立って仕方ない。
「うち、来る?」
彼女はコクリ、と頷いた。私は彼女のクローゼットを開けて、必要最低限な物だけを纏めた。流石に下着類を触るのは気が引けたが、そうも言っていられなかった。彼女にまたコートを着せて部屋を出た。
玄関でアハメドに大学のハイヤーを頼んだ。ボロボロのタクシーに今の楓を乗せるのは嫌だった。なんとなく様子を察したのか、アハメドは質問することも、詮索してくることもなかったが、ハイヤーが来て彼女を乗せた私に、何かあれば連絡しろ、と携帯番号を渡してくれた。私はハイヤーを待つ間に慌てて代筆した楓の外泊届けをアハメドに渡した。
「ありがとう。また今度ゆっくり。」
寮を出た。
当時、私はモハンデシーンというエリアと、ドッキというエリアの中間に住んでいた。大使館などが立ち並ぶ閑静なエリアだが、下町の雰囲気もあり、昼間にはスイカやトマトを一杯に積んだ手押し車が行き交うような場所だ。
エジプトには、日本のようなワンルームマンションはほぼ無い。だから、私も3LDKの部屋に一人で暮らしていた。家賃は家具も電化製品も付き、光熱費込みで、日本円にして約5万。日本では考えられない格安だった。メイドも週に一度、掃除や家事をしに来ていて、贅沢な暮らしだった。
楓は私の家に来たことは無かった。留学生達が勉強会だ、座談会だと度々訪れていて週末には賑うような家だったから、呼んでも良かったのだが、なんとなく彼女は特別な感じがして、家の場所すら伝えていなかった。
マンションの前に付き、いつ壊れるともわからない、2、3人が限界というような、小さなエレベーターに乗った。手動で扉を閉めるアンティークだ。ワンフロアに一部屋だけの、エジプトでいうところの高級マンションだから、最初はこのエレベーターが衝撃だった。
使っていない部屋に彼女を案内した。バス、トイレが部屋についている、白を基調とした明るい部屋だ。
「とりあえず、シャワー使って。落ち着いてから話そう?」
バスタオルとバスローブを手渡して、部屋を出た。ドアを閉めた瞬間、そこにへたり込んでしまった。彼女の心の傷を思う辛さなのか、何があったのか詳しく判らない怖さなのか、焦燥感から解放された安堵なのか、彼女に頼ってもらえた嬉しさなのか。どれくらいの時間、へたり込んでいたのか解らないが、部屋の中からシャワーの音がして我に返った。
(とりあえず、落ち着こう。)
ミルクティーを淹れ、CDデッキの再生ボタンを押して、リビングのソファに身体を沈めた。間接照明だけの薄明るい部屋に、ピアノジャズの音色だけが響いて、私はゆっくり目を閉じた。なんだか、異様に疲れていた。
暫く経っただろうか。すぐ近くに人の気配を感じて、私は目を開けた。目の前に、楓が立っていた。いつもの満面の笑みではなかったが、微笑を浮かべたような優しい顔だった。
「...レイ、寝てた?」
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