第3話 助けて

「もしもし?」

「レイ、助けて。」

掠れた小さな、震えるような声だった。何かが楓に起こったのは確かだった。

「どうしたの?」

彼女は答えなかった。電話の向こうで泣いている気配がした。行かなきゃ、焦りを覚えた。

「寮にいるの?」

「...うん」

「部屋にいて。すぐ行く。」

電話を切ると、談笑していた仲間が何事かと尋ねてきた。きっと私の顔が引きつっていたのだろう。

「わからない。行かなきゃ。」

適当に財布から札を掴んで友人に押し付けると、鞄を掴んで駆け出した。

「お釣り明日渡すからな!」

シーシャ屋から友人の叫ぶ声が聞こえ、後ろ手に手を上げてタクシーに乗り込んだ。


  初めて聞く弱々しい声だった。明るく溌剌としたいつもの彼女ではなかった。電話をしたことがなかった自分に、深夜に電話してくるなんて、余程のことだと思った。普通の人なら眠りについていてもおかしくない時間なのだから。


 エジプトのタクシーは日本では想像できないようなボロボロさだ。座席のシートが剥がれ、クッションも座り心地が異常に悪い。中のスプリングが壊れているのだろう、ゴツゴツとした感覚さえある。その上、運転が荒いからたまらない。閉まりの悪いドアの取手に頼るしかない不安さだ。エアコンも聞かず、窓は全開。そもそも窓ガラスが無い、閉まらないなんて当たり前。初めてタクシーに乗った時には衝撃的だったが、それすらも、この国で暮らすうちに慣れきっていた。

 エジプトも冬は寒い。夏の灼熱を味わった身体には更に堪える寒さだ。11月はもう、冬の入り口だ。全開になった窓から入ってくる叩きつけるような冷たい風が、更に顔を硬らせた。それが更に不安を煽った。


  寮に着くと、よく知った顔の警備員が立っていた。私が単身この国についた日に、寮で出迎えてくれた警備員だった。寮にいる間、アラビア語を練習する相手でもあった。私の顔を見て、驚いて声をかけてきた。

「久しぶりじゃないか、ミス・アズマ」

「久しぶりだね、アハメド。ごめん、ゆっくり話したいけど、時間が無いんだ。楓...カエデ・シノノメの部屋を教えてくれない?」

「ちょっと待てよ...9時くらいだったかな、彼女青い顔して帰ってきたよ。何があった?」

そう言いながら名簿のようなものを探しているようだった。

「わからない。だから来たの。」

そう言いながら、入館手続きをし、ゲストタグを首にかけた。

(9時に青い顔で?深夜までの数時間、彼女は一体...?)

「...あったぞ、504だ。」

「え、504?わかった、ありがとう」

「勝手知ったる504号室か?」

「そうだね」

かつて私が住んでいた部屋だ。二人部屋が多い寮の中で、数少ない一人部屋。狭いが、ベランダがあり快適ではあった。走り出した私の背中にアハメドの声がかかる。

「廊下は走らない!」

ふっと和んだ。

(小学生か)

と自分で自分が可笑しくなる。

(何を慌てているの。落ち着け。)

自分に言い聞かせ、深呼吸をした。


  深呼吸をした私の鼻に、懐かしい寮の匂いがした。多国籍の学生達が集い、暮らす場所だけあって独特な匂いがある。特に夜は、色々な国の食事の匂いとシャンプーなどの匂いが漂う。ここで暮らしていた当初、この匂いがすると、やっと1日が終わった、と安堵した気がしたものだった。

  慣れない地で、頼れる人もおらず、気を張り詰めて生きていた頃。当時は、自分がその後一人暮らしをして、自由奔放にカイロという町で生き、駆け込み寺宜しく留学生の手助けをするようになるなんて、思ってもいなかった。誰かを想い、慌てふためいて寮に来る日なんて、想像もしていなかった。そう思うと、自分が成長したことを感じると同時に、滑稽だと思った。


  504号室。変わらない茶色い木の扉と、アラビア語の番号が書かれたプラスチックプレート。ノックをすると、中で動く気配があった。

「楓?レイだけど。」

鍵が外れる音がした。静かにドアが開く。帰ってきてから数時間、電話からも30分以上経っているのに、ドアの向こうにいた彼女はまだコートを着て、まるで今帰ってきたかのようだった。

  そして、あの日私を射抜いた大きな目に、大粒の涙があった。

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