第2話 序章

  夏休みが終わり、大学が再開した。最終論文の前にエジプト全土の遺跡を回りたいという希望を叶える為、休学期間を取るつもりでいた。それまでノンビリと単位を取っていたこともあり、一期で取る授業の数は自然と膨大になり、忙しい日々を送ることになった。休学は1年の予定だったが、念の為に2年休学しても余裕で卒業できるくらいにしておきたかったからだ。周りの友人達からは、無謀な挑戦だと言われたが、やるだけやってみようと思っていた。


  そんな中でとった授業に、心理学があった。その最初の授業の日、私は早めに講義室に入り、終わったばかりの授業の課題をこなしていた。カタン、とドアが開く音がして顔を上げた私は、あの祭りの日に見かけたアジア人女性が同じ室内に入ってくるのを見て、おもわず、「あっ!」と声を上げた。彼女は驚いて私を見て、声を上げた。

「ああ..!」

彼女が私の横を指差し、首を傾げるので、どうぞ、という意味を込め、置いていた荷物を退けた。彼女は、荷物をその机に置くと、私の顔をまじまじと見つめ、少し躊躇いながら、

「日本の人?」

と話しかけてきて、私は非常に面食らった。

  鼻筋の通った顔だち。くっきりと意志の強そうな目と、キュッと引いた淡い色の口紅。小麦色よりも少しばかり濃い健康そうな肌の色。長い手足と女性ならではの体型。長い髪を無造作に纏め上げている。紛れもなく、容姿端麗。美人だった。


  日本語が彼女の口から出てきたからなのか、顔があまりに近くに来たからなのかわからなかったが、とりあえず頷く事しかできなかった。そんな私の動揺に気が付かなかったのか、彼女は勢いよく喋り始めた。

  この秋日本から編入してきたこと、祭りで会ったのを覚えていること、祭りの日がエジプトに来て3日目だったこと、祭りの日に一緒だった人は語学学校に通っている友人の一人で日本で同じ大学だったこと、私をアジアとアメリカのハーフか何かだと思っていたこと、この大学に日本人がいると聞いて探していたこと、初めての授業が不安だったこと。そんなことを一気に話して、やっと一息ついたようだった。私は呆気にとられていたが、彼女が息を吐き、ミネラルウォーターをゴクゴクと飲むのを見て我に返り、思わず笑ってしまった。

「私はレイ。あなたは?」

「楓。日本っぽいでしょ。」

「楓。貴女が日本人だとは思わなかった。てっきりシンガポールかどこかかな、って思ってたよ」

「お互い日本人じゃないかもって思ってたなんて、運命的ね!とにかく、レイに会えて嬉しい。」

彼女は楽しそうに笑った。

  その瞬間、なんだか頭を殴られた気がした。ギュッと胸が締め付けられるような気分になった。

(一目惚れ、だ)

自覚した。忘れていた自分の性別が蘇った瞬間だった。

(今、どっちの性別?)

自分に聞いた。わからなかった。どっちでもない私が彼女を気に入ったのかもしれないし、または、女として彼女に惹かれ、男として彼女に惚れたのかもしれなかった。


  その日から、同じ講義がない日も、私と楓はほぼ毎日顔を合わせた。キャンパスに置かれた屋外のソファスペースで会うようになった。他愛もない話をすることもあれば、彼女の勉強に付き合うこともあったし、ランチを一緒に取ることもあった。連絡先の交換はしたものの、電話をすることもメールをすることも無かったし、何の約束もしなかった。

  彼女が私を必要としてくれているのはわかった。友人として、またこの国に暮らす、同じ大学の先輩として。私はそれで良いと思っていた。一目惚れしたなんて、口が裂けても言えないことだったから。

  プライベートの深いところには、お互いに一切触れなかった。それで良い、と思っていた。彼女を深く知れば、自分のことも話さなければならなくなるだろう。それは避けたかった。彼女が、シノノメという変わった苗字であること。大阪の出身であること。私より2歳年下であること。将来はキャビンアテンダントになりたいこと。それだけ知っていれば十分だった。


  そんな平和な日々が3か月ほど過ぎた11月末の深夜、いつもの通り、友人達と路上シーシャで談笑していた時、携帯が鳴った。

  楓からの着信だった。

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