第2話――幼馴染みの嫉妬
なにやらいい匂いがする。それも食欲をかき立てる食べ物の匂いだ。
僕は居間のソファーの上でボンヤリと「この匂いは味噌汁だな」などと考えていた。はて、なんで僕はソファーなんかで寝てたんだっけ……。薄く目を開ける。その時、シャッというカーテンを開く音と共に、朝の眩しい光が僕の視界を一瞬真っ白にした。
「おはようございます! すごくいい天気ですよ! それと、朝ご飯、出来てますよっ!」
にゅっと首を出したのは昨夜僕の部屋に現れた少女、雨音だ。白のワンピースの上に、普段母さんが使ってるちょっと野暮ったいエプロンを着けて、手にはお玉を持っている。
「さ、起きて下さい。朝食はしっかり食べないとダメですよっ!」
「う、うん……」
ダイニングのテーブルの上には、だし巻き卵にほうれん草のおひたし、豆腐とネギの味噌汁、納豆と正しい日本の朝食が用意されていた。
「冷蔵庫の中身、勝手に使わせていただきましたっ! 大したものは作れませんでしたけど、お口に合えばいいんですが……」
僕は黙って席に着く。茶碗に盛られた炊きたてのご飯の香りが鼻をくすぐる。
「さ、召し上がれ」
「い、いただきます」
僕はまずネギと豆腐の味噌汁から口をつけた。うん。丁寧に出汁を取ってあって、美味しい。続いてだし巻き卵。綺麗に巻かれてほどよく焦げ目がついた卵焼きは、見ているだけで口の中に唾が沸いてくる。
「……いかがでしょうか……」
雨音の瞳に不安げな色が滲む。僕は無言でガツガツと食べ続けた。
どんな言葉より、一番「美味しい」ことをアピールするには、何も言わず美味そうに食べることが一番だと思ったからだ。
僕の食べっぷりを見て、雨音の不安そうな表情はだんだんと薄らいでいき、ご飯のおかわりをするころには、すっかり笑顔になっていた。
「ふう……ごちそうさま。雨音は料理上手いんだね」
「そ、そんなことないですっ。このくらい女の子なら普通ですよっ」
いや、僕はその言葉が嘘だと言うことを嫌と言うほど知っている。
女の子なら料理が出来るのが当たり前?
とんでもない。世の中には立派な食材を見るも無惨な物体にメタモルフォーゼさせる女がいるのだ。
そしてその女は僕の家のすぐ隣に住んでいる。
ピンポーン♪
玄関のチャイムが軽快な音色をたてて来客を知らせる。僕は何故か身の危険を感じた。理屈ではない、生物としての本能が揺さぶられるような恐怖だ。
「あれ? こんな朝早くにお客様ですか?」
雨音はエプロン姿のまま、パタパタと玄関の方へ向かって小走りに駆け出す。
僕は足の裏が摩擦で焦げるほどのダッシュを見せて雨音の進路を遮った。
「あああ、雨音さん? ででで出なくていいからね? ちょっと部屋の奥の方へ隠れていて下さると非っ常~に助かるのですが、お願い出来ませんでしょうか」
「おはようみーくん、昨夜はなんかすごい落雷だったみたいだけど大丈夫だった?……ところで、その可愛らしいお嬢さんは一体どなたかしら?」
敵は合い鍵を使って室内に侵入してきていた! しかもばっちり雨音のエプロン姿を目撃されている! これは非常に危険な状況だ。
「説明、してくれるわよね?」
侵入してきた敵であり、食材を食べ物以外に加工するプロフェッショナルであるひなたは、その名の通りの日だまりのような笑顔で、僕に状況の説明を求めてきた。
居間のテーブルを囲んで、僕とひなたと雨音が顔をつきあわせている。
雨音は自分の正体をあっさりとひなたに明かし、自分が僕の願い事を叶えるためにここにいることも簡単に白状していた。
ひなたはショートカットの前髪を弄りながら、うさんくさそうな目を雨音に向ける。
「ということは、あなたは雨の精霊で、みーくんの願い事を叶えるために空から降ってきたのね?」
「はいっ! その通りです!」
ひなたは笑顔で言い放った。
「ふざけるな、このデンパ女!」
そうなのだ。ひなたという女は超が付く現実主義者で、オカルトとか超常現象の類は一切信用しない。自分の目で見ない限り信じないどころの話ではなく、自分の目で見ても信じないのではないかと思わせるほど、その手の話を徹底して拒絶する。
「あんたね。みーくんがいくら人がいいからって、十代の男の子の家に転がり込むなんて自殺行為よ? 何をされても文句はいえないんだから!」
「何をされてもってなにさ! ひなたは僕のことをどういう人間だと思ってるんだ!」
「えーと、もし最後の願い事が『それ』でしたら、わたしには断ることが出来ないんですけど……」
雨音が顔を赤くしてもじもじしながら、話をややこしくしてくれる。
「絶対ダメよ! もっと自分を大切になさい! それに、みーくんの面倒は昔から私がみることになってるの。みーくんのご両親からも任されてるんだから、あなたの出る幕はないわ!」
お隣さんにして物心ついた頃からの幼馴染みであるところのひなたは、半年ほど誕生日が僕より早い。たかが半年なのに、完全にお姉さん気取りで僕の世話を焼きたがる。
(ろくに家事もできないくせに)
……当然食事も作りたがるのだが、僕はありとあらゆる手口を使ってその罠を回避し続けていた。
それにしても、いい加減『みーくん』という呼び方はやめてほしいものだ。僕は猫じゃないんだから。
「それはこまりますっ! わたしは彼の願い事を叶える義務があるんです! これは私の存在意義に関わる問題です!」
「どうあっても、引く気はないってことね?」
「はいっ! 他のことで譲歩したとしても、これに関しては譲れません!」
それまで鋭い視線で雨音を睨め付けていたひなただったが、雨音のその言葉を聞くと、ふっと表情を緩めた。
「分かったわ。精霊云々は信用しないけれど、あなたがみーくんの願いを叶えたいと本気で思ってることは分かった。でもね」
すっと息を吸い込んで、ひなたは腹の底から響く声で言った。
「みーくんと私の間に割り込めるとおもったら大間違いよ。十年以上も一緒にいるんだから! あんたが逆立ちしてもかなわないほどの強い絆が、私とみーくんの間にはあるんだからねっ!」
ひなたは不適な笑顔を浮かべて雨音の方を見やった。雨音も正面からその視線を受け止める。二人の視線が絡み合う。僕には理解出来ない女の戦いが繰り広げられていた。
「えーと、ひなた、雨音がここにいること自体は認めてくれる気になった……のかな?」
「ええ。みーくんの願い事でもなんでも叶えればいいわ。ただし……みーくんが不埒な願い事をしたら……」
「ないない! そんなこと絶対にないから!」
***
ようやくひなたが帰ったのは、それから1時間ほど経ってからだった。ひなたは帰り際に思い出したように本来の用件を僕に告げた。曰く、天気がいいからどこかに出かけよう、と。
「今から帰って支度してくるから。みーくんもすぐ出られるように準備しといてね」
まったく、押しの強いひなたであった。まあ、言い出したら一直線なのがひなただから、いつもの通りなんだけど。
僕はひなたを玄関まで見送ったあと、台所で食器の後片付けをしている雨音を誘うことにした。雨音一人だけをのけ者にするのは、やはり気が引ける。
「ねえ、雨音さえよければ、雨音もいっしょにどこかに遊びに行かない? 天気もいいし、森林公園なんか気持ちいいと思うんだ」
「そうですね……でも、私、雨の精霊ですから、ちょっとしたことで雨を降らせちゃいますよ?」
「例えばどんなことで?」
「悲しい事があったときとか……」
「それなら大丈夫だよ。悲しい思いをさせることなんて無いから」
雨音は僅かな迷いの色をその瞳に滲ませていたが、やがて、意を決したように僕の目を正面から見据えて答えた。
「分かりましたっ! これってその、デートなんでしょうかっ!」
耳まで真っ赤になっている雨音は、それでも僕の目から視線を逸らさずに、まるで睨み付けるようにして僕の顔を見つめる。両の手を胸の前で握りしめ、必死の形相だ。胸はがっかりするほど平坦だけど。
「まあ、広義のデートには入るかもしれないな。ひなたも一緒だから、デートと言えるかどうかは微妙だけど。善は急げだ。森林公園はここから歩いて三〇分くらいの所にある。今が八時半だから、ゆっくり行っても九時には着けるな」
「だったら一時間ほど待って下さい! わたし、お弁当つくりますっ!」
「それは構わないけど、でも面倒じゃない?」
雨音は満面の笑顔を浮かべ、こう言い切った。
「誰かに料理を食べてもらうの、嬉しいですからっ!」
「そう? それじゃ、ひなたには僕から電話しておくね」
僕は自室に戻って、机の上に置いてあった携帯電話を手に取る。
短縮ダイヤルの一番最初に登録してあるひなたの番号を呼び出し、発信。数回の呼び出し音のあと、ひなたの声が携帯のスピーカーから聞こえてきた。
「ひなたか? 雨音が弁当を作ってくれるっていうから、出発を少し遅らせたいんだけど……」
『お弁当!? そんな餌でみーくんを釣ろうっていうのね、あのアマ! いいわ、私もお弁当作る!』
僕はとんでもない間違いを犯してしまったことに気づかされた。
ひなたの性格を考えれば、「雨音が弁当を作る」と聞いて黙っているわけがないのだ。
「いいい、いや、ひなたさん? 雨音が人数分弁当を用意してるから、あまり多くても食べきれないよ? だから……」
『作る!』
「……はい」
僕はマリアナ海溝のチャレンジャー海淵より深く後悔しつつ、電話を切った。あまりに深い後悔のため、僕の寿命は水圧でどんどん縮んでいきそうだ。
ひなたの弁当を食べたら、確実に、かつ速やかに寿命は縮むことだろう。
……父さん、母さん。僕は今日死ぬことになるかも知れません。
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