雨の足音

東 尭良

第1話――落ちてきた少女

 僕は雨の日が好きだ。

そりゃ、洪水になるほどの大雨は困るんだけど、静かな夜の街に響く雨音を聞くのは心地いい。まるで天から落ちてくる滴が、地面や屋根を叩いて音楽を奏でているような、そんな気分になる。

 今夜はちょうど僕好みの雨の夜だった。

 雨粒が屋根を叩く音をBGMに、僕は数学の問題集を解いている。

 気分がいいと、問題を解く手も速くなるから不思議だ。

 ほら、普段なら五分はかかるような問題が、たったの三分で解けてしまった。

「毎日が雨だったら、僕の成績はうなぎ登りだな」

 誰に言うともなく、僕は一人つぶやいた。満足感と共に天井を仰ぎ、蛍光灯の光にに惹かれた小さな蛾がぱたぱたと羽ばたくのをボンヤリと見ていた。


 次の瞬間、家全体が揺れる程の大音響と共に、部屋の灯りが消えた。


 文明の力で煌々と照らされていた室内は、一瞬にして深い闇に包まれる。

「な、なんだっ!? 落雷かっ!?」

 落雷にしてはその前に窓の外が明るくならなかったな、などと思いながら、真っ暗な部屋の中でじっと停電が復旧するのを待つ。

 その時、僕の頬にぽつりと冷たい滴が当たった。

「あれ? 雨漏り……にしてはえらく量が多いな」

 天井を見上げると、濃い闇の中に少し明るい闇があって、どうやら天井に大穴が空いているのが見て取れた。どうやら、さっきの落雷はうちを直撃したらしい。

「参ったなぁ……父さんも母さんも旅行で居ないってのに……。物置にブルーシートか何かあったっけ」

 唐突に部屋の蛍光灯が点灯した。闇に慣れきった僕の目に白い光が突き刺さる。僕は思わず目を閉じたが、その前に一瞬見えた『それ』に気づいてしまった。


 『それ』は人の形をしていた。


 ……ちょっと待て。人だって? 

 僕は恐る恐る目を開ける。

 部屋の真ん中で、僕と同い年くらいの女の子が目を回してぶっ倒れていた。当然、僕の知らない顔だ。

「……これはあれだ、きっと夢だな。早く夢から覚めないと……」

 僕は部屋の隅に置いてあった極厚の月刊マンガ雑誌を手に取ると、その角で少女の後頭部を思いきりぶん殴った。

「いった――っ! はっ、ここはどこですかっ! なんか後ろ頭がズキズキしますっ!」

「それはうちの天井をぶち破ったときの痛みだろうね。目は醒めたかい?」

「はいっ! もうばっちり。で、何でわたしはこんな小汚い部屋に居るんでしょうか?」

「小汚くなったのは君のせいだろ! 人んちの屋根ぶち破って登場なんて、マンガやアニメじゃあるまいし!」

 僕はその少女の失敬さ加減に、もう一度後頭部を強打してやろうかという思いに囚われそうになったが、ぐっと我慢してまだ後頭部をさすっている少女をじっくりと観察した。

 座り込んでいるのでよく分からないが、背は僕より頭一つくらい低いだろうか。

 ストレートの黒髪は艶やかで、腰のあたりまで伸びているが、雨に濡れた上に天上を破壊したときについたのだろう細かい木くずやらなんやらで悲惨な状態だ。

 すらりとしていながらふっくらと柔らかみのある手脚や腰のラインはまさに神の造形。

 胸は悲惨なほどぺったんこだけど、その上についている小ぶりな頭には、これまた精緻の限りを尽くしたような目鼻がバランスも絶妙に配置されている。

 服は白い上品な感じのワンピース。

 高原の別荘地で日傘でも差して散歩していたらさぞ似合うだろう。ずぶ濡れで、その上木くずまみれだけど。

 要するに、一言で言えば目の前にいる少女は、僕の美的感覚からするとかなりの美少女だった。

「あううぅ……そうは言われましても……はっ! 思い出しましたっ!」

 少女は頭からぱらぱらと木片を落としながらすっくと立ち上がった。

 立ち上がると、少女の頭のてっぺんがちょうど僕のあごのあたりに来る。綺麗な形のつむじが僕の目の前にあった。

「わたし、雨の精霊なんですっ! この世にあって雨をこよなく愛する人の願いを叶えるため、こうして時々地上に降りてくるんですっ! 天文学的な確立でしか有り得ないことなんです! あなたはその幸運に感謝しなければいけませんよっ!」

 無残なほど平べったい胸をそっくり返して、少女はなにやら電波なことを言い出した。

 もしかして頭を強く殴りすぎたのだろうか?

 僕が少しばかり心配になってきたところで、少女はぶんっと音がしそうな勢いで僕の方を振り向いた。

「願い事を叶えるには、いくつかの条件があります! 叶えられる願いは三つです! あ、願い事を無限に増やす……っていうのは無しですよ。それ以外で三つだけ、あなたの願いを叶えてあげます!」

 目の前の少女は自信満々の表情で、腰に手を当てて仁王立ちしている。

 ……こういう場合、病院に連絡すべきなのか? 救急車を呼ぶべきか? それとも警察だろうか。僕はしばし考えた後、これ以上ないであろう願い事を彼女に伝えることにした。

「願い事は何でもいいんだよね? んじゃ、とりあえず君がぶち抜いた屋根と天井の修理を頼みたいんだけど」

 彼女が落ちてきた時に開けた大穴から雨が降り込んで、部屋が悲惨な状態になりつつある。これをまず何とかしてもらわねばなるまい。

「おやすい御用ですっ!」

 少女はすっと目を閉じると、聞き取れないほど小さな声で何かをつぶやきはじめた。

 その言葉は英語でも日本語でもなく、不思議な旋律を伴った音の流れとでも言えばいいのだろうか。意味は分からないが、耳に心地よい。

 やがて、ぼうっと少女の身体が光を帯びる。光はだんだんと強くなり、やがて直視していられないほどの明るさになる。僕は少女から目を逸らし、手で光を遮った。

 唐突に光が消えた。元の蛍光灯の明かりだけが、僕の部屋を照らしていた。小さな蛾も蛍光灯の周りで羽ばたいている。

 雨が降り込んでびしゃびしゃだった絨毯も、大穴が空いていた天井も、そこここに転がっていた木ぎれや瓦の破片なども、すっかり姿を消して、部屋は元通りの姿を取り戻していた。

「どうでしょうか! お気に召しましたかっ?」

 少女は瞳をきらきらさせながら、上目遣いに僕を見上げてくる。

 部屋の修復のついでにずぶ濡れだった自分の『修復』もしたようで、艶やかな髪はさらさらに乾き、ぐしょぐしょだったワンピースはふんわりと綺麗な曲線を描いている。胸のあたりは見ていて悲しいほど扁平だけど。

 いや待て。

 僕はさっきからとんでもない現象に遭遇しているんじゃないのか? 落ち着いて考えろ。女の子が空から屋根をぶち抜いて降ってきて、自分は「雨の精霊だ」と名乗り、あっという間に部屋を元通りに修復してしまった。

「……やっぱり夢だな。僕はたちの悪い夢を見てるに違いない。早く夢から覚めないと」

 僕は握りしめたままだった極厚の月刊マンガ雑誌を振りかぶると目の前で瞳をきらきらさせている少女の脳天を強打した。

「――っ! はっ! わたし何でこんな所に? あなたは誰ですかっ!」

「僕はこの部屋の主だ! なんだよ、夢じゃないのかよ! なんで僕がこんな目に遭うんだよ!」

「そうでしたっ! 思い出しましたよ! 願い事はあと二つです! さあ、何なりとおっしゃって下さい!」

「だから、そうじゃなくて――。……願い事は何でもいいんだったよね?」

「はいっ!」

「じゃあ、僕の目の前から消えてくれ」

「えええええっ!? そ、そんなの困りますっ! それじゃ願い事を叶えたことになりませんから!」

 晴れやかな表情から一転して泣きそうな顔になる少女。願い事を言ってくれとしつこく食い下がる少女の脳天にもう一撃加えたい衝動に駆られたが、自制心をフル稼働してなんとか回避すると、僕は少女に尋ねた。

「願いを叶えないと、僕の前からは消えてくれないってこと?」

「はいっ! わたしのお仕事ですからっ!」

「それじゃあ、二つめの願い事。君の名前を教えて。知らないんじゃ呼びにくいから」

「そんなことでいいんですか?」

 少女はくりくりとした目の中に『?』を浮かべている。

「うん。二つめの願い事はそれでいいよ」

 僕の言葉に嘘がないことを感じたのか、少女は多少不満げな表情をうかべつつも、こう答えた。

「雨音です。雨の音と書いて、あまね」

「そう。雨音か……いい名前だ」

「そうですか? えへへっ、褒められちゃいましたっ。それでは最後の願い事をお願いしますっ!」

 最後の願い事、と言われて、僕は何とも困ってしまった。

 願い事は何でもいいらしい。でも、雨音が納得しないと願い事とは認められないようだ。

 だが、僕は今の生活がそこそこ気に入っていて、特に不満を感じていない。

 大それた夢もなければ、野心もない。

 つまらないヤツだと笑ってくれてもいいけれど、僕は本当にいまのそこそこ楽しい生活に満足しているのだ。

 眉間に皺を寄せて悩む僕の目の前には、胸がぺったんこな事以外は完璧超人な美少女が瞳を輝かせて立っている。僕の願い事を待ちながら。

「んー、本当に何でも願いを叶えてくれるんだよね。……しばらく考えさせて……って、これも願い事にカウントされちゃう?」」

「特別にノーカウントにしておきますっ! 実はわたしもそろそろ眠くなってきてまして……えへへ」

「じゃあ、最後の願い事はゆっくり考えるってことで。僕は居間で寝るから、雨音はベッド使って」

「いえいえ! 私が居間で寝ますから!」

「遠慮しなくていいから。布団はちゃんと干してるし、シーツだってちゃんと洗濯してあるから」

 雨音を半ば無理やりベッドに押し込むと、僕は部屋の入り口にある伝統のスイッチに手をかけた。

「それじゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 カチリと音がして部屋は闇に包まれる。静かな雨音だけがかすかなリズムを刻んでいた。

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