第八節20項「遊子なほ残りの月に往く」

 第四龍礁の大部分を占めるレベルB。その広大な森林を縦断する大峡谷地帯を大きく迂回し、本部への帰還を目指すティムズとパシズは、未だ旅路の途中にある。

 アロロ・リガーレの追跡を断念してから既に丸一日半。龍礁ならではの複雑な地形とアロロ・ファナトたちの急襲に阻まれ、果てしなく続く森に囚われたまま、思う様に歩を進めることが出来ずにいた。


 邪龍の狂信者の殆どは、行方を眩ませたアロロ・リガーレと共に何処いずこかへ去ったようだが、それでも尚続く奇襲を警戒しつつの行軍に消耗を強いられていた。


 日は既に落ち、月明かりに照らされる旧街道に出た二人は、且つての監視哨の跡を見つけ、そこで一晩、足を休める事にした。一刻も早く仲間たちと合流をしたくとも、蓄積した疲労とダメージを引きずる身体はもう限界だった。


 簡易的な石積みの砦の殆どは崩れているが、深夜の森の真っ只中よりは大分まし。砦の支柱を利用した警戒線を張り、交代で見張りに立ちつつ、とにかく少しでも体力を取り戻すことに専念する。



 ティムズは漠然とした不安に襲われていた。逃走したアロロ・リガーレの行方は勿論、その覚醒が意味するところは龍脈の異常。自分たちの手では取り返しのつかない事態が進んでいるという確信が畏れと焦りを呼び、まだ傷痛む胸に満ちていた。


 石積みの間に起こした小さな焚き火の傍で横になってみても、なかなか眠れずにいたティムズだったが、やがて意識は静かに迫った睡魔に捕まり、閉じた瞼の闇の中へと沈んでいった。


 ――――――――――――



「………………」

 ふとティムズが目覚めると、焚き火の向こう側に、パシズが仁王立ちで石積みの外を見張っている後ろ姿が眼に入る。


「……!すいません、もしかしてすげえ寝てました?俺」

「そうでもない。二時間というところだ」パシズの背中が応えた。

 

 もしかしなくても、ずっとその体勢で居たのだと悟ったティムズは、重い身体へ無理矢理に言う事を聞かせ、起き上がろうと唸る。


「とりあえず茶でも飲んでおけ。ゆっくりで構わんぞ」と、再びパシズの背中。


 焚き火の周りには木を削って作ったらしい即席の茶器が用意されていて、火に掛けられた容器で湯も沸かされていた。いつの間にこんなものを?ティムズは感心する。短剣一本あればなんとでもなるというパシズの言葉は本当だった。



「あちちっ……」

 木皮の椀で粉末状の茶葉を湯に溶き、口にする。

 苦い泥の様な味だったが、胃の中に流れ込むと、身体の芯から温まる感じがした。


 その間もパシズは微動だにせず、視線の先の闇を見つめ続けていた。


 その頼り甲斐のある背中を見ていると、まるで父親とキャンプをしているような気分になる、とティムズは思った。この一年と数か月、龍礁監視隊員レンジャーとしてだけではなく、一人の男としての生き方というものをこの灰髪の熊のような男から叩き込まれてきた。それは、もし居たならば父親から学ぶはずだったものだ。


 しかし本当にこんな父親だったらそれはそれでなんかヤだ。

 そうも思ったティムズの木椀が小刻みに震えて音を立てる。


「……どうした?」

「いいえ……」


 笑いを収めて、パシズの背へ語り掛ける。


「ほんとタフですよね。一体どう鍛えたらそうなるんですか」

「さあな。だがそういうお前もその胸の傷でよくやる」

「あんたの根性が感染したんですよたぶん」

「その口の利き方はミリィから伝染うつったな」


 ――ミリィ。そうだ、今彼女もたった一人で夜を耐えているはず。

「……皆、大丈夫かな。マリウレーダは無事に戻れたんでしょうか」

「ビアードとレッタならきっと大丈夫だ。あと、あのバカもいざとなれば役に立つ」


 パシズは冗談を飛ばしたつもりだったようだが、仲間の顔を思い浮かべたティムズに、やはりまた居ても立っても居られない焦燥感が湧く。こうしてゆっくりしている場合じゃない――。


「ティムズ」

 身じろぐ気配を感じたパシズがそれを制した。

「お前は、遠くを見ようとしすぎる癖がある。状況は良くないが、なればこそ先ずは足元をしっかりと見て一歩を踏み出さねば、道を誤るぞ」


「………はい」

 ティムズは目を瞑り、不安と動揺を鎮め、頷く。


「夜明けと共に出る。まだ暫くは時間があるから、もう少し寝ておけ」

「もう充分です。あんたこそ少し横になった方がいい」


 仁王立ちのままのパシズが、振り返らずに応える。

「俺なら平気だ」


「俺の子守じゃ安心して眠れませんか?」

 ティムズは少しだけ語気を強めた。

 

 パシズの肩が揺れる。ティムズの強気な物言いに笑った様だった。

「……では、任せるとするか」



 そして横になったパシズの代わりに、ティムズが見張りに立つ。


 最も暗く、最も冷え込む時間帯。時折吹く冬風に揺れる梢の囁きだけが、周囲の暗闇を紛らわせてくれる。


 しかしやはり、ティムズの心のざわめきは収まらなかった。


 マリウレーダ隊の安否は勿論として、ここまでアロロ・ファナト以外の龍族の姿を一切見かけていないのも気掛かりだ。普段なら嫌という程目にする龍たちもまた、邪龍たちから逃れ、隠れているのだろうか。


「……そんなに心を騒がせていては、眠りたくとも眠れん」

 その緊張を感じ取ったのか、横たわって目を瞑ったままのパシズが億劫そうに口を開いた。


「……すみません」

「何かを話せ。独り言でいい。そうすればお前自身が落ち着くし、つまらん話なら俺も眠れる」


「そんな事言われても」

 ティムズは苦笑いを浮かべたが、やがて小さく語りだす。


「……色々と起こりすぎですよ。ここは」


「次から次へと起こる物事に翻弄されっぱなしで、何が重要なのか、何を優先すればいいのか、正直言って、もうよく判らない」

第四龍礁ここは、俺には広すぎる。でもその中でやれるだけやってやろうっていう意地だけでここまで来たと思う」

「そんな俺でも、皆の助けがあってどうにか死なずに済んでる。特にあんたや、ミリィのおかげで……本当に感謝してますよ」


「…………」

 応えはなかった。眠ってしまったか。

 ティムズは前を向いたまま暫しの間を置いて、言葉を紡いだ。


「……パシズ。俺もいつか、あなたみたいに強くなれますか」


 それは風が撫でる梢のさわめきに掻き消える程の囁きだった。

 しかし、届くはずのなかった弱い霊葉ことばに、低い響きが返ってきた。


「……俺の様にはなるな。俺はただ、取り返しのつかないものを失っただけの男だ」


 

 ―――――――――――――――――



「――はっ、はぁっ……」

「もう、勘弁してよね……!」


 早朝の白靄が満ちる森に、疲れきった声。


 夜を徹したアロロ・ファナトの追撃を振り切ったミリィは、息を切らしながら樹にもたれ掛かり、周囲の気配を鋭く探った。


 だが、聴こえるのは近くの小川のせせらぎだけ。


(どうしよう。今どの辺りに居るのかな、私……)ひとまずの安堵、そして溜息。

 真っ直ぐに第四龍礁本部を目指すつもりが、絶え間ないアロロ・ファナトの襲撃で帰路を見失い、現在地も見当すらつかない。


 そしてアロロ・リガーレの異様な威圧感は付かず離れず、その気配は近くはないが遠くもなく。自分を追ってきているという確証はないが、もしかするとも第四龍礁本部のあるレベルC方面へと向かっている可能性があり。もしくは自分がこのまま帰路を進めば、アロロ・ファナトの群れも連れ帰る事にもなりかねない。


 あらゆる条件を鑑みたミリィは、近くに聞こえていた川の縁へと降りて、痛いほどに冷たい水で、顔を洗って気を引き締めて。


「……最悪の場合、私一人で奴をくい止める。皆が戻るまで、持ち堪えなきゃ」

 前髪を滴り落ちるしずくを見送りながら、決言した。


 絶え間なく走り続け、激しく消耗している身からすれば無謀とも言える。しかし現状でアロロ・リガーレを補足可能な距離に居るのは自分だけのはず。



 そう覚悟を決めた瞬間、川の向こう側の森で微かな物音……いや、人の呻く声がした。「……誰!?」咄嗟に臨戦の構えを取ったミリィだが、それ以後の動きはない。

 

 緊張しながら慎重に足を踏み出し、森へと分け入っていく。

 声の主はすぐに見つかった。


 それは木陰に隠れるように倒れていた少年で、軽装の戦衣は明らかに密猟者の風体だった。しかし外套をずたずたに引き裂かれており、全身に傷を負い血塗れで、意識もなく半死半生。

「大丈夫!?」幻剣を閉じたミリィは駆け寄って、瀕死の少年の治癒を試みる。特に致命的な首の傷に掌を押し当て、残り幾ばくも無い霊基を振り絞って、出来る限りの出力で療術を施した。


「う……がはッ……!」必死の救命は功を奏し、少年は大きく咳込み、息を吹き返した。「……!」へたり込んで天を仰いだミリィも大息をつく。徹夜で駆け回った上に予想外の法術を使ったことでまた一気に消耗してしまった。



(……密猟者なのは間違いない。けど、それにしては……若すぎる)

 

 息を落ち着かせたミリィは、あどけなさを残す『少年』の顔をまじまじと観察した。歳の頃は十代後半……十六、七に見える。髪は鈍い黄金色で、伸び放題のぼさぼさ頭。基本的に粗暴な荒くれ者が多い密猟者に比べると、気弱そうな線の細い、ジャフレアム系の顔立ちだった。人によっては『可愛い子』と評価するかもしれない。


 だがミリィは苦々しく少年の顔を見下ろす。取り敢えず命は繋いだものの、呼吸は弱く浅く、まだ意識までは戻っていないようだ。衰弱も酷く、このまま放っておいては容体はまたすぐにでも悪化しかねず、それよりも先にいずれ迫ってくるであろうアロロ・ファナトの餌食になるのは明白だった。


 ――今、自分の責務は、アロロ・リガーレの補足、もしくは迅速にマリウレーダ隊へ合流すること。如何に瀕死と言えども、密猟者の保護にかかずらっている時ではない……。


 目を硬く瞑ったミリィは拳を握りしめ、惑いを押し殺そうと震えたが、彼を見捨てる事はどうしても、出来なかった。




 腰鞄に詰め込んでいたありったけのガーゼや包帯、衛生材料を使って、少年の手当てに尽くす。主な外傷は塞げたが、少年の顔色はどんどん青褪め、悪くなっていく一方だった。


「これ、食べて。美味しくないけどすぐに元気が出るから」

「…………」

 ミリィは竜骨と薬草を煮固めた例の携行糧食を口元に差し出すが、血を失い過ぎて混濁する少年は僅かずつしか口に出来ないようだった。急がねば危ないと判断したミリィは、自ら草色の煉瓦を噛み砕き、咀嚼して、少年に口移す。


 誰もが口に苦いまずいと言うだけあって、かなりの良薬。暫く繰り返していると、少年は生気を取り戻し、その頬に仄かな赤みが戻ってきた。


 そしてまた開いた療術で、少年の身体を癒し続ける。



 やがて陽が傾いて、辺りが急激に冷え込んでくると、回復の兆しを見せていた少年が震え始めた。そして昨日からまともに休めずにその身を削り続けていたミリィも、体力と体温を失いつつある。

 

 この場で火を起こすのはアロロ・ファナト達をおびき寄せる危険もあったが、ミリィは躊躇しなかった。とにかく燃えそうなものをその場に搔き集めて、簡素な火術で火を点け。

 少年を抱き起こして近くの樹にもたれ掛からせると、彼が羽織っていた外套に潜り込んで、そっと身体を寄り添わせ。しっかりと外套にくるまった。



 半ば朦朧としながらの無意識の行動だった。自分の生命にも危険を感じたからでもあるし、ここまで必死になるのは、脳裏の何処かに、且つて救えたはずのノシュテールの姿が残っていたからでもある。助けられる可能性がある者と出逢ってしまった以上、その機会を手放すことは許されなかった。

 


 ―――――――――――――

 


 気が付いた少年は、自分を抱き締めて眠っている女性の抱擁にとんでもなく驚いた。

「……!?」


 慌てて離れようと足掻いて、彼女の腕章が、話に聞こえていた龍礁監視隊員レンジャーのものである事に気付く。仲間たちから『捕まったらその場で処刑される』等と脅されていた相手に、今まさに『捕まって』いたのだ。


「うぐっ………!」

「…………」

 傷の痛みに呻く声でミリィも目覚めると、寝起きでぼんやりする目を擦りつつ、少しほっとした様子で、混乱している少年を落ち着かせようと微笑みかけた。


「れ、レンジャー……!」

「ええ。でも安心して。きみを助けようとしただけだから」

「………」

「ええと……私はミリィ=シュハル。確かに第四龍礁の龍礁監視隊員レンジャー。ちょっと仲間とはぐれちゃったんだけど、おかげできみを見つけられたから、結果的には良かったのかな」


「きみは?」

「……ノルトア=クーベン」

 人懐っこい穏やかなミリィの笑顔と、その頬傷に目を留めたノルトアは、少し頬を染めて顔を伏せた。

 



 状況を理解したノルトアが、この場に倒れていた経緯を語る。


 身寄りのない彼はずっと歳上の仲間たちの下っ端としてこき使われる生活を送っており、半ば無理矢理に『密猟兵団』に編入させられ、都合の良い雑用係、荷物持ちとして連れて来られただけの、ただの若者だった。


 そして、彼等は深入りしすぎてしまった。姿が見当たらない龍を探して奥へ奥へと進み入った末に、不幸にもアロロ・リガーレと、それに付き従うアロロ・ファナトの群れに遭遇し、十数名もいた仲間達は悉く犠牲になったと言う。


「皆、俺だけでも逃げろ、って……逃がしてくれたんだ。俺の身代わりになって、時間を稼いでくれた………」

 呆然と呟いたノルトアは、膝に顔を埋め、肩を震わせる。


「それで、必死になって逃げてきた。皆を見捨ててっ……!嫌な奴等だったけど、最期は俺を守ろうとしてくれたんだ。それなのに……!」


「…………」

 泣きだした少年の肩に手を置いたミリィは、言葉を掛けられずにいた。

 本来なら自分がそれを防げたはずだった。


「死ぬのが怖かったんだ。あんな化け物に、あんな喰われ方をするなんて、絶対に嫌だ。だから……」


「……もう大丈夫、私が、守るから」


 ミリィは、怯えて震える少年の頭を軽く抱いた。

「きついだろうけど、頑張ろう。少しでも動けるようになったら私と一緒に仲間たちの元に向かう。良い?」


「約束する。絶対に一緒に帰ろうね」

「………っ!」

 少年は泣きじゃくって、不意に出逢った救い主の胸に縋りつき、何度も頷いた。



 厳しい旅なれど、一人なら切り抜けられる自信はあった。しかしこの満身創痍で、気弱な少年を連れての逃避行になってしまった今は、全く話は変わってくる。せめて楊空艇や龍礁衛護隊グラウンドフォースとの連絡が可能になる安全圏まで到達できればなんとかなるが、しかしその行程は更に長引くだろう。



(……皆、お願い。助けて。私にこの子を助けさせて)


 ミリィは元来、都合の良い救いを求める性格ではない。それでも、守るべき者を伴う事になった今は、マリウレーダ隊の面々を思い浮かべ、助けてくれる誰かを望まずには居られなかった。


(マリウレーダ。船長、レッタ、タファール。パシズ……)

(…………ティムズ)


 恐れに震える少年を抱く胸に、少しの痛みが走った。

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