第八節19項「葡萄の蔓」

 エフェルトがネウスペジーの日陰者たちの『協力』を得て辿り着いたのは、街の中心を走る街道に立ち並ぶ、商店街の裏路地に隠れ建つ、見るからに古びた旅籠はたごだった。

 

 それは多くの人々が行き交いながらも、誰も気に留める事のない日陰の中。伸び放題の蔦に覆われた外観と同様に、その内装や調度品は朽ちかけていてカビ臭く、痛んだ床板は一歩を踏み出す毎に軋む。


 廃墟とまでは言わないまでも、とてもまともに営業をしている様に見えない玄関広間には灯りもなく、その代わりに屋根の隙間から、夕暮れに染まりつつある空の残り陽が差し込んでいる。

 


 カネとヒトの流れを追っていく内に、密猟者の斡旋に関わった人物たちが出入りしているこの宿の存在を突き止めて、踏み込んではみたはいいものの、密猟兵団という大規模な企みの中枢にしては、それほど魅力的な場所ではないと思えた。


(……外れか?あの野郎、ガセを掴ませやがったな)

 宿の様子を見回したエフェルトが血混じりの唾を吐いて、心の内で舌打ちをすると。


「どなた?今日はもう、お客は取らないことにしてあるのだけど」

「!」


 不意の女性の声に、エフェルトはぱっと顔を上げる。吹き抜けの二階に続く階段の上部に座った姿影が頬杖を付き、興味深げに見下ろしていた。

 

 それは白と黒の高級そうな生地の衣服を着た二十台後半の女性。豊かな淡黒の髪を横側に大きく束ね、編み込まれたカチューシャを被り、男好きのする笑みを浮かべている……エフェルトはすぐに解した。娼婦だ。


 だが、その出で立ちや、どこか気品のある仕草や口調は、この荒れ果てた宿の様相とは不釣り合い。(……!)エフェルトの直感が囁く。この女こそ……。


「……てめえだな。金と情報をばら撒いて密猟者どもを唆していたのは」


「…………」

 娼婦は少し眉を吊り上げて。

「そうよ。それで?」


 あっさりと認めた。

「私を捕えるおつもりかしら」


 清廉で落ち着いた声色は柔らかい。しかしその丁寧な物腰の裏に、途轍もない冷徹と重圧を感じ取ったエフェルトは内心で身震いする。ここに至るまでに何人もの腕自慢どもを叩きのめしてきたが、そんな連中アホよりも遥かに危険な敵だと、直感がまた囁いていた。


 

「……場合によってはな。必要な情報を吐いてくれるなら手荒な真似はしねーよ」

「ふふ、可愛い。怯えている癖に上手うわてを装ったりして」


 妖艶に笑った女性は、またあっさりと自身の正体を明かす。


「確かに密猟兵団の組織を手配していたのは私たち。禁識龍の実存を確かめるのが私たちの最終任務だったのだけど、それももう終わり」

「……任務?」

「私たちはデトラニアから送り込まれた工作員なの。第四龍礁における対龍戦闘や龍種のデータを集めて、本国に送っていたのよ」


 理解も及ばぬうちに次々と語る娼婦の可笑しそうな仕草を、ただ立ち尽くして見上げるエフェルトは、訝し気に目を細める。


「デトラニア……」


「まだ知らないの?侵攻の報はもう全土に広まっているはずなのに……悪ぶるだけじゃなくて、少しは時勢に興味を持った方が良くってよ」

「うるせえよ。どうして俺にそんな事を明かす?どうせ殺す相手なら、ついでに全部構わないって事か。舐めんじゃねーぞ」


「違うわ。言ったでしょう。任務はもう終わった。だから話しても本国の動向に支障はない。全ては動き出して、もう誰にも止められないから」


 娼婦は感慨に耽るように宿を見回すと溜息をついた。尚も警戒するエフェルトだったが、それは彼女の本音、本心であると思った。


「私たちがこの地でするべき事はもうない。肩の荷が降りた気分と言えば良いかしら。ようやくこんな場所から解放されるのが嬉しくて、お喋りになっているだけよ。判るでしょ?」答えも待たずに語り続ける。

「種を撒くのは大変だったわ。ネウスペジーだけじゃなく、ウォロスタシア、イグニム。セリテニア……ああそうそう、マロベリーにも行ったっけ。ところで――」


 娼婦の顔がぐるりと向き直り、そのサファイアの様な深青の視線がエフェルトの顔……と言うよりも、黒帽で留まった。

「――弟くんは元気?エフェルト=ハイン」


「……!?」

 一気に緊張が張り詰めた。息を呑んだエフェルトは慎重に言葉を選ぼうとするが、口をついて出たのは単純な問いだけ。


「……何故、俺の名を知っている」

「そこまで話す義理はないわね。さしずめ第四龍礁のお偉方に雇われて、私たちの事を追っていたのでしょう」

「………」


 エフェルトは首を軽く振り、余計な感情を追いやる。そして会話の主導権を取り戻そうと、自らも情報を持ってる事を示して、要件と条件をきっぱりと告げる。


「……『私たち』か。ペンス=ザネリの事ならもう大体の調べはついてる。奴はどこに居る?俺が追ってるのはあくまでもあいつだ。素直に喋るならあんたには手を出さねーと約束する。取引と行こうぜ」


 エフェルトが口にした名に、娼婦は眉をひそめる。

「……ああ。そういうことか……」

 そう呟くと、それまでの笑みを引っ込めて声を落とした。


「しまったな。まだ明かす時ではなかったようだ。前言は撤回する。悪く思うな」



 その口調ががらりと変わり、ゆらりと立ち上がった。


 そして次の瞬間、音もなく、舞い降りた。


 

 スカートの裾が一杯に広がって波打つ。その中に赤い閃きを見たエフェルトは本能的に跳ね下がり。「……ッ!!」ロビーに散雑に置かれていた木机や椅子を巻き込んで床に転がった。


「てめえっ……!?」

 素早く跳ね起き、身構える。


 娼婦のそれまでの柔和な微笑みは消え失せ、冷たく見開いた蒼眼が、奇襲を避けた男の挙動を観察していた。

 そして赤い光は、彼女が抜き放った幻剣だった。通常の青く平たい光刃ではなく、深紅の細い突剣状。エフェルトが知らない未知の様式だ。


 出入口を塞ぐように回り込んで近付いてくる『デトラニアの工作員』と相対しながら、エフェルトもじりじりと横に移動する。彼女の緩やかな身のこなしと、禍々しい光刃を放つ幻剣を構えるさまは只者ではない。一瞬怯んだエフェルトだったが、それだけにまた余裕ぶった口を利かずには居られなかった。


「何だよ、いきなりどうした。話しても支障はなかったんじゃないのか?」


 しかし女は人格を失った器の様に無反応で、再びエフェルトを跳ね襲う――。

 


 彼女の名はカロテーネ=テオム。自身で明かした身分に嘘偽りはなく。

 デトラニアが各地に派遣していた特務諜報員エージェントの一人で、娼婦を装って多くの男(時には女)に近付き、密猟者達を間接的に操っていた者。




――バキン!

「……ッざけんなよこのアマ!!」

 エフェルトは拳を打ち合わせて術拳を開き、それを迎え撃った。

 

 鋭く迫るカロネの太刀筋に合わせ、大振りの拳撃を振り抜く。互いの術式光が干渉し、激しい火花と衝撃が散り、二人は弾かれ合う様に離れ。


「……ちッ!」目眩んだエフェルトは構え直したが、幻剣と衝突した拳に纏った術式はその一撃でほぼ砕かれ、小さくパキパキと音を立てて分解されつつあった。その威力に驚く暇もなく、再び迫るカロネの姿。それを充分に引き付けてからエフェルトは吼えつつ、もう片方の術拳を撃ち込んだ。

「うおぉらァっ!!」


 再びの激しい衝撃が二人を分かつ。大きく間合いが開き、エフェルトがまた拳を打ち合わせる。その術拳の再展開を見定めたカロネの表情にも警戒の色が浮かんだ。通常の幻剣を超える強度と密度を誇るデトラニア式の紅剣の術式にも綻びが生じ、光刃が欠けていた。

 奇襲を避けられた上、追撃を真正面から受け防いでみせたエフェルトの術拳は、彼女にとっても意外なものだった。


 だが、至近距離での瞬間的な強度と威力は驚嘆に値するにしても、それを扱う本人の体捌きは喧嘩屋のそれ。大振りな上、術式の顕現には大袈裟な、隙だらけの所作が必要。跳躍機動についていけるだけの技量も持ち得ていないと、カロネは推し量る。


 ――しかしこの様な狭所、障害物が多すぎて全速を出せない地形ではその優位性も薄い。奴はそういった相性や条件も計算に入れているのか――。


 だがエフェルトがそんな細かい事を考えてるはずがない。


「何固まってんだ。女だからって手を抜いたりしねーからな!」

「……っ!」

 

 一片の迷い無く『ブン殴りに行った』エフェルトの拳撃は大外れ。

 カロネに躱され、勢い余って宿の受付に突っ込み、宿帳の棚を木っ端微塵にした。


 舞い散る木片の中を跳ね下がる『エージェント』と、野獣の様にそれを追う『喧嘩屋』の肉弾戦の始まりは突然に。そして決着もすぐに付いた。


――――――――――――――――


「ちょこまか逃げんな!最初のやる気はどうしたよ!」

「……ッ!」


 直撃すればかなりの打撃。エフェルトの我流の奥義を警戒し、ドレスをはためかせながら跳ね避け続けるカロネは、じりじりと壁に追い詰められていく。

 しかし勢いに任せて射程に捉えた彼女を狙ったはずの術拳は、二階通路を支える柱を殴り折ってしまう。古びて脆くなっていた通路は止めを刺され、エフェルトたちの周囲へ雪崩れ落ちた。


 それは弱った床板をも破り抜き。崩壊に巻き込まれたエフェルトは床や天井の残骸諸共、宿の地下に広がっていた地下室へと落下する。

「ぐおごぅっ……!」

 背中から落ちた衝撃で妙な呻きを漏らす。まだ崩落は止まっていない。続々と落ちて来る破片から逃れようと身を捩って立ち上がろうとすると――。


「!?」自分のすぐ傍ら、目と鼻の先に、腐って半分白骨化した死体の顔が。



 ――……ペンス=ザネリ!!


 ぞっとする間も無い。床に開いた大穴からカロテーネが飛び降りてきて、横たわる屍と添い寝ていたエフェルトへと紅剣を振り下ろさんとしていた。


 足掻く様に横ざまに跳びのいたエフェルトは木片をまき散らしながら転がり、体勢を立て直して、カロテーネの次の動きを探ろうと――……

 ……――居ない!

 

 穴から差し込む光の中に、もうカロテーネの姿は無かった。

 しかし側方の暗闇に紛れて回り込んで来る、紅の筋がはっきりと見えた。


(疾いのは認めてやるけどな、丸見えだ……!)


 しかし、その術式光はふっと消え。幻剣の軌跡を目追って集中していたエフェルトは、闇に溶けて消えた影を完全に見失ってしまった。


「……ッの野郎……!」

 殺気を捉えて攻撃の瞬間にカウンターを決める……と言えば聞こえは良いが、エフェルトの迎撃は完全なあてずっぽう。ただの勘。

 

 術式を全開にして振り抜いた拳撃は宙を切り、一瞬、カロテーネの姿を浮かび上がらせる。しかし次の瞬間、エフェルトの胸は、彼女が最接近と同時に展開した赤い幻剣に貫かれていた。


「……あ?」

 先ず最初に衝撃が。遅れて熱い痛みが。

 

 エフェルトの肺に、血が溢れた。

 そして半開きになった口から血飛沫を吹く。


「…………」 

 それは確かな手応えにも無表情なままのカロテーネの顔にも散り、清楚な白と黒の装束にも跡を作った。

 

 一瞬硬直したエフェルトの身体から力が抜け、そして崩れ落ちる―—………



――――――――――が、エフェルトは倒れない。


(舐めんな、つったろうが……!)


 声にもならない覇気を灯し、振り抜いて外したはずの拳でカロテーネの髪を鷲掴みにすると。

「なっ……!?」

 致命傷を与えたはずの相手の『ド根性』に完全に虚を突かれたカロテーネの無防備な胸部に、もう片方の拳撃を、渾身の力で撃ち込んだ。


「……!!」

 遂に直撃を浴びて吹き飛ばされたカロテーネはそのまま地下室の壁面へと叩きつけられる。


「……馬鹿な、有りえ……ッ……!」

 

 顔面蒼白、今にも崩れ落ちそうになりながらも立ち耐えるエフェルトの姿に愕然とし、そして完全に予想外の反撃を浴びた胸を抑える。カロテーネもまた肋骨をやられ、肺を痛めていた。


 お互いに致命的な一撃を与え、動くに動けない状態になった二人は、療術を開いてせめてもの回復を計る。そしてその視線がまた交錯した時。


『――うわ、なんだこれ!ひでえ。全部崩れてら』

『見て、穴が開いてる。もしかしたら誰か落ちちゃったのかも』

『おい、誰か居るのか!――』


 外の通りから崩落の音を聞きつけたらしい近隣の住民たちが、どやどやと宿館に踏み入ってきた騒ぎが聴こえてきた。



「……ちっ……」

 頭上の大穴に目線を投げたカロテーネは、辛うじて立ち続けるエフェルトへ、深青の眼だけで侮蔑を投げつけると、よろよろと立ち上がって、地下室から外へと続いているらしい地下道の入口の方へと歩きだす。


「……待て、まだ話は、済んじゃいねーぞ……」

 エフェルトは血混じりの言葉を吐いた。追おうにも身体が言う事を聞かない。


 住民たちが慎重に穴に近付き、頭上の床板を軋ませる音が近付いてくる。


「……貴方あなたは全てを解き明かした上で私を追ってきたのだと思ったが、そうではなかったようだ。ならばもう暫しの間、私たちの掌で踊ってもらう」


 そう言い残すと、カロテーネは地下道の闇へ溶けて行った。


「…………」(待て…………)

 エフェルトの意識はその後ろ姿と同様に、黒い闇で霞んでいった。


「ねえっ!誰か地下室に倒れてる!」

「マジかよ?って何だこの臭い……」


 そして、地下室の存在に気付いた住民たちが、床に空いた大穴から覗き込んだ。



―――――――――――――



「――あと少しでも右にずれていれば心臓を一突き。そうでなくても普通なら致命傷。なんとまあ丈夫で、運の良いお人だわ」

「一体あんなとこで何をしてたんですかねこの人。地下室は死体の山だったらしいじゃないですか」

「深入りをしてはならんぞ。命を助けん訳にもいかなかったが、この男も悪党の一味だろう。とっとと治して、早いところ出て行ってもらおう」



 熱に浮かされて断片的に戻る意識の中、複数の人物の会話が耳に入ってくる。

 

 ネウスペジーの療術院に担ぎ込まれたエフェルトは、療術士たちの尽力によって一命を取り留める。あの女カロテーネこそ逃がしてしまったが、彼女との邂逅は、未だ大国が伸ばした手が第四龍礁に絡みついている事の示唆となった。


 ――まだ追うべき相手が居る。その事実をジャフレアムへ伝えなければ。なのでまだ逝く訳にはいかない。エフェルトは川の向こうで手を振っている沢山の美女たちの誘いを、思いで断り、『こっち側』に留まることを決めたのだった。



――――――――――――――――





 カロテーネは別の潜伏拠点になんとか辿り着き、喰らった術拳の手当を施す。


 ただでさえ陽の入らない簡素な貸部屋は刻々と夕闇に包まれていく。何もかもが質素な部屋の中で唯一、それなりに上等なベッドに腰掛け、戦闘で痛んだ服を脱いだ彼女は、露わにした胸元を抑えて緑色の光を灯し、時折、呻き声を上げた。



 エフェルトに語った通り、彼女たちの任務は既に終わっている。本来なら速やかにこの地を離れるのが規定であり、彼女自身もそうしたいと願っていた。しかし、カロテーネにはまだ、この地に縛られる理由が一つだけあった。


(……。何故まだ続けている?この仕事を終えたら一緒に、遠くの国へ行こうと言ってくれたのに。戦争とは無縁の、静かな土地へ)

(しかしお前の事だ。きっとまだ何か目的があるのだろう。ならば――)


「――私は、待つよ」


 ベッドのシーツに触れ、その感触を確かめながら、カロテーネは呟いた。

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