第八節14項「その男、共謀に就き」
懐かしい
華やかな中心部からそう離れていないはずのこの区画は、建物も人も荒れ果て、薄汚れている。エフェルトが生まれ育った娼婦街とも違う、犯罪の匂いと色に満ちる街の暗部だった。
「……ここか」
程なくして、半分壊れたままの看板を掲げる、煤けた建物に辿り着く。
壊れかけた木扉は慎重に開けたつもりだが、それでもやたらと大きく軋む音を響かせてしまった。
建物は、酒場だった。薄暗い店内のあちこちの席に、見るからに柄の悪そうな男たちが屯しており、唐突に現れた見慣れない黒キャップの男をじろじろと見定めている。
しかしエフェルトは気に介さず、真っ直ぐにカウンターに向かうと、薄汚い布でコップを磨いていた店主らしき白髪の男の前に立つ。
店主は手を止め、暫く訝し気に見つめると、やがて、しゃがれた声で尋ねた。
「見ない顔だな。何にする?」
「ウイスキーで一杯の海」
「……誰からの紹介だ?」
「…………」
目を細め、声を低くした男の問いに、エフェルトは答えずにやついたまま。
沈黙まで含めての符丁だ。
「……………」白髪の店主が、顎で店の奥の木扉を差す。
頷き返したエフェルトが示された古い木扉を抜け、店内よりも更に暗い廊下に踏み入った途端、
僅かな灯りに照らされた廊下には半裸の女が行き来しており。女たちは、顔をしかめたエフェルトを見るなり近付いて、その身体に軽く触れつつ、身体をくねらせて下品な仕草と笑みを向けてくる。
その内の一人の、長く乱れた髪の奥の顔に大量の赤い発疹を見たエフェルトは舌打ちをすると、娼婦たちには目もくれず、更に奥へ進んだ。
廊下の両脇に並ぶ小部屋には扉すら無く、部屋で蠢くベッドと複数の男女の影と声が廊下に滲み出していた。ある程度の規模をもつ街には必ずある一面。人が群れればそれだけ、影も大きく、濃くなる。
とは言えあまりに猥雑な光景を、エフェルトは鼻で笑った。
この様な場所にまた戻ってきたのは、ジャフレアムから受けた密命を果たす為だ。
奥の事務所らしき部屋の作りは酒場や娼館とはまるで違い、それなりに立派な様式の家具が取り揃えられていた。そして、用心棒と思われる屈強な男二人が守り立つ龍皮のソファにゆったりと座る男の姿。年の頃は三十後半といった感じか。
高級な黒生地で設えたローブと、きっちりと撫でつけた短髪。そして整えられた髭。若干神経質そうではあるが、その人相は店内のどの者よりも気品があり、落ち着いた様子のこの男は、ネウスペジーの裏社会において重要な立場にあるのは間違いない。
「どうも。突然の訪問、お許しを」
「……俺は忙しい。さっさと用件を言え。女か?薬か」
丁寧に黒帽を取って適当な礼をしてみせたエフェルトを一瞥し、男が訝し気に答える。
「コネだ」
エフェルトは即答した。
「第四龍礁での密猟を組織してる元締めに会いたい」
「……理由は?」
「重要な話があるとだけ。詳しくは言えねーな」
「……」
へらへらと笑うエフェルトを男の鋭い目が抉る。
「そいつの事は俺達が知りたいくらいだ。俺達のシマで好き勝手にやりやがって。若い衆を使って正体を探らせているが、尻尾すら掴めん」
「だが、資金の流れくらいは判るだろ?報酬の出所を探ってほしい」
「どうやらその野郎は複数の国、都市にまたがって活動している。そう簡単にはいかねぇよ」
男は酒瓶を手に取り、グラスにほんの少しだけ注ぐと、その香りだけを軽く楽しむ様に揺らす。
「黒帽の男……。てめェだな。ウチの下っ端連中を叩きのめしたってのは」
「正当防衛だ。ああいう頭の悪い野犬を飼うつもりなら、躾はちゃんとしとけ」
「別にお前を責める気はねェ。この場所を吐きやがったあの馬鹿共にははらわたが煮えくり返るがな」
「で、どうなんだ?手を貸してくれるなら勿論、礼は弾むぜ」
「はッ。先ずは一番大事な数字の話からだろうが」
「前金で二万。突き止められれば更に八万。経費は別。何か必要な情報があればそれも提供する」
そう言ってエフェルトは、鞄から革袋を取り出すとテーブルへ乱雑に放り投げた。
「…………」
男は用心棒の片方に目で促し、頷いた用心棒が革袋の中身を改めると、確かに大量の金貨が詰め込まれていた。
「兄貴、本物です。ダルグ金貨だ……こいつはすげえや」
「……………」
男は、突然現れて気前の良い条件を提示するエフェルトの素性や真意を見定めよううと、氷の様な冷たい目で見据える。何もかもが疑わしいが、確実なのは目の前にアラウスベリア全域で通用する基軸通貨が山と積まれている事だ。しかしそれがまた、この胡乱な男と同様の怪しさを醸し出している。
エフェルトは猜疑に固まる男の返答を、余裕を以て待った。
疑われるのは承知の上。しかしどんな連中であろうと結局はカネが持つ魔力には抗えない奴隷である事を、誰よりも知っている。
――――――――――――
「――外殻装甲板の換装、可動翼の分解修理、その他諸々。……はあ……また時間も修復費も
「いつもの事だろ?それを心配するのは経理の連中と、我らが上司であらせられるイアレース上等管理官どののお仕事さ」
損傷個所のレポートを確認するレッタの青色吐息を、タファールが笑った。
二人とも墜落時に結構激しく顔をぶつけていたらしく、その顔には判りやすい青あざが浮かんでいる。その程度で済んだのかという話でもあるけど。
「実際現場で働くのは殆ど私なのぉ……」肩を落として力なく笑うレッタ。
「でも、あんまり派手にやらかすと俺達の俸給にも響くんだろ。それはもう勘弁してほしいんだけど……」
手伝える事もなくなったので、その辺で座り込んでいたティムズが溜息をつき。
「確か、おばあさまに殆ど送金してるんだっけ。偉いなあ」
同じく手持ち無沙汰でうろうろしていたミリィが振り返った。
樹海の底に
楊空艇の運用に掛かる諸経費の話はやがて各々の『お金の使い道』についての話題へとすり替わっていく。いくら龍という神秘の象徴を相手にする
「そういうミリィは普段どういう風に金を使ってるのさ」
「…………ええと」
「ヒントをあげよう。食費」
ミリィが答えあぐねていると、レッタが見向きもせずに口を挟んだ。
「ああ」腑に落ちるティムズ。
「やめてよっ!それだけじゃないもん。そういうレッタこそ学術書や資料でいつも無駄遣いして……」
「お腹に詰め込むより頭に詰め込んだ方が有意義でしょ」
「ぐ……」
「まあ、そのおかげで跳ね回る元気が生まれるならいいんじゃないかな」
「そう、それ!腹が減っては戦は出来ぬって言うもんね!」
『姉妹』の会話に半笑いになったティムズのフォローは適当な皮肉だ。しかしそれを真に受けて強気になったミリィの声は、ちょっと大きくなった。
「やっかましいな。する事無いなら無いで、大人しく待ってろっつうの」
「むうう……」
タファールのわざとらしい独り言に少しむっとした彼女だったが、すぐにその表情は曇る。
「……タファールも、まだ妹さんの療養費を払ってるんだよね」
「ん?ああ」
「そっか……」
「まあ、大した額じゃない。それにもうすぐ療養院を離れる事が出来そうだしな」
「ホント?そうだったんだ。良かったじゃないっ」
「何度も死にかけながら働き続けてきた甲斐があったよ。龍血の霊薬だけじゃなく、色々と必要なモノも送れたし」
自分の事の様に喜んだミリィに応えるタァールの、何処か思慮深い穏やかな横顔を見たティムズは、こんなバカでもやっぱり家族は大切なんだな……てっきりネウスペジーで酒池肉林を嗜む為だけに使い込んでるとばかり思ってた。と、思った。
そして話題は他のクルー達の懐事情にも移る。
「船長は遠国に暮らす家族へ生活費を送ってるんでしたっけ」
「うむ。下の娘の進学も近いから、しっかり働かねばな」
「娘さんが居たんですね……」
一瞬、髭の生えた女の子を想像したティムズだったが、それは黙っていた。
ティムズの目は船長席の奥で術具の確認をしていたパシズにも向く。
「……何だその目は。俺も無駄遣いをしているように見えるか」
「その身体の鍛えるための何かを買ってそうには見えます」
「それは否定しないが、殆どは戦傷者基金への寄付に当てている」
「ほんと真面目が過ぎますよね、アンタ」
「お前がちゃらんぽらん過ぎるだけだ」
にやつきを取り戻して茶化すタファールをパシズが睨みつけるが、今回は珍しいことに、ミリィがタファールを庇うように口を挟んだ。
「……タファール。妹さんはどういう病気だったの?」
「免疫不全の一種だよ。普通の風邪でも危ないから、完全に管理された療養院でずっと暮らしてる。まあ、ちゃんとした生活を送ってる限りは問題ないけど、普通に恋をしたりイチャついたりできないのは、ちと可哀相かな」
これまで何度かそれとなく訪ねても、その度にはぐらかされて来た質問を、今日のタファールは素直に応える。本当に彼にとってそれ程大切な事が起きたのだとミリィも感じていた。
「…………」
その思惑通り、パシズは懐かしむ様に笑うタファールをそれ以上責めなかった。
「……本当に、良かったね」
「……ああ」
タファールは照れ臭さを装って、ミリィの真っ直ぐな微笑みから顔を背けた。
ぼんやりとそのやりとりを聞いていたティムズは
「……あれ?妹?弟じゃなかったっけ」
「ん?妹だよ。俺似のすげえ美人だけど、お前にはやらねえからな」
「いらねえよ……」
そしてその返事に苦笑した。どう考えてもこいつが女装した姿しか思い浮かばない。
――パチン。
その時、F/III龍の接近を示す警戒式の赤い光が広がり、ブリッジの空気が一変した。
「……!」
「……やっぱり長続きしなかったか。龍種も数も不明ですけど、確かにこっちに向かってきてる奴が居ます」
「ミリィ、ティムズ。行くぞ。警戒線を張る」
「はいっ」「はい」
だが、最後にブリッジを出て行こうとしたティムズがふと立ち止まり、クルー達に振り返った。
「まさかとは思うけど、俺達を置いて飛んで行ったりしませんよね」
「早く来なさいって!」
すぐにミリィの声がして、真顔のままのティムズは扉の外に引っ張られていった。
「……あのバカ、また余計な事を言い残して行きやがったな」
その様子を見送ったタファールが笑いを噛み殺した。
―――――――――――――――――
都市を呑み込んで成長を遂げた皇樹の都は、以前にリビスメット追跡戦の舞台となった森よりも遥かに深く、鬱蒼としていた。樹々に貫かれて崩れ去った石積は苔に覆われ、何もかもが深緑に包まれた幻想的な世界を創り上げている。
「どうだ?ミリィ」
「……近くまで来てるけど、まだ様子を探ってるだけ……だと思う」
三人は比較的開けた地点の木陰に身を潜め、楊空艇に近付いて来ているという龍への警戒に当たっていたが、龍に対する勘の鋭いミリィの答えには緊迫感はなく、パシズもティムズも何処か落ち着いた様子だった。
「……」
「…………」
鳥の鳴き声と、風が樹々を揺らす音。そしてミリィのお腹が鳴る音。
「っ!」
「ほんと、月にどれくらい使ってんだか」
もう彼女の生態に慣れたティムズはくすりともせず、ただ呆れた。
パシズは全く反応していない。
「もうその話は良いでしょ……」
先程までの雑談の続きの様なやりとり。それは迫って来ているはずの龍が敵意を持つものではない事を、三人ともが初めから感じていたからなのかもしれない。
「……!来た」反論を諦めて苦笑していたミリィが顔を上げる。
程なく、何かが這うような音と、樹々を揺らす音が近付いてきた。
周囲の空気の温度が下がったような……いや、実際に冷たく、張り詰めていく。
そして三人は、樹々の合間から現れた一体の龍の姿を見た。
「……古種……」
それは、数多の龍を見てきたパシズでさえも息を呑む程の神妙な空気を纏う、老いた龍だった。
体高は七エルタ程、後右脚はもう動かないらしく、引きずる様な恰好で歩いて来る。しかし細く長い首はしっかりと伸ばして立てた、凛とした立ち姿。
二本あった筈の鹿の様な大角の片方は根本から折れ、且つては立派だったであろう翼も殆どがぼろぼろになっている。
全身を覆う灰色と青の混じった鱗はその殆どがひび割れ、傷つき、削れていて。
その全てが、この龍が生き抜いてきた悠久の時を現わしていた。
「…………」
ティムズも、恐らくは三百年前の戦いで傷つき、生き残ったのであろうこの『りゅう』を表現する言葉を見つけられずに、ただ見惚れていた。数百年……もしかするとそれよりもずっと永く。人々が語り継ぐ伝説そのままの姿で現れた老龍が神秘と時を纏いながら、緩やかに流れる川の様に進む姿を、ただ見守る。
やがて老龍は立ち止まると、小さく美しい頭を上げて、楊空艇のある方角を見、進行方向を変えた。「あっ」それに気づいたミリィがぱっと立ち上がって。
恐らくは自分でもよく判ってないまま、ティムズとパシズが止める間もなく、木陰から飛び出して、老龍の前に立つ。
「………」
老龍は、唐突に現れた人間の厳かに見下ろし、サファイアの様な深い青色の両眼で見つめた。
その眼は何処までも穏やかな水平線の様に、見る者の心を鎮める色をしていて。在りのままの自然と知性を内包する慈しみに満ちていた。
ミリィは呆然としながらも、その瞳をじっと見上げて、ただ、首を振った。
言葉すら不要な、限りなく純化した意思の疎通。
やがてその首が僅かに揺れたかと思うと、老龍はゆっくりと向き直り、全てを包み隠す、龍礁の最奥部へ続く森の中へと姿を消していった。
「………」
ティムズもパシズも漫然と老龍との邂逅に浸っていたが。
「……ミリィ!」
はっとしたティムズが、老龍が去ってからもその場に立ち尽くしたままのミリィの元に駆け寄ると、彼女はゴーグル越しからでも判る程に、目に一杯の涙を浮かべていた。
「……あれ、どうしたんだろ。なんか急に、すごく懐かしい気分になっちゃって」
ミリィはティムズの気配に気付くと、ゴーグルを上げて、目をごしごしと擦る。
「あんなに……凄い龍を間近で見たんだ。そうなってもおかしくないよ。俺もなんか泣きそうになったもの」
ティムズは少し笑い、冗談ぽく付け加える。
「でも、もう行こう。マリウレーダも発進出来る様になってるはずだし。こんなとこに置いてかれたらそれこそ本当に泣いちゃうって」
「うん……」
ぐすっと鼻を鳴らし、くすりと笑って応えたミリィは、一度だけ老龍が消えた方をちらりと見て、それからティムズ、そして二人を待っていたパシズと共に、飛び立つ寸前の楊空艇マリウレーダの元へと戻っていった。
――――――――――――――
無事に戻った三人だったが、森の中で出逢った老龍のことは、報告しなかった。
それは何故なのか、明確な理由はない。強いて言うならば、あの龍はもう間も無くその命を全うするものなのだという気がしたからだ。たかが人の想いや価値観がそれに触れることは意味はなく、
そしてあの老龍の姿は、目撃した三者に別々の想いも抱かせていた。
例えばミリィにとっては幼い時に見た絵本に描かれ、心に刻まれていた『りゅう』の姿そのものであったし、ティムズにとっては龍礁の神秘性を顕現する敬意すべき象徴、正真正銘の『りゅう』との出会いだった。
しかし、パシズにとっては。
且つて失った妻との『約束』を果たした瞬間でもあった。
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