第七節23項「アンダーカレント」
「ぶはっ……!」
崩れた桟橋と共に、氷の様に冷たい海中に落ち、思いっきり海水を飲んだティムズは、とにかく海面から顔を出すと、激しく
「ティムズ!後ろだっ!」
「ッ……!」
アルハの声。染みる視界。
海中に落ちてきた獲物を察知した F/ II-
ティムズはかじかむ手でなんとか幻剣を抜くが、水中での戦闘訓練などというものは受けていない。比較的軽装と言えども、雑多な装備品を取り着けている戦衣は重く、接近する龍に気を取られるとそのまま沈んでしまいそうだった。
一方で、一緒に水中に落ちた
海中の敵に対しては術矢の効果は薄い。海水中の法術屈折率や伝導率は著しい減衰を発生させ……ともかく、散ってしまいやすいのだ。しかし、それでも鼬鱶龍たちを驚かせる程度の事はできる。
土砂降りの雨に打たれた様に撥ねる
だが、術矢の雨をものともせず、海面を割って獰猛に迫り来るのは、ミリィが追っていた"最大の"鼬鱶龍。
「撃てッ!撃て撃て、撃ちまくれぇっ!」
「くそっ……!」
アルハも術弓を開き、引き絞る。しかし射線上にはティムズ達が居る。今はまだ射撃範囲の制御は不完全で、このまま撃てば彼等を巻き込んでしまう恐れがあった。
だが、一斉射撃は多少なりとも鼬鱶龍の接近を遅くし、その間にティムズ他二名は、岩岸のすぐ傍まで辿り着いていた。あと五エルタ、四エルタ、三……。
しかし、ティムズ。何かに足を引っ張られた様に、がくんと動きが止まる。
「!?」
海中には、木っ端微塵に破壊された、桟橋のロープも大量に沈んでおり、それがティムズの足に幾本も纏わりつき、固結びになってしまっていたのである。
あまりの運の悪さに、ティムズは思わず半笑いになった。
「冗談だろ……」
「ティムズ!何してんのっ!早く!」
共に逃れていた
『ジャァアァアッッ!!』
鼬鱶龍が海面に飛び上がり。
「………っ!」
ティムズ目掛けてダイブする。
「てぃむ――」
巨体が水面を打つ衝撃音。
そして激しい波飛沫。
ティムズの身体は、鼬鱶龍の巨体と共に、波が高巻く暗青の底へと吞まれていった。
――――――――――――
「…………」
海窟に静けさが戻り、ちゃぷちゃぷと小さく揺れる波の音だけが残る。
「……おい、どうなった?鼬鱶龍は?ティムズは……?」
経過を伺っていた男が口を開くが、そのどちらとも、海面に姿を現す気配はない。
「…………!」
海窟の入り口の先に広がる明るい海と空、差し込む光に目を細めていたミリィが、すかさず叫ぶ。
「……戻りましょう!船を沖に出すの!」
ミリィの勘は、ティムズが沖に『持って行かれた』ことを捉えていた。
鼬鱶龍の咬撃を、身を捩って間一髪で躱したティムズだったが、その足を縛っていたロープは鼬鱶龍の牙にも引っ掛かり、海中に沈んだままのティムズを岩窟の外へと連れ去ってしまったのだ。
纏わりつくロープを嫌がり、軽く混乱した鼬鱶龍は、その先で溺れかけているティムズを無視して、ぐんぐんと沖合に進み、どんどん深く潜っていく。
「ごぼごがぼごぼぼっ!」
龍よりも遥かにパニックを起こしているのはティムズの方だ。遠のいていく海面の光を見上げると、大慌てで短剣を取り出して、足を縛るロープを次々と断ち切って行くが、こんがらがった複数のロープは、切っても切っても『当たり』を引けない。
「ぼごご……!!」
黒ずんでいく視界は、深まる海の所為か、酸素が足りないのか。
それでもティムズは遂に最後のロープを切ると、死物狂いで海面へと向かった。
しかし、ロープの重みが外れた事で、鼬鱶龍はティムズの存在に感付いたようだ。
浮上中のティムズは、鼬鱶龍が大きく旋回し、再び向かって来るのを見る。
普段なら互角以上に戦えるはずのF/ II級と言えども、彼の龍が得意とする海中での機動力には絶望的な差があった。
「…………っ!」
非常に苦しい。幻剣も何処かのタイミングで落としたらしい。酸素不足の脳では、この場を切り抜ける策も見出せない。半ばやけくそになったティムズは、唯一思い付いた、最後の手段の術符を取り出し、起動した。
術機船に乗ったミリィ達が目撃したのは、海中で起きた対龍光爆閃術符の爆発で立ち昇る水柱の姿だった。
気絶して海面に浮かぶ魚たちと、鼬鱶龍。そしてうつ伏せでぷかぷか波に揺られているティムズが発見されたのはその直後の事である。
―――――――――――――――
「ほんっ……と馬鹿なんだから!下手したら自分ごと吹き飛んじゃってたのよ!」
「仕方ないだろ!息が限界で、苦しいってもんじゃなかったんだから!」
引き上げられ、無事に息を吹き返したティムズは、毛布にくるまり、その無謀な手段をミリィに責められ、反論していた。あの状況で打てる手はあれしか無かった。
「それに、こいつを誰かさんが逃がしてなきゃ、そもそもこんな事にはならなかったんじゃないんですかね?」
術機船の傍で、
「私のせい!?」
「君のせい!」
「まあまあ、こんな大物を一人で相手にするなんて、そう簡単に出来る事じゃありませんよっ」
お互いを睨み合うティムズとミリィに割って入ったメウのフォローは、心からの感心であるらしい。
「やっぱり中央深部で活動するだけあって、皆さんはすごいですっ。勿論ティムズさんも。あたしと一つしか歳が違わないのに」
「そうだな。我々だけでは被害が出ていたかもしれん。結果的にだが、必要以上に痛めつけずに済んだのは良かった。こいつもこんな目に会ったら、暫くは寄りつこうとは思わないだろう」
ロープから解き放った鼬鱶龍を棒で突つくハーディが言うと。
目覚めた鼬鱶龍はびくっ、と身体を震わせて、慌てて外洋の方へと逃げ去っていった。
―――――――――――――――――――――――
これで任務はほぼ完了……なのだが、やる事はもう一つある。灯台島の海岸に棲み処を求めてやってきていた
その手段は、海岸で特殊な香草を燃やし、嫌龍性の煙で燻すというもの。
煙に巻かれた海豹龍の幼龍たちは、きゅーきゅー鳴いて、涙ながらによたよたと海岸線へと逃れていき。その先では、我が子らを心配そうに見守る親龍たちが待っていた。
親龍に文字通り泣きつき、伴われて海に還っていく幼子。
一同は、海原を時折跳ねつつ、身をくねらせて泳ぎ行く海豹龍たちの姿を、煙に包まれた海岸線から見届けた。
「……やっぱり、共存するって難しいね」
波打ち際に立つミリィが、彼方を物憂げな表情で見つめ、ぽつりと呟く。
「仕方ないよ。きみ自身がいつも言ってるじゃないか。その為には適切な距離を取って、時には排除する必要もある。それがお互いの為になるんだって」
「そうだけどさ……」
その顔色は暗く、
「でも。人には、理性と知識でなんとかしようとする努力ができるって信じたいじゃない?」
ミリィが抱くその理想は、時に判断を曇らせる事もある。
それは、ティムズを海中に叩き落とした鼬鱶龍への対処に関してもだ。彼女の実力なら、あの程度の龍を行動不能にするのは難しくなかったはずなのだ。
「だからと言って、手を抜くのは違うんじゃないかな」
「……しつこいなあ。反省してます!」
また文句を言われるのかと、つっけんどんに返すミリィ。
しかしティムズは、ミリィの決断が、常に危機の一番中心に向かうものばかりである事を気に掛けていた。
「……俺が死にそうになったから言ってるんじゃない。きみ自身だって、これまで何度も危険な目に遭ってきてるじゃないか」
「……それも反省してる。パシズにもずっと言われてることだもの」
「それなら、あまりパシズを心配させないようにしないと」
「それをあなたが言うの?」
心配の掛けさせ度合いなら、ティムズの方だってどっこいどっこいである。ついさっき無茶な真似をした口で何を言っているんだ、と苦笑するミリィ。
「心配させてるのは、お互い様でしょ?」
「それもそうだけど……」
「でもさ。パシズだっていっつも私を心配させてる。当然あなたもね。この仕事をしている以上、心配せずに居られる日なんてない。今日みたいな事はこれからも起き続ける。その度に少しずつでも成長していくのが、一番大事なんだと思うな。時々失敗したり、迷ったりしたとしてもさ」
「迷う者にも足跡有り。足跡は力の礎と成り。ってやつか」
「そ。人生にもこんな立派な灯台みたいな標があれば、迷わずに済むのにね」
ミリィが背後の大灯台を振り返り、ティムズも見上げる。
「そうだな。往く先が確かに正しい道だと示すものがあれば、心配する事も無くなりそうだ」
灯台は、光無き闇夜の海に標を差すもの。そして人自身にも、自力では払えない闇に迷い、道を見失ってしまった時に、答えを与えてくれるものが必要な時もある。
「……そういう概念が、人が神様なんてものを必要とする理由なのかもな」
ティムズは、人々が絶対的な守護と答えを約束する機構を造り上げなくてはならなかった理由の一端を垣間見た気がした。
「何それ。いきなりスケール大きくなりすぎじゃない?」
ミリィが呆れたように笑い、そして。
「……あ、船が入ってくるのかな」
二人が見上げていた、大灯台の最上部の燈光機構が稼働した。
楊空艇の
一隻の立派な帆船が、外洋航路から
周囲には多数の F/ I-鴎龍スーラポネーが付き従う様に飛んでおり、そして、その更に上空では、一基の楊空艇が旋回していた。
第四龍礁が擁する最後の楊空艇、ラムタエリュトが、帆船の護衛の為、随行していていたのだ。
「!あれが……」
ティムズとミリィは、段々と近づいてくるラムタエリュトの巨大さに圧倒される。その全長はマリウレーダやアダーカの二倍近くあり、大小、十二基の主機関によって支えられる機体の構造も大きく異なっていた。
全体的に平たく角ばった機体は暗緑色を基調とし、機体の各部には小さな飛翔翼の他に、海洋航行用の舵らしき部品が取り付けられていて、下部の全面は大きな貨物庫になっているようだった。
且つては海運国の主力として、貨物や人員の輸送を中心に用いられていた楊空艇であり、その積載量と輸送力は、現存するどの楊空艇をも凌ぐ。
巨大かつ強力な海棲の龍に対抗する兵装も保有するこの機は、港湾基地を拠点とし、平時は海路を進む船舶の護衛を主な任務としていて、今まさにティムズ達の前にその姿を見せたのだった。
ちかちかと
「どうですかっ、ヤオナ級・制海楊空艇、ラムト・ア・エリュト!あたしもいずれ、あれに乗って空と海を駆けるんですっ」
「エヴィタ=ステッチみたいな名前……」呟くティムズに、
「命名者が同じ国の者なんだろう」
メウに腕を抱かれて連れて来られたらしいアルハが応えた。
振り返ったティムズは、二人の妙な距離感に怪訝な顔をする。アルハは困り顔だ。
しかし。
「待って。あの
ラムタエリュトが放つ術式光に目を凝らしていたミリィの声の調子が変わり、ティムズとアルハは更なる事件の予感に顔を強張らせたが、メウは平然としていた。
「ああ、平気ですよ。あれはデ・カルマスのブリーチングの注意です」
メウがそう言うと、帆船の斜め後方、ティムズ達が居る海岸線との、丁度中間地点の海面がぐぐぐ、と盛り上がり、体長五十エルタはあろうかという巨大な鯨型の龍が膨大な海水を巻き上げながら、跳んだ。
陽光を受け輝く水飛沫を纏うF/III-
その姿を捉えられたのは一瞬だけだったが、波の中に垣間見える背中は暗青色の鱗にびっしりと覆われ、海棲種特有の翼型の片鰭が突き出していた。
呆気に取られていたティムズ達に、メウがまた笑う。
「ああやって船が通る度に、近付いてきて驚かせてくるんですよ。近すぎると転覆しちゃうし、ラムタエリュトが遠ざけてるんです」
「数か月前に外洋航路が解禁されてから、主要国との船の往来が激しくなって、とっても忙しいんですよお」
「ほええ……」
巨体が海面を打つ
ティムズ達が感心していると、再びラムタエリュトの
広がる
普段駆け巡る森林とは全く違う光景が、ここにはある。
帆船と楊空艇ラムタリュトは、岬から突き出た防波壁の間を抜け、内湾へと進み入り、デ・カルマスは、海面に巨体をうねらせながら、外洋へと還っていく。
また、遊び相手を探しにいくのだろう。
ティムズ達は暫く、途方もなく広い世界と、第四龍礁を象徴する真髄の一場面に、思いを馳せていたのだった。
―――――――――――――――――――――――
思いがけない沖島での戦いと任務を終え、港湾基地へと戻ったティムズ達は、そのまま本来の予定の仕事の続きをこなす為に、庁舎地下の術具庫へと戻る。
任務の礼だから、と数名の
「このまま航路を一般の船にも開放して、デ・カルマスの観光ツアーで一儲けしようって話が出とるんだ。いくらロロ・アロロが姿を見せなくなったからと言って、素人を引率する
スキンヘッドの大男、マクマレイが笑い。
「山の向こう側に、リゾートにうってつけの、素敵なビーチもあるんですよっ。勿体無いなあ、冬じゃなければ皆さんと泳ぎに行けたのにぃ」
メウがちらちらとアルハを見ながら惜しがり。
「ねえ、この時期なら鰤が旬なのよね。寒ブリって言うの?脂がたっぷり乗ってるのに、身は締まっていてぷりぷり。一度刺身で食べてみたかったの……!」
港湾ならではの御馳走にすっかり気を持って行かれて、一人盛り上がるミリィ。
「……これは、個人携帯用の中では、最も高位の結界防護符じゃないか。ぼくたちの物とはまるで違う。これならアロロ・エリーテの火術程度なら軽く弾けそうだ」
真面目に術符の確認を行っているアルハが、手に取った術符の感想を述べている。
バラバラの話題を好き勝手に喋る面々の話は、どれも興味深い。
ティムズは、どの話に耳を傾けるかを迷った。
勿論、砂浜できゃっきゃと楽しむ水着の女性陣の姿を想像するのは魅力的だし、ミリィの解説は聞いているだけで腹が減り、涎が出そうだ。今後の戦いに直接役に立ちそうな術符についても知っておくべきである。
だが、気になったのはマクマレイが語る内容の、一部だった。
ティムズ達も、第四龍礁本部を出発してからというもの、ロロ・アロロの姿を一匹も見ていない。これまで散々、事あるごとに遭遇し、行く手を阻んできた邪龍たちが、忽然と消えたのは?制圧が進み、ほぼ壊滅させただけなのか、数偶然出会わなかっただけなのか。
こうして今、呑気に構えている場合ではないのではないか。ティムズはまた、旅路の途中で感じていた、何かをしなければならないという奇妙な焦燥感に駆られるが、ざわざわと会話が飛び交う術具庫の喧噪に、その理由はまとまらなかった。
ふと、術具庫の反対側で目録を作っていたミリィの方を見る。
先程は食事の件で元気を見せていたが、彼女もティムズと同じ様に、何かに思い入るように俯き、表情を曇らせていた。暗く沈む気分を誤魔化す為に虚勢を張っていたに過ぎないと、何となく感じる。
しかしそれは一瞬の事で、女性の
「えっ、ううん。水着なんて持ってないもん。それに、むやみに肌を見せちゃ駄目ってずっと教えられて来たせいで、その……見られるのは、恥ずかしいし……」
「今時そんなに拘らなくても良いじゃん。あなたの水着姿を見たいって人は一杯居るでしょー。それにぃ。あなたも水着姿を見たーい、って人も居るんじゃないの?例えば……ほら、あの後輩くんとか?」
慣れ慣れしく話しかける女性隊員は、小声を装っていたが、その言葉は妙にはっきり聞こえていた。そして、視線を促されたミリィの顔がこちらに向く。
余計な心配は一瞬で吹き飛び。
ティムズは慌てて目を逸らすが、一瞬だけ、目が合い。
ミリィも小声で何事かを呟き、顔を伏せていた。
「……いい加減、作業に集中してくれっ!これほどの人数でやっているのに全然進んでいないじゃないかっ」
会話を聞き咎めたアルハが頬を膨らませ、一同に喝を入れる。
「えー。あたしは興味あるなあ。皆さんの水着姿……もっとしません?この話」
「だ め だ」
そして、惜しがるメウに、頑として言い放った。
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