第五節10項「解放者」
森に埋もれつつある太古の寺院内を、深紅の爆炎が舐めた。
小聖堂から講堂へと飛び出したティムズは地を転がり、”炎術使い”の猛火の一撃から逃れる。素早く立ち上がり、次の手を探る。接近し、白兵戦に持ち込もうと試みたが、近づけば近づく程に、彼女の法術の精度や威力は指数関数的に上がり、それを掻い潜って攻撃を成功させるのは難しいと思えた。
更に、屋内という戦場が分を悪くしている。フィールドを広く使う事が跳躍術機動戦の基本であり、アドバンテージだ。講堂は幾らか広いとは言え、回避の先を読まれやすいのには変わりはない。
数舜、躊躇したのち、術弩を抜くティムズ。
「ねえ、大人しくやられてくんない?今日はもう疲れてるのよ。お猿さんみたいな龍に散々追っかけられてさあ」
踊る火炎の渦を従える黒衣の少女が、億劫そうに小聖堂から歩み出て来た。まるで二体の、赤と青の蛇の様な炎が彼女を守る様に、周囲で円を描いている。ティムズは訝しんだ。これ程の術士なら、どこぞの王家の守護として召し抱えらていてもおかしくはない。そんな実力を持つ者が、何故こんな場所に。こんな事を。
「そこで止まれ!」
ティムズは術弩を少女に向けた。だが、対龍装備のヒトへの使用は基本的に禁じられているし、それどころか、年端も行かない少女を撃つという事は、想像したことすらない。術弩を握る手は汗ばみ、微かに震えていた。
少女が、緊張するティムズの様子をせせら笑い、指を鳴らして炎術を閉じた。両手を軽くあげ、立ち止まる。
「止まったけど。で、何?」
ティムズは素早く深呼吸をして、切り出す。
「……俺はティムズ=イーストオウル。第四龍礁所属の
唐突な自己紹介に、黒衣の少女は紅の目をぱちくりさせ、そしてくすくすと笑った。ティムズはぞっとした。自分よりも若く、ミリィと比べてもまだ幼さの残る顔立ちこそ違っても、その仕草は、不気味な程に彼女に似ていた。
「名前を知ったら殺しにくくなる。ってやつかな?ありきたりな交渉の初手ね」
「……ああ、そうだよ」図星。認めるしかなかった。
少女は笑いを収め、目を細めて"ティムズ”の顔をまじまじと見つめた。ほんの数舜何かを考える素振りを見せ、やがて口を開く。
「私の名は、リャスナ。ウォロスタシア解放戦線の術士」
「ウォロスタシア……」
ティムズは反芻するが、記憶にはない国名だ。解放戦線……反乱者?しかし推測していても答えは出ない。「リャスナ」間髪入れず、少女の名を呼んだ。
とにかく相手に同調し、話を続けさせる事。交渉の基本中の基本は押し通すしかない。例え手の内が読まれていようとも。
「一体何が目的なんだ。君みたいな、高位の術士が密猟だなんて」
「お金がほしいの。何をするにもお金は必要でしょ?」
「……確かにね。うちも予算不足で大変だよ……で、何で金が要るんだ?」
努めて冷静に振る舞うティムズに、リャスナはまた目を細める。
「同調、共感からの間と質問。ぜーんぶ初歩の交渉術。自分の方が不利だって認めてるようなものよ、それ」
「そんな事判ってるさ。でも、やるしかないだろ。悪く思うなよ」
そう言うと、ティムズは構えた術弩の狙いを、少女の胸に慎重に定めた。腰を落とし、トリガーにかけた指に力を込める。
しかし、ティムズは射撃の構えを見せるだけで、少女が警戒し、身構えた隙に、一気に逃走に転じるつもりだった。少なくともこの場所で、一人で、闘うのは、確かに不利だ。追ってくれば仲間と迎え撃てるし、一旦逃がしたとしても、
だが。
振り返って跳躍を展開しようとしたティムズが、硬直する。
「………!?……えっ!?」
侵入する際に通ったはずの入口が、無い。
絶句し、講堂内を見回すティムズ。最初にこの場に侵入した時とは、明らかに講堂の構造が変容していた。場所を間違えた訳ではなかった。これは……
「逃がしたりはしない。仲間と合流するつもりだったんだろうけど、名を伝え、知られた以上、生きて帰すつもりはないということ。察しが悪いのね」
背後で、少女の冷たい声と、灼熱の火炎が広がる轟音がした。
(……
建築物の構造を『歪める』最高位の法術。主には王城や要塞などの要衝の守護の為に布術されるもので、構造物自体が強い霊力を帯びているなどの、いくつかの条件を満たさなければならない防衛術だった。霊石によって建てられた古代の寺院。だからこそ潜伏地として、
しかし、如何に強力な術士と言えども、単独で即座に行使できる規模のものではない。ティムズの疑問の答えは、すぐにリャスナ自身の口から発せられた。
「やっと気付いた?どう?凄いでしょ。準備するのに苦労した甲斐があったわ。まあ、流石に私一人で仕込める術ではなかったけどね」
「………!」
会話の
「くそっ……!!」
ティムズは鋭く振り返り、再び術弩を向けた。そして、その先で、自慢げに笑っている少女に仲間が居るという事を思い出した。――一人は、もう居ないという事も。
「……そう、お前は一人じゃない。仲間が居た。知ってるか?お前の仲間は、一人、死んだ。女の子が」
切れ切れに言葉を振り絞るティムズの低い声に、静かな怒りと後悔が満ちていく。リャスナは肩をすくめ、軽い調子で返した。
「リュギのこと?仕方ないんじゃない?どうせあの子、跳躍が下っ手くそだったし」
「ああ、でも感謝はしてる。おかげで逃げる時間を稼げたから」
「……見殺しにしたのか」
ティムズの、術弩を構える手が、また震えた。最初に構えた時の緊張とは全く別の感情が、目の前の少女に向けられる。
リャスナはティムズの眼から、それを感じ取り、嫌気が差した様に眉をひそめた。
「そういうの、やめてくれないかな……実力が無ければ死ぬ。それが世の常っていうものでしょ。目的の為に、必要な事をしただけ」
「目的?ただの金目当てだろうが。偉そうな口を利くんじゃねえ」
「偉そうなのはそっちでしょ。じゃあ聞くけど、あんたは何の為に生きてるの」
「…………」
「私には生きる理由がある。何も知らずに、考えずに、ただ口を開けて餌を待つだけの、あんたみたいな奴に説教されたくない」
「俺は自分の意思でここに居るんだ。お前みたいな奴を止めるために!!」
ティムズが吼え、残響が薄暗い講堂へ吸い込まれていった。リャスナはますます嫌悪感を強め、
「だからそういうのがウザいって言ってるのに。ひと一人死んだくらいで、そんなに熱くなるな」
「目の前で人が死ぬのを、黙って見ていられるか」
「私は沢山観て来た。あんたもその一人にしてやる」
少女の眼に、闇が閃いた。青年は、術弩を、撃った。
リャスナは左手をかざし、光矢を弾く。ティムズが術弩と同時に距離を詰め、死角から幻剣を振り払うが、少女は黒衣をたなびかせて後方へと素早く滑り、距離を取った。
展開中の炎術を操り、イーストオウルと名乗る若き
だが、決意を固めたティムズの、ダメージ覚悟の前進と攻撃は、リャスナの術式展開速度をほんの僅か、上回った。
「ははっ!この程度でマジギレしちゃう訳!?我慢できない男は嫌われるわよ!」
「余計な事をくっちゃべる女の方が嫌がられるんだよ!」
術盾、炎術、後方への跳躍を巧みに繰り返しながら、リャスナはまだ余裕を見せる。片やティムズも、距離も間も空ける事を許さず、鬼気迫る勢いで連撃を浴びせ、リャスナの炎術の高位化を防ぐ。少しでも術展開の暇を与えれば、直近で高火力の炎を浴びる事になる。後には引けなかった。
炎術式が現出し、開ききる前に、その式そのものを断つ。そして術盾を削る。正確な一手一手の取捨選択は、パシズの厳しい教えによるものだ。そんなティムズの猛攻に、
「本当に面倒なやつね……!判った!判ったから、少し待ってよ!」
焦れたリャスナが、炎術を閉じて叫んだが、
「!」
剣撃の態勢に入っていたティムズは、一閃を止められなかった。少女は咄嗟に上身を捩り、躱したが、黒い頭飾りから伸びる、リボンの一本が断たれた。
ととっ、と軽い音を立てて下がったリャスナが、ひらひらと舞い落ちる切れ端に目を留める。
「ああっ、お気に入りなのにっ」
気の抜けた声を上げるリャスナに、ティムズは警戒を緩めずに身構える。息が切れそうだった。汗が噴き出し、身体中が痛み、幻剣術符を握る腕、そして跳躍術で酷使し続けていた脚からも、力が抜けていくようだった。リビスメット追跡からの連戦で、自分も体力の限界が近づきつつある。
しかし、リャスナは攻撃の気配を見せない。
「ね、見逃してよ。あの
怪訝な顔をしたティムズに、
「どうかしら、私は逃げられるし、あんたは大儲け。お互い得じゃない?取引で済ませよう。どうせ簡単に死んでくれるつもりはないんでしょ」
ティムズは、ただ、静かに応えた。
「……お前は、何体の、龍を、殺した」
ティムズの表情の変化を見て、余計な発言をしたと気付いたリャスナは口を噤む。
暫くの静寂。
「……じゃあ、こういうのはどう?」
リャスナが、
「私自身を、あげようか。どうせあんたもこういうのが好きなん――」
「ふざけんなよ、ガキが調子こくな」
険悪な声で遮ったティムズは、再び身構え、幻剣を握る手に力を込め直した。
「……つまんない奴」
残り少ない力を振り絞り、戦意を見せる
リャスナもまた、新たに炎術を再展開した。しかし両者動かず。どちらも相手の動きを待ち、隙を捉えようという構えを取る。ティムズに残された手は、最小限の動きで耐える事だ。そうすればきっと――
それは、すぐに訪れた。軽い地響きの音が響き、寺院が鳴動した。
「!」
気配を察したリャスナが、天井を見上げた。何らかの衝撃により、建物全体が震動して、天井からは石屑がぱらぱらと落ちていた。
その事を知る由はないが、追っ手が迫っている事を悟ったリャスヤは、
「……時間切れか。褒めてあげる。こんなに長く生き残れる人に出会ったのは、久しぶりだった」
そう言うと、炎術を閉じ、背を向けて歩き去ろうとする。
「……待てっ……!」
身を乗り出したティムズに向けて、鋭く振り返ったリャスナが払った腕から、無数の光のダガーが放たれた。力尽きかけ、油断もしたティムズに、それを防ぐ事はできなかった。
その数、目視で七から八。その殆どはティムズを外れ、背後へと抜けていった。しかし、衝撃が走り、ティムズは自分の身体を見下ろす。左肩に一つ。右脇腹に一つ。術弩の光矢と同様の、術式で構築された短剣が深々と食い込み、ちりちりと音を立てて消えていく所だった。
呆然としたティムズは、
朧気になった視界の中、ゆっくりと黒衣の少女が歩み寄ってきたのが見える。その表情は、靄がかかったように、見て取る事はできなかった。
「ちょろいわね」
リャスナはティムズの胸を無造作に蹴り、地面に倒す。ティムズの意識は、激痛によって引き戻された。「―――――!!」ティムズは叫んだが、その音は自分でも認識できなかった。しかしリャスナの細く高い声は、頭の中の闇で、鐘の様に反響する。
「ティムズ。あんたの事、覚えていてあげる。だからあんたも私の事、忘れちゃ駄目よ。この傷は餞別と思い出……痛みで人は強くなるの。だから私は強くなった」
肩の尖傷を踏みにじり、身を屈めたリャスナが、痛みに悶えるティムズの鼻先に顔を近づけて、そっと囁いた。
肩の重みがふっと外れ、仰向けのまま、ティムズは瞼をなんとか持ち上げた。
彼女の姿はもう無かった。ティムズは脇腹を抑え、出血を止めようとする。しかし痛みのあまり療術に集中できない。意識が遠のいていく。
――……
聞き慣れた金色の髪の仲間の、軽やかに水面を跳ねるような跳躍術の音がした。
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