第四節5項「苦しかったら左手を胸に」
ティムズは蒸し暑さを感じ、もう目覚めていると自覚しながらもまだもう少しは眠っておきたいと頑張ってみたが、一度覚醒した意識はもう閉じる事ができず、何度かベッドの上で寝返りを打った後、遂に諦めて目を開けた。
部屋の中はまだ夜明け前の薄闇に満たされている。
ティムズは汗で湿気ったシーツに不快感を感じて身を起こすと、反対側のタファールのベッドに目をやる。彼は静かに寝ており、まだ起きる気配はなかった。
シャツとパンツ一枚のままベッドから降りると、欠伸をしながら洗面台へ向かい、顔を洗って鏡に映った自分の顔を見る。黒髪は伸びて所々遊ぶように跳ね、顔や体つきは少し痩せて凛々しくなった……気がした。それも当然だとも思う。パシズから訓練を受けていたら誰でもそうなるだろう。
そうしている内に夜が明け、部屋の中に朝日が差し込んできた。
まだ朝食には早いかもしれないが、眠気覚ましに軽く散歩でもしようと思い立ったティムズは雑に制服を着て、部屋を後にした。
――――――――――――――――――
「あ」
「……おはよう」
ティムズは食堂で、同じく早めの朝食を摂りにきたアルハとばったり出くわす。
「お先にどうぞ」
「……どうも」
給仕所に並んだ二人。
アルハが先に朝食を注文して受け取り、ティムズがその後に続く。そしてテーブルに着こうと振り返ったティムズを、アルハがその紺色の瞳でじっと見つめながら待っていた。
「……な、なに?」
「いや、少し話をしたいと思って。一緒に食べないか?」
アルハの提案に、ティムズは動揺する。しかしアルハは単純に『対パシズ戦』について話をしたかっただけらしいという事はすぐに判った。むしろそっちの方が余計な事を考えずに済むと逆に安堵した。
共にテーブルにつき、暫くはパシズの戦法や弱点について論じ合っていたが、話せば話すほどパシズに対して打つ手はない、という論拠が増えるだけだった。
「はあ……一体何をどうすればいいのかさっぱりだ」
「……ぼくが教えを受けていた頃より更に反応が鋭くなっている気がする」
「ええ?でも本人の話だと昔よりは衰えてるって……」
いつも眠たげに瞼が降りているアルハの目が少し開く。ティムズの話を意外に思ったようだ。アルハの記憶では、新人交じりとは言えど流石に3人を同時に相手するのは幾らパシズとは言え、不可能に近い
考え込む様に俯いたアルハの目線の先に、手つかずの朝食がそのまま残ってる事に気付いたティムズが笑い掛ける。
「まあ、その内何かしら突破口は見つかるよ。それよりそれ、冷める前に食べないと勿体なくないかな」
ティムズの目が、卓上のオニオンスープを差す。
「あ、ああ…そうだな」
「……うん、暖かいうちの方が確かに美味しい」
スープを静かに口にしたアルハの口元が僅かに綻んだ。
「それに、アダーカや北基地ではこんなに新鮮な物は口に出来ないからな」
「そうなんだ、どうして?」
「楊空艇では保存の利く食材しか積めないし、北基地は周辺で農作物を育てられない。家畜はせいぜい痩せた山羊が居るくらいなんだ」
「なるほどなあ…大変だね」
「マリウレーダが巡回任務に復帰すれば、君もすぐにこの苦労が判るよ」
少し悪戯っぽく笑うアルハ。ティムズも笑い返す。
「俺は味はどうでも良いから量さえあれば満足しちゃえるから」
「でも、ここは色んな国の料理を楽しめるし、それは面白いかな」
「……セリテニアの菓子は砂糖の塊だから苦手だけど…」
ティムズがアルハの出身地がセリテニアだという事を思い出し、以前ここで食べたものを思い出して苦笑する。そして意外にもアルハもそれに同調する。
常雪の寒冷地故に食材の選択肢があまり無く、込み入ったレシピは避けられ、シンプルな物が主に嗜まれる傾向にあるらしい。
「そう、そうなんだ。あの国の砂糖菓子は甘いだけなんだ……!カロリーさえあれば良いだろうみたいな。林檎を酒と砂糖で溶ける程に煮込んだだけのものとか!」
語るにつれ言葉に熱を帯びてきたアルハを見て、ティムズがまた可笑しそうに笑う。
「お菓子好きなんだ?」
「べっ、別にそういう訳じゃ…」
しかしアルハの盆には、しっかりとワッフルが鎮座ましましていた。
ティムズの目がしっかりとそれを捉えている事に気付き、アルハ観念した様に頬を染め、容疑に対して自供を始めた。
「……うん。ここのお菓子は故郷のものより味が深くて……好き」
「良い事だよ。どうせ食べるなら食べて嬉しいものを目一杯楽しまないと」
「……腹一杯はアレだけど…」
ティムズに弱みを握られた様な気がしたアルハが話題を誤魔化そうと表情と口調を改め、真剣な口調で尋ね返す。
「……ぼくも君に訊きたい事がある。どうやってF/ IIクラスを蹴り飛ばしたんだ?」
「どう考えても理屈に合わない。冗談や誇張の類ではないのかと、ぼくはまだ疑っている」
「……色んな人に言われるけど、自分でも良く判ってないんだよ、本当に」
ティムズもあの件について理解したいと思っているのは同様だった。
ただ、レッタが常日頃言ってるように『わからないものはわからない』と開き直ってもいる。そして先日のパシズの言を思い出して、それに沿って思い付いた事を話す。
「まあ……昨日パシズが言ってたみたいに、それが俺の個性っていうことなのかもしれない。きみの静かな跳躍術と同じ様にさ」
「……使いこなせればもっと皆の役に立てるんだけど」
「今のままじゃ君たちの達足を引っ張っているだけだし」
先日のラテルホーンとの闘いで殆ど役に立てなかった事、そしてあの時の痛みを思い出し、ティムズは俯き、表情が暗くなった。
その様子を見たアルハが、穏やかな口調で励まそうとする。
「………」
「焦る必要はないと思う。まだ訓練を初めて3か月なんだろう?それなのにもう、あのシュハルと共に動ける様になってるんだから……」
「だから、きみが思っている以上にきみは注目されている。アダーカ隊で噂になっているのも本当だ」
「そうかな、うちの先輩方はあんまり褒めてくれないからなあ……」
「でも……少し自信ついたよ。ありがとう、アルハ」
マリウレーダのクルー達からの扱いに苦笑していたティムズが、安心した様に屈託のない笑顔を向ける。アルハも少し微笑んで、静かに頷いた。
「……うん。それなら、よかった」
――――――――――――――――――――
「っ……」
『朝ごはん』の為に食堂に足を踏み入れかけたミリィが、テーブルでティムズがアルハと笑い合っている姿を見て、思わず扉の陰に身を潜めていた。
「…………」
ミリィの胸に複雑な感情が湧く。
アルハが自分を嫌っているだろうという事は気付いている。
その理由も大体は理解しているつもりだった。
だが、こうしてティムズが彼女とあっさりと打ち解けている光景をどう捉えればいいのかは全く判らない。無意識に左手で胸の前の衣をぎゅっと握る。
先日の戦技調練の前に、木立の間で手を触れあっていた二人の姿が思い浮かぶ。
その時と同じ様に、胸がざわついていた。
心がざわつく所為で、頭で自分が次にどうすれば良いのかを判断できない。
このまま普通に顔を出して、さり気なく挨拶して、同席して、会話に加わっても良いのだろうか?
それとも。
ミリィは暫く俯いたまま逡巡していたが、やがて静かにその場を立ち去った。
――私には、関係の無いことだから。
―――――――――――――――――――――――
朝食を終えたティムズは午前中の時間をまた学習に充てようと資料室に向かう。
そこに資料室の扉の横に寄りかかって立っていたミリィの姿を認め、立ち止まった。
「あれ……ミリィ?何でここに」
顔を上げたミリィが、少し陰のある笑顔で応える。
「やあ、イーストオウル……」
「えとね、レッタから例の術式に関係する書物を持ってきてくれって頼まれててさ」
「結構大変な量だから、探すのと運ぶのを手伝ってほしいなって思って……良い?」
「ああ、勿論」
ティムズは即答するが、いつになく静かな……というよりも元気のなさそうなミリィの様子が気になったが、ミリィが「ありがと」と言ってすぐに資料室に入っていった為、とりあえず着いていくしかなかった。
「これが頼まれていた資料のリスト。龍じゃなくて法術の応用解析関連のものばかりだから、私には良く判らないのもあって……」
ミリィがティムズに紙を渡す。レッタが記したらしいそれには『結構大変』どころではなく、40項目ほどの記載がなされていた。大体は明確に書物名が記されていたが、中には「表紙が茶色くて大きい複合関数式のやつ」等というかなり無茶な要求もあった。ティムズは呆れて笑ってしまう。
「これ酷くない?」
「うん、いつもこうなの」ミリィも微かに笑う。
「こんな量ならレッタがここに来た方が早いんじゃないの……?」
「ここに来ちゃうと、関係無い本を読み始めちゃうから集中できないんだってさ」
「掃除中にやるアレじゃあるまいし」
「本当よね」
ミリィが棚の奥から古い木箱を引っ張りだしながらまた笑った。
二人はその後レッタのリクエストに悪戦苦闘しつつも、木箱に次々と彼女のお目当ての本を押し込んでいった。大体リストが埋まり、あとは数冊となったところで、ティムズがふと思い出した様にミリィに尋ねる。
「そういえば、朝食はどうしたの。姿を見なかったけど」
「えっ?……あ、ああ……うん、ちょっとお腹が痛くって」
不意の質問に、ミリィがつっかえながら応えた。
ティムズが顔を上げて、書架の上部の本を取ろうと梯子に登って腕を伸ばしているミリィを心配するように声を掛ける。
「大丈夫?具合悪いなら休んでて良いよ」
「平気平気」
「でも……」
「平気だってば」
笑いながら応じ続けるミリィに、ティムズは少し語気を強める。
「そうは見えなかった。ちゃんと休まないと。午後も訓練があるんだし」
「……平気だと言えば平気なの。しつこいな」
ミリィの声色が沈み、冷たく言い放つ様に返す。
「……そうか。ならいい」
意地を張っているようにしか聞こえなかったが、ティムズはもう何も言わないと決め、レッタのリストに残された最後の書物を黙々と探した。
書架の奥でそれらしい書を見つけ、内容を確かめていたティムズの背中に、ミリィの細い声が届いた。
「……ごめんね、心配してくれてるのは、判ってる」
「でも、ほんとに、大丈夫だから」
「…………」
「……見つけたよ。これが最後のやつだ」
ティムズはミリィの言葉には応えず、ただ、目的の書を見つけた事だけを応えた。
――――――――――――――――――
胸元に十冊程の分厚い書物を抱えたミリィが、レッタの居室までティムズを案内する。後ろから木箱を抱えながら着いてきたティムズは、初めて女性陣の居住フロアに足を踏み入れた事に少し落ち着かない様子だった。
とにかくまずは匂いが違う。なんかもう違う。理由は判らないけど違う。
一つ一つの部屋の間隔は広く、淡く落ち着いた光術灯の光が心地いい。
まるでいつもの談話室がそのまま廊下になった感じで、廊下には豪華な図柄の青い絨毯が敷かれている。まるで高級な旅宿の様だった。
女性の
その殆どは常に楊空艇に乗り空を翔び回っているので、今ここに宿泊しているのはミリィとレッタ、そして帰還滞在中のアダーカ隊の者だけだった。
しかし一部屋一部屋が広い。ティムズとタファールの愛の巣とは大違いだ。
なんかタファールがこの辺の話をしていたな……とぼんやりしていたティムズがミリィの声で我に返る。
「レッター、頼まれてた本持ってきたよー」
どっさりある本を片手で器用に抱えながら、部屋をノックするミリィ。
その拍子に本を取り落としそうになって慌てて抱え直す。
「おっとと……居ないのかな?レッタ?」
「何処かに出掛けてるとか?」
「なのかなあ……」
「まあ、部屋に置いて行っちゃおうか」
そう言いながらミリィがドアノブに手を掛け、扉を開ける。
「……!?」
「!!」
そこで二人が目にしたもの。
それは居室の真ん中でうつ伏せになって倒れているレッタの姿だった。
「レッタ!?」
ミリィが本をばさばさと落とし、倒れたレッタの元に駆け寄る。
応答がないので肩を揺すってみるが、ぴくりともしない。
ティムズも慌てて扉の脇に木箱を置いて近寄る。
ぶっ倒れたレッタの右手の指先が絨毯をなぞった跡があった。
そこには弱々しく「こーひー」と記されている。
それを見たミリィが安心したように溜息を付いて笑った。
「あっ……カフェイン切れを起こしたのか」
「へっ?」
「ちょっと給仕場から珈琲を貰ってきて。袋ごと」
「助けを呼んできた方が…」
「ううん、大丈夫。いつもの事だから」
ティムズは本当に大丈夫なのか訝しんだが、ミリィが落ち着いた様子だったので、とりあえず
ミリィがレッタの背中をぽんぽんと叩く。
「ほら、今すぐ珈琲が来るから。しっかりして」
「こ、こーひー……?こーひー」
単語に反応したレッタが弱々しく呻いた。
―――――――――――――――――
「……あー……助かった。二人ともありがとうねえ……」
珈琲をキメたレッタが、床に座り込んだまま目を瞑って天井を仰ぎ、溜息を付く。
その傍らでミリィが心配と呆れが入り交じった表情でレッタの肩に手を置いていた。
「集中するのは良いけど、飲みすぎは身体に良くないって言ってるのに」
「飲まなきゃやってらんないのよぉ……」
「それに……ちゃんと寝てるの?」
「きぜつ、も含まれるのなら、ねてると言える」
書物の箱をレッタの文机に置きながら、ティムズは笑ってしまう。
酔っ払いの言い方だった。そしてレッタの部屋を軽く見渡してみる。
レッタの部屋は彼女の人となりをそのまま表しているかの様だった。
きちんと片付ければお洒落で落ち着いた大人っぽい雰囲気になるのだろうが、あちらこちらに書物や図面と何かの部品が散乱していて、地震があった直後と言われても不思議ではない様相を呈している。
そしてレッタ自身も何らかの災害を喰らった後の様な姿をしていた。
「あー…、えーと。じゃあ後は……私が、面倒見るから」
「ありがとね、イーストオウル」
そう言ってティムズの顔を見るミリィ。
含みのある言い方と、その眼が語り掛けているものをなんとなく察知したティムズはそれを受け、素直に従った。
「ああ……それじゃあ俺はこれで。……レッタ、本当に飲みすぎには注意するんだよ」
「あ”い”」
レッタから恐らくは返事だと思われる音がして、ティムズは苦笑しながら部屋を後にした。
ティムズが部屋を出るのを見届けたミリィが、睡眠不足と頭痛に頭をぐらぐらさせているレッタに声を掛けるが、レッタからは自動的な応答が返ってくるだけだった。
「レッタ?ちゃんとお風呂入ってる?」
「めんどうくさい」
「用意してあげるから、少し待ってて」
「嫌。ねむい……」
「駄目です。入ってから寝なさい」
「……わかった」
有無を言わさないミリィの命令口調に、レッタは渋々応じた。
ミリィが浴室に入り、浴槽に湯を張る音を聞きながら、レッタはカップに残った珈琲の残りを、ぐいっと一気に喉に流し込んだ。
――――――――――――――――――――――
「お風呂の用意できたよ」
「……んー……」
「もう、ほら!手伝ってあげるから、早く入ろう」
「う”ーん……」
意識が朦朧としてなかなか動かないレッタに対し、このままじゃ埒が明かないと思ったミリィが、無抵抗のレッタの衣服を脱がし始めた。
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